UA-135459055-1

若比丘修習随順成就者

若比丘修習随順成就者。雖不欲令漏

尽解脱。而彼比丘自然漏尽。心得解

脱。所以者何。以修習故。何所修習。

謂修念処正勤如意足根力覚道。如彼

伏鶏善養其子。随時蔭餾。冷暖得所。

正復不欲令子方便自啄卵出。然其諸

子自能方便安穩出殼。所以者何。以

彼伏鶏随時蔭餾冷暖得所故。如是比

丘。善修方便。正復不欲漏尽解脱。

而彼比丘自然漏尽。心得解脱。所以

者何。以勤修習故。何所修習。謂修

「一習時に覚習得と得卵自彼党習所欲如念処正勤如意足根力覚道。

「若し比丘、修習し随順成就する者は漏尽解脱せしめんと欲せずと難も而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解脱を

得ん。所以は何ん。修習するを以ての故なり。何をか修習する所なる。調ゆる念処・正勤・如意足・根・力・ 覚・道を修すること、彼の伏鶏の善く其の子を養い、随時に蒸餾冷暖所を得、正しく復た子をして方便して自ら卵を啄きて出てしめんと欲せざるも、然かも其の諸の子自ら能く方便して安穏に殻を出づるが如し。所以は何ん、 彼の伏鶏随時に蒸餾冷暖所を得るを以ての故なり。是の

如く比丘よ、善く方便を修すれば正しく復た漏尽解脱を

「欲せざるも而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解脱を得ん。
所以は何ん。勤めて修習するを以ての故なり。何をか修 「習する所なる。謂ゆる念処・正勤・如意足・根・力・

「覚・道を修するなり」

 

現代語訳 「弟子たちよ、(七科三十七道品の成仏法を)修行し、成就する者がいたならば、その修行者が漏

現代語訳

「弟子たちよ、(七科三十七道品の成仏法を)修行し、成就する者がいたならば、その修行者が漏

尽解説をしたいと思っていなくても、自然に心に解脱を得て漏尽解脱を得るのです。

それは、なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

いわゆる、四念処法、四正勤法、四如意足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道を修行したからです。それはちょうど、親鶏が卵を温めたり冷やしたりと十分に世話をしたならば、そのヒナが卵の外に出たいと思っていなくても、自然に殻を破り孵化してしまうのと同じです。

なぜ孵化することができたのでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

いわゆる、四念処法、四正勤法、四如意足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道を修行したからです。それはちょうど、親鶏が卵を温めたり冷やしたりと十分に世話をしたならば、そのヒナが卵の外に出たいと思っていなくても、自然に殻を破り孵化してしまうのと同じです。 なぜ断化することができたのでしょうか?

親鶏の世話が十分で、温冷の温度調節がうまくいったからです。

弟子たちよ、同様に(成仏法に則った)正しい修行をするならば、漏尽解脱を願っていなくて

も、自然に心に解説を得て、漏尽解脱を得るのです。

なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

からです」 いわゆる、四念処法、四正動法、四如意足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道を修行したからてす。

 

STECLASTE

現代語訳

「弟子たちよ、(七科三十七道品の成仏法を)修行し、成就する者がいたならば、その修行者が漏

尽解説をしたいと思っていなくても、自然に心に解脱を得て漏尽解脱を得るのです。

それは、なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

いわゆる、四念処法、四正勤法、四如意足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道を修行したからです。それはちょうど、親鶏が卵を温めたり冷やしたりと十分に世話をしたならば、そのヒナが卵の外に出たいと思っていなくても、自然に殻を破り孵化してしまうのと同じです。

なぜ孵化することができたのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

をしたいと思っていなくても、自然に心に解説を得て尽解脱を得るのです。

それは、なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

いわゆる、四念処法、四正勤法、四如意足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道を修行したからです。それはちょうど、親鶏が卵を温めたり冷やしたりと十分に世話をしたならば、そのヒナが卵の外に出たいと思っていなくても、自然に殻を破り孵化してしまうのと同じです。 なぜ断化することができたのでしょうか?

親鶏の世話が十分で、温冷の温度調節がうまくいったからです。

弟子たちよ、同様に(成仏法に則った)正しい修行をするならば、漏尽解脱を願っていなくて

も、自然に心に解説を得て、漏尽解脱を得るのです。

なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

からです」 いわゆる、四念処法、四正動法、四如意足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道を修行した

 

 

解説

七六

お釈迦さまはここで、非常におもしろい表現を取っておられます。

です。 親鶏がきちんと卵の面倒を見ていれば、たとえ卵の中のヒナが卵の外に出たいと思っていなくても、自然に殻を破って出てきてしまうというわけです。それと同様に、成仏を願っていない僧侶であっても、この成仏法を修行するならば成仏してしまうのです。じつにおもしろいたとえ話

おもしろいお話ですが、それと同時に、お釈迦さまはとても大切なことをここでおっしゃっておられます。それは、なにか?

