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三善根 ― ある老僧の教え

三善根 ― ある老僧の教え

風が梵鐘の音を運んでくる午後、若き修行僧・慧真(えしん)は、山寺の縁側で古びた経巻を閉じた。瞳に浮かぶのは迷い。なぜ、どれほど修行を重ねても、心に満ちる安らぎが得られないのか。

「師よ、私は幸せになりたいと願っております。ただ、それがどこにあるのか、わからなくなりました」

その問いに、年老いた僧・日融(にちゆう)は静かに微笑んだ。そして、炎のように赤く染まる夕日の方を見やりながら口を開いた。

「慧真よ、福とは、ただ天から降るものではない。種をまかねば実はならぬ。稲も、水も、光も、土もなければ育たぬのと同じだ」

慧真は眉をひそめた。「では、その“種”とはなんでしょうか?」

日融はゆっくりと立ち上がり、棚から一巻の古文を取り出した。それは金泥で書かれた経典であった。日融はその一節を読み上げた。

「『如来の所に於て功徳を種う。此の善根腐尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず』――これは、三善根と呼ばれる修行の教えだ」

「三善根……」

「そうだ。如来のもとで、正法の中で、聖衆との関係の中で、功徳を積む。それが三福道とも言われ、出世間の福、すなわち真の幸福を得る三つの道なのだ」

「如来のもとで功徳を積むとは、どういうことでしょうか?」

「仏に帰依し、その教えを信じ、心から仏恩を感じることだ。礼拝、供養、感謝――それらは徳の種をまく行いとなる。仏は何も要求しないが、敬う心そのものが人を変えるのだ」

「正法において功徳を積むとは?」

「正しき教えを聞き、それに生きることだ。戒を守り、清らかな言葉を用い、怒りに染まらぬ心を持て。法を知る者は、その徳により自らを清める」

「では、聖衆とは?」

「共に道を歩む僧や在家の者たち、あるいは仏道に励むすべての仲間のことだ。他者に施し、支え、共に修める。それこそが第三の功徳だ」

慧真の瞳が、次第に輝きを取り戻してゆくのを、日融は見逃さなかった。

「世の人々は“幸せになりたい”と口では言う。だが、福をもたらす徳を積むことはしない。ただ願っているだけでは、福は来ぬ。福は徳から生まれ、徳は心と行いから生じる。三善根こそが、幸いの根だ」

慧真は深くうなずいた。そして、再び経巻を開く。今度は、読むためではない。生きるために、その言葉を自らの魂に刻むために。

徳の種をまく者

それから幾日かが過ぎたある朝、慧真は本堂の裏手にある小さな畑で、黙々と土を耕していた。竹籠には数珠と阿含経が入っている。だが今日は読経ではない。彼は、日融に言われたのだ。

「経を読むだけが修行ではない。手を動かすこともまた功徳だ」

鍬を握る手はまだ慣れておらず、泥だらけになってはいたが、その瞳には確かな意志が宿っていた。

「種をまけば、やがて芽吹く。人の心も同じじゃ」

背後から聞こえた声に振り返ると、日融が木の枝に止まる小鳥を指していた。

「見なさい。あの鳥が鳴くのも、誰かの徳になる。やさしい音を聞けば、人は怒りを忘れることもある。功徳は、かならずしも大きなことから始まるのではない。むしろ、小さなことにこそ宿るのだよ」

慧真は汗をぬぐいながら問うた。

「師よ、では、私のこの耕しも、功徳となるのでしょうか」

「もちろんだ。だが、心が伴っていなければ、ただの作業となる。たとえ同じ行為でも、どのような心で行うかが、徳の深さを決めるのだ」

日融はそっと草の葉を摘み、手のひらに乗せた。

「如来のもとで功徳を積むとは、自分を超えたものへの感謝と敬いを生きること。正法において功徳を積むとは、自らの行いを律してゆくこと。そして、聖衆において功徳を積むとは、他者を尊び、支えること。お前の耕すこの畑が、皆の糧となるなら、それは立派な“第三の功徳”じゃよ」

