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〇九六

れもやはり愉快なことではありません。老いた人ならではの喜びもありましょう。けれども老いれば体力・気力・智力も落ちていくわけですから、「老い」は決して愉快なことではありません。 わたくしなども、朝起きて、ひげを剃るために鏡を見ると、

「ああ、我、老いたり」

という感をしばしば抱きます。自分では若い気でいても、若い時のような強い体力を発揮することはどうしてもできません。老いる苦しみというものは、だれしも味わうものです。

第三は病の苦です。生きているかぎりは、病気をすることもあります。だれが考えても、病気は楽しいものではありません。病気によって得るものもありますが、相対的に見れば病気は苦しいものです。

第四は死の苦しみです。人間だれしも死を迎えます。悟りきった人でないかぎり、死は寂しいし、つらいし、苦しいものです。

なります。 以上が四苦です。この四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四つを加えて八苦に

愛別離苦とは、自分が愛しているものと離別しなければならない苦しみです。どれほど愛し合っている恋人同士、あるいは夫婦、親子、兄弟、友人であっても、いつかは離別しなければなりません。生き別れもあれば死に別れもあります。いずれにしても愛する人と離別することは、本当に苦しく、つらいことですが、絶対に避けられません。

しかも、それは人間関係だけではありません。愛するものとは、必ずしも人間だけではありません。たとえば、お金をこよなく愛している人がいます。

「おれはお金だけが恋人だ。ほかにはなにもいらない」

また、地位を愛している人もいます。内閣総理大臣、会社の社長、重役、それぞれのポストを

こよなく愛しています。

けれども、お金であろうと、地位であろうと、いつかはそれらとおさらばしなければならない

時が必ずやってきます。いくら、

「いやだー」

と叫んでみたところで、どうなるものでもないわけです。

次の怨憎会苦とは、怒んだり憎んだりしている相手と会わなければならない苦しみですが、こ

れもまた愛別離苦に勝るとも劣らない苦しみです。

「憎んだり怒んだりしているような、それほど嫌なヤツならば、会わなきゃいいじゃないか」

そういうかもしれませんが、因縁によって離れることができなくなっているから、非常に苦しいのです。その一つが「対障害の因縁」です。最初は愛し合って結婚したとしても、怨憎会苦のもとになる「夫婦緑障害の因縁」があれば、夫婦お互いが憎しみ合うことになります。まるで親の仇のように憎み合って、朝から晩までけんかばかりしています。

「それならば、別れてしまえばいいじゃないですか」

理屈ではそのとおりです。ところが、それが別れられないのです。いろいろな人間関係・経済的理由、その他さまざまな事情があって、とても離婚できません。これが因縁の恐ろしいところです。しかたがないから我慢をしようと思うのだけれども、我慢しきれなくて、毎日けんかを繰り返すのですから、日々地獄です。

さらにひどい怨憎会苦は、「両親止相差の因縁」です。この因縁があると、親子・兄弟といった、血を分けた者同士が憎み合います。ひどい時には血を見るようなことがあります。まさに怨憎会苦です。嫌な相手と会わなければいけない、それも年中顔を合わせなければならない、これはまさしく地獄そのものです。

そこまでいかなくても、会社の上司、社長が嫌なヤツでどうしようもないけれども、月給をもらわなければいけないから、そこに勤めざるを得ない、というのも怨憎会苦です。お得意さんが嫌で嫌でたまらない、というのもあります。嫌なヤツだけれども、いろいろ買ってくれるから、

「毎度ありがとうございます」

とニコニコ笑うけれども、腹の中では、

「コンチクショウ」

「オギャー」 と思っている、これも怨憎会苦です。それで血圧が上がったり、心不全などになるのです。 求不得苦とは、求めて得られない苦しみです。これも深刻ですね。人間の一生などというもの

は、求めることの連続ではありませんか。

と生まれて、無意識のうちにお母さんのお乳を求めて、おっぱいを吸う。生まれてすぐに、お母さんの愛情とお乳を求めるわけです。大きくなるにつれて、求める対象がどんどん増えていきます。そして求めて、求めて、ずっと求め続けて、人生の最期に末期の水を求めて、それをゴクっと飲んで、この世とおさらばしていく。

その求め続ける人生の中で、どれだけ求めたものが得られるでしょうか?