若比丘修習随順成就者。雖不欲令漏 尽解脱。

若比丘修習随順成就者。雖不欲令漏

尽解脱。而彼比丘自然漏尽。心得解

脱。所以者何。以修習故。何所修習。

謂修念処正勤如意足根力覚道。如彼

伏鶏善養其子。随時蔭餾。冷暖得所。

正復不欲令子方便自啄卵出。然其諸

子自能方便安穩出殼。所以者何。以

彼伏鶏随時蔭餾冷暖得所故。如是比

丘。善修方便。正復不欲漏尽解脱。

而彼比丘自然漏尽。心得解脱。所以

者何。以勤修習故。何所修習。謂修

「井一

時に

覚習得と

得卵自彼党習所欲如

念処正勤如意足根力覚道。

「若し比丘、修習し随順成就する者は漏尽解脱せしめんと欲せずと難も而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解脱を

得ん。所以は何ん。修習するを以ての故なり。何をか修習する所なる。調ゆる念処・正勤・如意足・根・力・ 覚・道を修すること、彼の伏鶏の善く其の子を養い、随時に蒸餾冷暖所を得、正しく復た子をして方便して自ら卵を啄きて出てしめんと欲せざるも、然かも其の諸の子自ら能く方便して安穏に殻を出づるが如し。所以は何ん、 彼の伏鶏随時に蒸餾冷暖所を得るを以ての故なり。是の

如く比丘よ、善く方便を修すれば正しく復た漏尽解脱を

「欲せざるも而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解脱を得ん。

所以は何ん。勤めて修習するを以ての故なり。何をか修 「習する所なる。謂ゆる念処・正勤・如意足・根・力・

「覚・道を修するなり」

『応説経』における「修習と自然解脱」の文証

『応説経』における「修習と自然解脱」の文証

― 阿含経の核心構造に関する一考察 ―

1. 序論

阿含経は、釈尊の初期教説を伝える最古層の経典群である。その中心的テーマは「漏尽解脱」であり、それはいかなる条件によって得られるかという問いに集約される。本稿は、『雜阿含経・応説経』における一節――

> 「若比丘修習随願成就者、不欲令解脱、然彼比丘自然漏尽心得解脱。所以者何。以修習故。」

 

を「文証」として位置づけ、逐語的・教義的に解釈し、さらに譬喩との連関を明らかにしつつ、その現代的意義を考察する。

2. 原文と逐語訳

原文(抜粋)

> 若比丘修習随願成就者、不欲令解脱、然彼比丘自然漏尽心得解脱。
所以者何。以修習故。何所修習。謂修習念処正勤如意足根力覚道。

 

逐語訳

もし比丘が修習し、順応して成就するならば、
たとえ「解脱しよう」と望まなくとも、
自然に煩悩は尽き、心は解脱を得る。
なぜか。それは修習によるからである。
では何を修習するのか。
それは、四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道である。

3. 教義的解釈

3.1 願望と修習の区別

経は明確に、「解脱への願望」だけでは果報は得られないことを示す。ここで強調されるのは、修習そのものが因となり、果として解脱を生起させるという因果の必然性である。

3.2 三十七道品の体系

修習の対象として「四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道」が列挙される。これは後代「三十七道品」と総称される修行法であり、釈尊の教えを網羅する枠組みとして提示されている。

3.3 自然法爾の原理

「自然に漏尽する」との表現は、修習が正しく積まれるならば、解脱は意図や作為を超えて必然的に到来することを示す。この「自然法爾」の立場は、後世の大乗仏教思想にも大きな影響を与える。

4. 譬喩による補強

本経には三つの譬喩が続く。

鶏の譬え
母鶏が適切に卵を温めれば、雛は自然に孵化する。

斧の柄の譬え
斧の柄は、気づかぬうちに削れて尽きる。

船の縄の譬え
船を繋ぐ縄は、風雨に晒されて少しずつ断ち切れる。

これらはすべて、「修習が続けば、意識せずとも結果は必然に現れる」という一点を指し示している。

5. 阿含経全体における位置づけ

この一節は、阿含経が一貫して説く「実践による必然的解脱」という教理の核心を凝縮している。
すなわち、阿含経全体の「心臓部」と言っても過言ではない。

6. 現代的意義

現代社会においても、人は「悟りたい」「解脱したい」と願うが、その願望自体が解脱を保証するわけではない。重要なのは、**日々の実践の積み重ね(修習)**である。
瞑想・倫理的実践・正しい認識の訓練が重ねられるとき、解脱は「目標」ではなく「自然の果実」として実現する。この視点は、現代の心理療法・習慣形成論にも通じる普遍性を持つ。

7. 結論

『応説経』の中心文証は、「修習があれば自然に解脱が得られる」という因果必然の教えを明確に示す。
この教えは阿含経の精髄であり、三十七道品を通じた実践体系こそが釈尊の道の核心である。