Om Amrita Tei Sei Kara Un
オン・アミリタ・テイ・ゼイ・カラ・ウン
UA-135459055-1
Om Amrita Tei Sei Kara Un
オン・アミリタ・テイ・ゼイ・カラ・ウン
千の手と千の目で一切の衆生を救う観音菩薩

別名 千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)とも言い、生きとし生けるものすべてを漏らさず救う、大いなる慈悲を表現する菩薩です。千の手と手のひらの千の眼によって悩み苦しむ衆生を見つけては手を差し伸べる広大無限な功徳と慈悲から「大悲観音」、または観音の王を意味する「蓮華王」とも称されます。阿修羅や金剛力士などが属する二十八部衆を配下とします。
観音の中でも功徳が大きく、観音の中の王という意味で「蓮華王」と呼ばれることもあります。阿修羅や金剛力士などの二十八部衆を配下にしています。また六観音の一つに数えられ餓鬼道に迷う人々を救うといわれています。
災難除け、延命、病気治癒などあらゆる現世利益を網羅し、特に夫婦円満、恋愛成就に功徳があるとされています。子年の守り本尊でもあり、子年生まれの人の開運、厄除け、祈願成就を助けるとされます。
十一面四十二臂(ひ)で表されることが多く、四十二本の手のうち四十本それぞれが二十五の世界を救うことを示します。手には宝剣、髑髏杖、水瓶など実に様ざまな持物(じもつ)を持ち、多種多様な徳を表しています。
・奈良:唐招提寺
・京都:三十三間堂
オン・バザラ・タラマ・キリク
夕暮れ時の山寺には、静けさの中にかすかな祈りの響きが漂っていた。鐘の音が遠く谷間に消えてゆくと、僧侶の穏やかな声が堂内に響く。
「オン・アミリタ・テイ・ゼイ・カラ・ウン…」
その言葉に込められた力は、千年の時を超えて今もなお、人々の心に安らぎをもたらしている。
この寺の本尊は阿弥陀如来――西方極楽浄土の教主であり、無限の光と命を持つと伝えられる仏だ。かつて阿弥陀如来は、すべての命あるものを救うと誓い、四十八もの願いを立てた。その中でも特に人々の心を掴んだのは、「南無阿弥陀仏」と唱える者を必ず極楽浄土へ導くという願いだった。
「命あるものすべてを救う…」
若い修行僧の秀真(しゅうしん)は、その言葉を何度も心の中で反芻していた。山深いこの寺に来てまだ半年。日々の修行は厳しくとも、阿弥陀如来の慈悲に触れるたびに、彼の心は確かに浄化されていくのを感じていた。
「阿弥陀如来は、ただ遠い存在ではない。私たち一人ひとりを見守り、現世の苦しみを和らげてくださるのだ。」
寺を訪れる人々もまた、極楽往生と現世安穏を願って足を運んでくる。彼らの目には、苦悩と希望が入り混じった光が宿っていた。
ある日、ひとりの老女が寺を訪れた。痩せ細った手には、息子の遺品らしい古びた数珠が握られている。
「どうか、息子を極楽へ導いてください…」
涙を流しながら老女が祈る姿を見て、秀真の胸が痛んだ。その夜、彼は堂内で一心に念仏を唱え続けた。
「オン・アミリタ・テイ・ゼイ・カラ・ウン…」
夜空には満天の星が輝き、その光はまるで阿弥陀如来の限りない智慧と慈悲を映し出しているかのようだった。
翌朝、老女は晴れやかな表情で寺を後にした。その背中を見送りながら、秀真は自らの修行をさらに深めることを決意した。
「阿弥陀如来よ、私もまた、命あるすべてのものを救う一助となる存在でありたい。」
山の頂に昇る朝日が堂内に差し込むと、阿弥陀如来の微笑みがいっそう輝いて見えた。
命あるものすべてを救うべく誓いを立て、極楽浄土に導く


無限の寿命を持つことから無量寿如来ともいいます。限りない光(智慧)と限りない命を持って人々を救い続けるとされており、西方極楽浄土の教主です。四十八願(しじゅうはちがん)という誓いを立て、その中には「南無阿弥陀仏」と唱えたあらゆる人々を必ず極楽浄土へ導くとあり、広く民衆から信仰されました。ちなみに他力本願も四十八願の誓いから来ており、本来は阿弥陀様にすがって極楽に行こうという意味です。
阿弥陀三尊として聖観音と勢至菩薩と並ぶ姿が多いです。さらに二十五菩薩を従え、雲に乗って往生者を迎えにやってくるといわれています。そのほか来迎の様子をあらわす場合もあります。
極楽往生、現世安穏のご利益があります。また、戌・亥年生まれ守り本尊です。
釈迦如来と同じく装飾品は一切ないです。来迎印という印は、極楽浄土に迎えに来たことを意味していますよ。この印相は施無畏・与願印に似ていますが、第1指ともう1本の指をねじるのが特徴です。
特殊な例としては、宝冠阿弥陀像、裸形阿弥陀像、斜めうしろを振り返る姿をしている見返り阿弥陀などがあります。
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