第一章 根を定める ――ムーラダーラの修行
朝の光が、灰色の街を照らしていた。
真輝はコーヒーを片手に、窓際に立っていた。
遠くのビルの隙間から見える空は、薄く青く、どこか遠い。
出勤前の時間。
スマホの通知が絶え間なく鳴り続けている。
だが、その音は、心の奥には届かなかった。
彼はふと、昨日の夢を思い出していた。
――赤い光。
大地の奥で燃えていた、あの静かな炎。
「根を定めよ」
その言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
1 崩れる基盤
オフィスでは、プロジェクトの納期が迫っていた。
冷たい空調の中、キーボードを叩く音が無数に響く。
「真輝、例のアルゴリズム、もう修正できた?」
「あと少しで……」
声は返したが、心はどこか別の場所にあった。
ディスプレイの光を見つめながら、ふと思う。
――いつからだろう、地に足がついていないように感じるのは。
仕事は順調、生活も整っている。
けれど、常に何かに追われている。
一つ終えても、次の不安が待っている。
「安心」という言葉が、いつの間にか手の届かないものになっていた。
夜、帰宅して靴を脱ぐ。
その瞬間、足の裏が床に触れた感覚がやけに現実的だった。
「ああ……俺、今日、どこにいたんだろう」
自分の身体が、自分の居場所を見失っている。
その夜、彼は思い立って外に出た。
都市の灯を離れ、電車に乗り、郊外の神社のある丘へ向かった。
空気は冷たく澄み、夜の土の匂いがした。
コンクリートの下では感じられなかった“地の存在”が、
足の裏を通して確かに伝わってくる。
「ここにいる」
ただ、それだけの感覚。
それが、どれほど失われていたことか。
2 師との邂逅
その神社の境内で、掃除をしている老僧の姿があった。
白い髭、穏やかな目。
真輝が軽く会釈をすると、老人はほほえんだ。
「こんな時間に散歩かね」
「……はい。少し、息をしたくて」
「いいことだ。
多くの人は、息をしているようで、しておらんのだ。」
真輝は言葉を失った。
老僧は竹箒を止め、彼の足元を見た。
「足の裏を感じなさい。
呼吸は地から吸い、地へ返す。
それが“根”の呼吸だ。」
真輝は、言われるままに深く息を吸った。
冷たい空気が胸を満たし、吐く息が大地に溶けていく。
次第に、頭の中のざわめきが静まり、
地面とのつながりが確かなものに変わっていった。
老僧は静かに言った。
「安心とは、“安らかに心を地に置く”こと。
人は皆、空を見上げるあまり、根を忘れる。
だが、根のない木に花は咲かん。」
3 根の覚醒
夜明けが近づいていた。
境内の砂利道に、東の光が差し始める。
真輝は、土の上に裸足で立った。
足の裏が冷たく、痛いほど現実だった。
けれどその痛みの中に、奇妙な安心があった。
心の中に、赤い光が再び灯る。
それは、夢で見たムーラダーラの炎。
今はもう幻ではなかった。
彼の内側で、確かに燃えていた。
「地に根づけ。
心の安らぎは、外にあるのではない。
いま、ここにある。」
真輝は目を閉じた。
都市の騒音も、過去の不安も、未来の焦りも、
すべてが一瞬、沈黙の中に溶けていった。
――そのとき、彼は初めて“安心”という言葉の意味を知った。
それは「何も恐れない」ことではなく、
「どんな状況でも、自分の足で立てる」ことだった。
朝日が、彼の頬を照らした。
新しい一日が始まる。
しかし、その朝の光は、昨日までとは違って見えた。
彼は静かに呟いた。
「根を、定めよう。」
その言葉は、風の中で溶け、
赤い光とともに、彼の内に深く沈んでいった。