慧真はその言葉に、初めて「喜び」という花が心に咲いた気がした。

日が高くなるころ、一陣の風が山中を通り過ぎた。その風は、ただ涼しさを運ぶだけではない。どこか、慧真の心の奥底――幼きころから持ち続けていた「何か足りない」という渇きに、少しずつ水を注いでいるようだった。

日融は言った。

「徳を積めば、福は生まれる。福は、自らの幸せとなり、やがて他の者を照らす光となる。やがて、その光が、また新たな種を育むのだ。お前はその輪を紡ぐ者になりなさい」

慧真は深く合掌し、微笑をもって言った。

「はい、師よ。私は、徳の種をまく者になります」

衆生の中へ ― 徳を灯す旅立ち

山を降りる朝、慧真は、かつての自分の姿を思い出していた。

――「幸せになりたい」と叫びながらも、徳を積むことの意味を知らなかった日々。

今、その問いに一つの答えを得た彼は、師・日融の見送りを受けながら、袈裟をたたみ、下山の支度を整えていた。

「慧真よ、これからは世の中で生きなさい。そこには迷いも欲も苦しみも渦巻いている。だが、それこそが真の修行の場だ」

「はい、師よ。三善根の道を、衆生の中で行じてまいります」

日融はひとつだけ、木の実を慧真の掌に置いた。

「これは徳の種。だが、それを実らせるのはお前の行いだ」

慧真は深く頭を下げ、里へと足を踏み出した。

 

 

 

 

增一阿含経・三供養品[全文]

增一阿含経・三供養品[全文]

如是。一時仏在舍衛国祇樹給孤独園。爾時世尊告阿難。

有三

根。不可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所謂於如来所而種

功德

此善根不可窮尽。於正法。而種功德。此善根不可窮尽。於

聖衆

功德。此善根不可窮尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽得

涅涅

界。

是故阿難。当求方便獲此不可窮尽之福。如是阿難。当作是

爾時阿難聞仏所說。歓喜奉行

善根

阿含宗総本殿

いえないのです。 わざ正信と断られていました。正法とは仏陀になられたお釈迦さまが実際に説かれた教法であり、 その正法を信じることが正信なのです。歴史上実在の仏であるお釈迦さまが、実際にお教えになられた教法、それが正法です。つまり「阿含経」に説かれている教法です。「阿含経」だけがお釈迦さまの教法を伝える唯一の経典なのですから、当然そうなります。大乗経典という、お釈迦さまの入滅後、四、五百年も経ってから創られた、ニセのお経に書かれている教法は、正法とは

なのだ」 「今、真の回来である自分が説いている教法、これが正法であり、その正法を信じることが正信

ち(創、皮を守り(金)、布施を行い(室)、正法を聞き(地)、聞いた正法を保ち(春)、正法を観断し(歌)、正法に近づき(密だ)、正法に向かう(序)行です。これが優婆塞の八法です。

優婆塞の八法の筆頭は信ですが、その信も正奮でなければならない、と『雑阿含経・一切事昼」には説かれています。お釈迦さまは、「正信を具足して他人を建立し」というように、わざ

お釈迦さまは、ご自身が亡くなられたあとに、ニセの経典が次々と創られることを予知なされて、正改と念を押されているのです。事実、お釈迦さまは、ご自分が無知で髪にぴられたのちに、ご自分の教法(正法)がすたれ、代わりに文芸人の説いたお経が人々の信仰を集めることになるであろう、と「阿含経」の中で予言されております。このことはすでに述べたとおりです (帯・五〇一五二度)、お釈迦さまは、ご自分が入滅されたあと、ニセの教法が横行することを予知されていたからこそ、正信・正法とおっしゃっているのです。

というように、さまはおっしゃっているわけです。お釈認さまは、

 