お母さんのお乳と末期の水くらいは、求めて得られるでしょうが、一生涯で求めたもののうち、 その大半は得られません。百のことを求

お母さんのお乳と末期の水くらいは、求めて得られるでしょうが、一生涯で求めたもののうち、 その大半は得られません。百のことを求めて、得られるのはたった一つぐらいではありません

求めて求めて、求める人生。しかし、得られるものは百に一つ、これはまさに苦しみです。

そう考えていくと、この五体そのものが苦しみを盛る器のような気がしてきます。人間とは苦の域ではないか、とつくづく思わざるを得ません。これが最後の苦、五陰盛苦です。人間そして世界を構成する五つの要素、これを仏教では五陰(五)と呼びます。色(物質的現象)、受(感 (表)、意志)、(認識・知識)の五陰です。この五陰の執着からさまざまな苦しみが出てきます。したがって人間を構成する五陰は、まさに苦を盛る器であるというわけです。

たしかに、生きているということは、とてもすばらしいことです。生きているからこそ、喜びもあるし、自分が向上することもできます。けれどもトータルしてみると、やはり、この世は楽よりも苦の方が多く、生きること、すなわち苦であります。これが、お釈迦さまがこの世の中をご覧になった結論なのです。

来世を決定する末期の境界

生きていくことは苦しいものです。しかし、その苦しみに負けずに、それを乗り越えて、いか

〇九九

 

 

 

今日の運命 Today’s Fate 今日缘分  2025年12月11日

今日の運命 Today’s Fate 今日缘分  2025年12月11

乙巳 二黒土星 歳
戊子 一白水星 節
甲寅 一白水星 日

一白水星の日

 この日には不遇、失意気味の来訪者が多いものです。自分自身も、憂い事で憂鬱になるものです。 部下や子供の問題も出る。この日は特に陰徳に心がけることが大切です。

涅槃とは完全解脱の境地

涅槃とは完全解脱の境地

聞如是。

一時仏在舍衛国祇樹給孤独

園。爾時世尊告阿難。有三善根。不

可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所

謂於如来所而種功德。此善根不可窮

尽。於正法。而種功德。此善根不可

窮尽。於聖衆而種功德。此善根不可

窮尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽

得至涅槃界。是故阿難。当求方便此不可窮尽之福。

学。爾時阿難聞仏所説。歓喜奉行

聞くこと是の如し。一時、仏、舍衛国祇樹給孤独園に在

しき。肩の時世尊、阿難に告げたまわく、「三善根(三

福道)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。

云何が三と為すや。所謂如来の所に於て功徳を種う。此

の善根窮尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の

善根窮尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善

根窮尽す可からず。是れを阿雞、此の三善根は窮尽す可

からず、涅槃界に至ることを得と謂うなり。是の故に阿

獲難、当に方便を求めて、此の窮尽す可からずの福を獲べ

し。是の如く阿難、当に是の学を作すべし」と。願の時

阿難、仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。

如是阿難。当作是

現代語訳

このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世

尊は、阿難にこのようにお告げになられました。

「三等根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができるものです。なにをもって三つの善根(福)とするのでしょうか。(第一に)いわゆる如来の所において功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。(第二に)正法において功徳を種える、 この善根(福)の功徳は無限です。(第三に)聖衆において功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるのです。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように

この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。

阿難よ、この三善根(三福道)を学びなさい」

解說

ます。 冒頭でも触れたように、阿含宗では三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し

『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、

【三善根】さんぜんごん 無貪善根・無瞋善根・無癡善根の三根。一切の善法がこの三つから生まれるからである。それらは具体的には施・慈・慧となって現われる。三毒の対。

と書かれています。しかし、この「三供養品」に説かれる三善根は、その内容がまったく異なります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生

むもとだとわたくしは考えました。

それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?

経文中に、

「此の腐尽す可からざるの福を獲べし」

ことはありません。 とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。したがって、わたくしはこれを 「三福道」と命名しました。この名称ならば無食善根・無顧善根・無癡善根の三善根と混同する

そこで、阿含宗では、三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。

さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根(三福道)が必要なのだ、ということをお釈運さまが説かれているのが分かると思います。

涅槃界とはなんでしょうか?

普通は涅槃の境地・境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それについては後述します。「五戒品』でも触れたように(本書三七頁参照)、涅槃とはサンスクリット語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解説の境地です。完全解脱とは業と因線から完全に解放された状態です。

わたくしたちは業と因縁の塊です。業と因縁によって輸廻転生を続けています。輪廻転生とは生死の転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪が廻るように絶え

仏教では人間の苦しみを分類して、四苦心苦と呼んでおります。四苦とは人間の基本的な苦しみです。さらに四苦に付随した苦しみが四つ出てきます。これを最初の四苦と合わせて八苦といいます。通常はそれらを総称して四苦八苦というわけです。