かないのです。功を種う」です。どれほどの功徳を種人ても。

きたのかからないような法に基づいているならば、功徳は決して実りませ人。ニャの例米のもとで所を種えても、福が実らないのと同じことです。正法に基づいて修行なな、もたなかありません。正法において功徳を種えてこそ、成仏の福が得られる、 まさにそのとおりだと思います。

聖衆とは正法を歩む師と弟子たちの集い

三(三)の第三として、お釈迦さまは、 「聖来に於て功をう。此の善根尽す可からず」

とおっしゃっております。聖衆とは、ひとことでいえば、生ける如来のみもとで正法を修める人々です。正法を体得した師匠と、その師のもとで成仏をめざしてお互いに励まし合いながら正法を続行している弟子たもの集い、それが聖衆です。この集いを徹館(サンガ)といいます。

要するに三根三道)とは、・・憎の三習それも正しい三宝のもとで行う、功徳を種

える修行なのです。如来が仏、正法が法、聖衆が僧(側)です。

私・法・僧の三宝のもとで功徳を種えるというのは、どの宗旨・宗派でもいっていることです。

、「得」がみられ、「正法」が行じられていてこそ、その教団はありっしゃっているのです。

しいてなければ、修行を行う意味がありません。三善根(三福道)で特なろは、「リ」のもとであるということです。生ける如来がいらっしゃらないでは、旅行になります。お釈迦さまは、正しい三宝において功徳を種えよ。 かれているのです。それがです。三根(三福道)によって修行者は無限のを得て、界に入ることができます。ということは、逆にいえば、三善根(三福道) たわれ、界に入るだけの宿は得られないということになります。涅槃界に入るための福によって得られるのです。

善根と優婆塞の八法・十六法

仏教では、功能を雇える行のことを梵行といいます。「阿含経」に「梵行已に立ち、所作已に作し(発行はすべてやり遂げた。なすべきことはなし終えた)」という言葉が頻繁に出てまいりますが、 その発行とは、具体的にはどういうものでしょうか? 梵行にはいろいろな表現。

 

教法(阿含経)と、シャカ仏本史 仏とは人間の認識世界

の残した教法(阿含経)と、シャカ仏本史

仏とは人間の認識世界をはるかに超えられたお方で、普通の人間の認識はまったくおよびませんし、天才だといわれる人でも、とうていおよぶものではありません。仏の認識世界は、わたくしたちの次元をはるかに超えております。一般の常識では想像もつかないような大いなる存在を、 ちっぽけな人間の概念や知識で創り出せるわけがありません。人工の仏を生ける仏と比べたなら

ば、天と地以上の差があります。 ところが世間を見てみると、あるのは人工の仏ばかりで、生ける仏をお祀りしているお寺は皆無といってもよいほどです。犬だ目如来、阿弥陀如来、薬師如来、不動明王、観世音菩薩、いずれも人工の仏であり、架空の仏であり、空想上の仏です。少し難しくいえば、概念上の仏です。

いうまでもなく、狭い了見の人間が勝手に創り出した仏を一生懸命に拝んで、どういうご利益がありますか。もしもなにかのご利益があるとすれば、それは精巧に彫られた仏像などを見て、 「尊い仏さまだ。ありがたい」

という気分になり、そして気分がよいから物事がうまくいきやすくなる、というような心理的なご利益でしょう。

お釈迦さまが『三供養品」で説かれている如来とは、生ける如来なのです。お釈迦さまがご存命の時ならば、それはお釈迦さまご自身であり、お釈迦さまが仏界に入られてからは、そのご聖骨・真正仏舎利こそが生ける仏なのです。お釈迦さまは、人間が勝手に創作した仏のもとで功徳

日本中のいろいろな宗旨宗係の本尊は、すべて架空の仏ですから、そこで功徳を積んでも成仏はできません。あなた方はそれを腹の中にたたき込まなければなりません。

今までの日本の仏教はすべて間違っています。架空の仏を実在の仏と偽り、いまだに、 「ありがたい仏だ、ありがたい仏だ」

と説いています。ニセの仏のどこがありがたいのでしょうか。人間が勝手に創り出した仏ではありませんか。日本の仏教は約千五百年の間、ニセの仏を本尊として、間違った信仰を勧めてきたのです。それではたくさんの供養をしても、成仏の福が得られるわけがありません。本尊に問題があったのです。そのツケが、現在の社会に現われているとわたくしは思います。

これまではいいかげんな本尊でもよかったのかもしれませんが、これからはそうはいきません。 現代のような苛烈な社会、さらに苛烈になることが予測される未来社会は、いい加減な仏を本尊とするいい加減な仏教では支えきれません。現代社会に必要なのは、本物の宗教・本物の仏教です。こういう時代こそ本物がものをいいます。本物の仏を拝み、本物の法を修して人間の業を断っていく、そういう本物の仏教でなければ世界は救えません。

阿含宗が、お釈迦さまの教法が説かれた唯一の経典「阿含経」と、仏教の総本尊・真正仏舎利を世の中に広め始めたということは、世の中が救われる前兆ではないか、とわたくしは思います。 しかしながら、阿含宗の力はまだまだ微々たるものです。それでいて、創作経典を奉じる宗教が大きな力を振るっています。こういう状態で世界が救われるかどうか、わたくしたちはよく考えなければいけません。

生ける如来のもとで修行し、功徳を種える。これが因縁解脱の第一条件です。生ける如来

一二九

食宗総本殿

わたくしたちの供養にお応えくださいます。それだけのお力とお徳を持っておられます。そのような仏さまを、応供とお呼びします。応供とはパーリ語のアラハントの主格「アラハン」、サンスクリット語のアルハットの主格「アルハン」を漢語に意訳したもので、漢音に写したものが阿羅漢です。応供も阿羅漢も同じように、仏さまの別名です。

ところが、大乗仏教の人たちは、阿羅漢は小乗の覚者であって仏ではなく、位は菩薩の下であるとしてしまいました。仏の十号を見ても分かるように、阿羅漢も応供も仏さまのことです。本物の生ける仏は、衆生の供養に応えて成仏力をお授けくださいますから、応供・阿羅漢とお呼びするのです。反対に、応供・阿羅漢でない――つまり供養に応えることができない――ならば、 真の仏さまとはいえません。阿羅漢を小乗の覚者としてしまったことは、大乗仏教の犯した大罪の一つです。みなさんはこれを理解して、大乗仏教の人から、

「阿羅漢は小乗の覚者で菩薩の下だ」

といわれても、今わたくしが説明したように、きちんと話して聞かせてあげていただきたい。

5のです。まず一つは、修行と深い信心です。二つめは供養です。信心・修行と供養を併せて行う、それが如来のもとで種えるべき功徳の内容です。深い信心を持ち、仏さまの教えられたことをそのまま移行すると同時に、仏さまに供養を捧げるわけです。それがここでいう功徳です。

何度もいうように、信心・修行、そして供養は、生ける如来のもとで行われなければ意味がないのですが、今の日本の仏教界を見渡して、生ける如来・真正仏舎利を本尊としている寺や教団がいくつありますか?

本物の仏を本尊とする本物の仏教教団がたくさん出てこなければ、この世の中は救えないとわたくしは思います。そのような教団が、次々と世の中に出てこなければなりません。阿含宗は、 その口切りです。ただ、あとに続けるだけの教団があるかどうか。とにかく現在は阿含宗だけです。決して自慢高慢ではなく、これは事実です。

真正仏舎利を本尊とするのが、歴史的に見ても、仏教学の面から見ても、正しい仏教教団のあり方です。生けるお釈迦さまを本尊とせずに、なにを本尊とするのでしょうか? 二ニセの仏を祀って成仏できるでしょうか?