四苦八苦は以前にも講義しました(上巻・「申恕林経』一三五——一三八頁参照)が、仏教の基本教義として大切なことですから、もう一度復習しましょう。

四苦八苦 人は苦の塊

まず、四苦というのは、生・老・べ・死の苦です。これが人間の基本的な苦しみです。さらにその四苦に付随した苦しみが出てきます。それが愛別離苦,怨憎会苦,求不得苦,五陰盛苦の四つです。これらの苦を総称して、四苦八苦といいます。こうしてみると、人間というのは本当に苦の塊です。

四苦の第一は生の苦です。実際に自分の人生を振り返ってみればよく分かると思いますが、生きていくこと自体が苦しみです。生まれたこと自体が苦しみです。生きているからこそ楽しいこ

ともあるけれども、その楽しいことが次の瞬間に苦の種となっています。ですから生は苦であるというしかありません。

第二は老の苦しみです。生きている以上は、だれもが年をとります。必ず老いていきます。こ

〇九五

 

梵の座に響く声 ― 内なる法の囁き

梵の座に響く声 ― 内なる法の囁き

明星を得てから幾日かが過ぎた。
サハスララの火は、日ごとにその明るさと静けさを深め、脳の奥に宿る“場”は、かつて想像もできなかったほどに澄んでいった。

ある夜、私は坐に入った。
息は深く、心は波ひとつ立たぬ湖のようにおだやかだった。
視床下部の一点に意識を添えると、そこに潜む光が、まるで呼吸に合わせて花開くように広がっていく。

やがて、明星の光が頭頂の虚空へと昇りきったとき、
私は、音とも無音ともつかぬ“何か”を聞いた。

――ここに在る者よ。

その声は、耳から聞こえたのではなかった。
脳の中心から、あるいは胸の奥から、いや、身体のどこでもない“場所”から響いてくる。
私は思わず呼吸を止めた。

「誰なのだ」
問うというより、言葉が自然に漏れたのだ。

声は答えた。

――名はない。
ただ、汝の内に久しく眠っていた“声”だ。

それは、私自身の声のようでもあり、まったく異質な存在の声のようでもあった。
しかし、不思議なことに恐れはなかった。
むしろ深い懐かしさが胸に広がっていく。

――汝の苦しみも、迷いも、悲しみも、
すべてここに集まっていた。
そして今、ひとつずつほどけはじめている。

まるで、長いあいだ閉ざしていた部屋に風が通うようだった。
過去の記憶が、瞬間的に脳裏をよぎる――
怒り、後悔、恐れ、執着。
それらが光の中で形を失い、波紋のように広がっては静まり返っていった。

私は問うた。
「お前は、悟りを導く者なのか」

声はすぐには答えなかった。
しばしの沈黙ののち、次のように囁いた。

――導くのではない。
ただ照らすだけだ。
道はすでに汝の内にある。
私は、汝が忘れていた“光”の反響だ。

その瞬間、私は理解した。
この声は、外から訪れた存在ではない。
視床下部という根源の座が開き、
そこに眠る“生命そのものの意識”が、光の形をとって浮かび上がってきたのだ。

脳内の明星は、私を照らすだけではなかった。
私の中に眠る“古い声”を呼び覚まし、
自己と世界の境界を静かに溶かしはじめていた。

声はつづける。

――覚醒とは、
新しい力を得ることではない。
忘れていた自己の“中心”に立ち返ることだ。
サハスララが開いた今、
汝は“中心”の風景を見るだろう。

“中心の風景”。
その言葉が胸に落ちた瞬間、脳の奥に白い光が走った。
視界は閉じたままなのに、世界のすべてがそこに映し出されるような感覚――
時計の音、遠くを走る車の振動、部屋の壁の静けさ、
それらがひとつの巨大な呼吸のように繋がっていく。

私は、声に問いかけた。
「私は、これからどう歩めばよいのか」

そのとき、声は初めて柔らかく笑んだ気がした。

――道は歩くためにあるのではない。
気づくためにある。
汝が歩めば、道はあらわれる。
明星を忘れるな。
それが汝の“灯”となる。

光がふっと弱まり、
再び静寂が訪れた。
だが、その静寂はただの無音ではない。

世界全体がゆっくりと息をひそめ、
次の瞬間、また新しい音を鳴らす前の、
あの神秘的な“間”のような静けさだった。

やがて私は、そっと目を開いた。
部屋は変わらず、夜のままだった。
しかし、世界はもう、以前の世界ではなかった。

脳の奥で、明星がかすかに光る。
その光は、私の胸にある言葉を確かめるように、静かに脈打っていた。

――内なる声は、
もう消えることはない。