「ニセの仏ではだめだ!」 できるわけがありません。お釈迦さまが、この『三供養品』でおっしゃっておられるとおりです。このお経をもとにして、わたくしは、

といっているわけです。決して思いつきやでたらめではありません。わたくしが本に書き、あるいはこのようにお話をする場合、必ず仏さまのお言葉をよりどころとしています。 如来のもとでなければ、いくら功徳を積んでもむだだぞ、とお釈迦さ

5のです。まず一つは、修行と深い信心です。二つめは供養です。信心・修行と供養を併せて行う、それが如来のもとで種えるべき功徳の内容です。深い信心を持ち、仏さまの教えられたことをそのまま移行すると同時に、仏さまに供養を捧げるわけです。それがここでいう功徳です。

何度もいうように、信心・修行、そして供養は、生ける如来のもとで行われなければ意味がないのですが、今の日本の仏教界を見渡して、生ける如来・真正仏舎利を本尊としている寺や教団がいくつありますか?

本物の仏を本尊とする本物の仏教教団がたくさん出てこなければ、この世の中は救えないとわたくしは思います。そのような教団が、次々と世の中に出てこなければなりません。阿含宗は、 その口切りです。ただ、あとに続けるだけの教団があるかどうか。とにかく現在は阿含宗だけです。決して自慢高慢ではなく、これは事実です。

真正仏舎利を本尊とするのが、歴史的に見ても、仏教学の面から見ても、正しい仏教教団のあり方です。生けるお釈迦さまを本尊とせずに、なにを本尊とするのでしょうか? 二ニセの仏を祀って成仏できるでしょうか?

「ニセの仏ではだめだ!」 できるわけがありません。お釈迦さまが、この『三供養品』でおっしゃっておられるとおりです。このお経をもとにして、わたくしは、

といっているわけです。決して思いつきやでたらめではありません。わたくしが本に書き、あるいはこのようにお話をする場合、必ず仏さまのお言葉をよりどころとしています。 如来のもとでなければ、いくら功徳を積んでもむだだぞ、とお釈迦さ

要なことです。

みなさんはそのことを広く人々に教え伝えてください。どれだけむだな供養を捧げている人たちがいるか。むだな修行をしている人たちがいかに多いか。どこで信仰・信心を行うかの最重要ポイントが、生ける如来の有無です。信仰・修行をするのは結構だが、生ける如来のもとでなければ意味がありません。そのお釈迦さまのお言葉を、一人でも多くの人に伝えていかなければならない。これがわたくしたち阿含宗信徒の使命であり、かつ、功徳を種える行なのです。

正法とはお釈迦さまの説かれた教法

お釈迦さまは三善根 (三福道)の第二として、

「正法に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず」

*8 *9 とおっしゃっています。正しい法とは、生ける如来のみもとで行われる教法のことです。教えとしては縁起の法や四諦の法門などで、法としては上根の成仏法・七科三十七道品、それから下

根の成仏法・三善根(三福道) や以前講義した優婆塞の八法・十六法(上巻・『一切事経』九一五六頁)などです。 お釈迦さまは優婆塞の八法・十六法で、まず最初にどのように説かれ

ていますか? 正信でなければならない、とおっしゃっているでしょう。優婆塞の八法とは、自分が正信を持

如来のもとで種えるべき功徳

1

如来の真義 「功徳を積みなさい」 お釈迦さまは、如来

如来の真義

「功徳を積みなさい」

お釈迦さまは、如来のもとで功徳を種えるならば無限の出世間福が生じる、とおっしゃっているわけです。なぜ、お釈迦さまは、まるで念を押されるかのように、「如来の所に於て」とおっしゃっているのでしょうか? 不思議に思いませんか?

わたくしはこの部分を読んだ時、これには深い意味が込められている、と直感しました。たしかに功徳を種えることは大切です。仏教系の宗旨・教団であるならば、功徳を積めと必ず教えます。それは結構なことであり、お釈迦さまの教えにかなっています。どの仏教教団でも、

といいます。けれども、そのような教団で長年信仰をしている人が、

「自分でいうのもなんですが、私はずいぶんと一生懸命に積徳の行をやっていると思います。でというと、その教団は決まって、

すが、どうもさっぱりよくありません。問題が解決しません」

「功徳の積み方が足りない。信心が足りない」

といわれます。これでは、どれだけやればいいのか分かりません。そのような経験をした人もいると思いますが、『三供養品』を読むと、いくら功徳を積んでも果報が得られなかった理由が分かります。どの教団も功徳を積めと口を酸っぱくして教えますが、いずれも積徳の行を行う上で最も大切なことを見落としているのです。あるいは知っているのに、わざといわないでいるとしか考えられません。

『三供養品』にあるように、お釈迦さまは如来のもとで功徳を種えよとおっしゃっているのです。 これは如来のもとでなければ、どれほど大きな功徳を種えても意味がないからなのです。如来のもとだからこそ、種えた功徳が涅槃界に入るための福になるのです。ところが阿含宗以外のほとんどの仏教教団には、如来がいらっしゃいませんから、如来のもとで功徳を種えることができません。それで福が得られないのです。

そういうと、伝統仏教のご住職などが、

「そんなことはないでしょう。私どもの寺では、国宝級の如来さまが祀られております。非常にありがたい仏さまです。ですからここで功徳を積めば、まさに成仏するだけの福がいただけるのです」

といわれるでしょう。そういって反論する人が出てくることを見越して、「如来の所に於て功徳を種う」とお釈迦さまは念を押されている、とわたくしは考えます。そうでなければ、わざわざお釈迦さまが、「如来の所に於て」と但し書きのようなことをおっしゃるはずがありません。

なぜならば仏教においては、仏教徒が如来のもとで功徳を積むのは、当然すぎら

龍本殿

くしはそう思います。

一人で、多聞第一と称される阿難です。阿難を座長として、多くの直弟子たちに説かれているわけです。彼らには、ごく当たりまえのことのはずです。これはお釈迦さまが、如来でないものを如来として祀る教団が現われることを見抜かれて、説いておられるとしか考えられません。わた

歯に忍着せずにいえば、普通のお寺にお祀りされているのは如来ではありません。

そもそも如来とはなんでしょうか?

如とは真姉の略で、真如とは真理という意味です。「真如の世界から来られたお方」ですから、 如来とお呼びするのです。パーリ語・サンスクリット語でタターガタといいます。

如来とは仏の十号の一つです。仏の十号とは仏さまの十種類の呼び名で、仏さまのお力やお働ようごじようきを十の角度から表現した徳名です。如来もその十号の一つで、ほかに阿麗薬(応供・至真・戴 ・正(正等選)・明行足・割起・世間解・無上士・調御太夫(調心師),愁卵・仏世様があります。したがって如来と呼ぼうと、仏世尊といおうと、完全解脱をされて成。 仏力を得られた仏さまに変わりはありません。

「如来の所に於て功徳を種う」とは、如来という、解脱と悟りを得られたお方のもとで、功徳を種えなさいという意味なのです。涅槃界に入るだけの無限の福を得るためには、まず本当の仏さまがいらっしゃらなければなりません。「如来の所に於て」、これが仏教の信仰・修行でいちばん大切なことです。要するに本尊論です。自分が仏道修行をする上で、どの仏さまを本尊としなければならないのかが論じられているわけです。

あなた方の家系の種那寺にお祀りされているのは、如来ではなくて、如来像でしょう。如来像

んか?」 「それでは、生きた如来さまはどこにいらっしゃるのですか? お釈迦さまはもうずっと以前に亡くなられたのだから、生きた如来さまなんて、もうどこにもいらっしゃらないのではありませ

ればならないのかた謝し

あなた方の家系の檀那寺にお祀りされているのは、如来ではなくて、如来像でしょう。

は知来ではないのですから、そこで功徳を積んでもしかたがありません。

ひとくちに仏さまといっても、人工の仏と自然の仏があります。自然の仏が本当の仏であり、 生ける仏なのです。自然のままの本当の仏さま、これを「自然法爾の仏」とお呼びします。対して人工の仏とは、人間が創作した仏像や仏画です。人工の仏は、本当の仏ではありません。

「如来の所に於て」とは、本当の生ける如来のもとでという意味です。この如来はお釈迦さまの

ように、修行によって実際に成仏された、歴史上実在の仏さまでなければなりません。一般のお寺の本堂に、どれだけ多くの如来がお祀りしてあろうとも、それらはすべて如来像であって、如

来ではありません。像という字を辞書で引いてごらんなさい。たいていの辞書は、

「神仏・人・鳥獣などの形を模して描き、また造ったもの」

となっています。つまり、仏像とは仏さまの模型であって、仏さまそのものではないのです。

真正仏舎利こそ生ける如来

という質問が出てくるでしょう。

 

いう。 この名前は、湿、笑の智慧を、天豉(雷)のような法音をもって衆生にさとらせる仏、という意味で、つまりシャカの説いた教法を、仏として表現したのである。自性、敷の仏とも

生きた知来さまはいらっしゃいます。それが、お釈迦さまの本体、生ける釈迦と呼ばれている真正仏舎利です。これが「自然法爾の仏」です。単なる如来像は、仏でもなければ如来でもありません。真正仏舎利こそが真実の如来です。この「真実の如来のもとで功徳を植えよ」、とお釈奥さまはおっしゃっておられるのです。真実の如来・真正仏舎利こそが、『三供養品』に説かれ 、生ける如来なのです。

ているこれは、わたくしが勝手にいっているのではありません。密教では古来より、お釈迦さまの御 ・御選作をもって、お釈迦さまの本体としております。このことは拙著『守護仏の奇蹟』 (平河出版社)で、すでに説いております(同書一七七一一七九頁)。

密教では、シャカの新作、御遺身を「変化出身の釈迦」といって、生駅のシャカの本体とするのである。御遺骨、御遺身が、生きているシャカの本体なのである。

仏の本質を緻密に芸術化し、集欲化して表現する点で、密教はもっともすぐれている。

その密教では、シャカに三重あることを説いている。これを「三重の釈迦」という。 第一重のシャカは、胎蔵界マンダラ咲、部心薬院にまつられている呼びの一つで、「天鼓雷欲仏」という名前でまつられている。

第二重のシャかは、胎蔵界マンダラ釈迦院のシャカで、これが、街射のシャカの本体と

消身である。 される。本尊として人がかれているのが、新発駅、新話など、生身のジャカの御建、美

つまり、

第三重のシャカは、ボードガヤの菩提樹の下でさとりをひらかれ、仏陀になられたシャカ。

これは生身のシャカである。

第一重シャカの教法

第二重生身のシャカの本体御遺骨

御遺身

第三重……………生身のシャカ

とこうなるのである。

来とするのである。 第三重の生身のシャカはすでにおなくなりになって、仏界におかえりになってしまっている、そこで、第二重の、生身のシャカの本体である御遺骨・御遺身をもって、生身の釈迦如

もっとも、密教が、御遺骨(村という)をもって生身のシャカの本体として、釈迦院にまつったのは、べつに、密教の独断でもなければ、独創でもないのである。

仏教の照明、インドにおいて、それは仏教の本流だったのである。

ジャカのおなくなりになったあと、インドの仏教徒は、シャカの舎利をストゥーパ(塔) におまつりし、シャカそのものとして礼拝供養した。ところが、奇蹟的な置験功徳があいつ

いだので、急速に全土にひろがり、ついに仏教信仰の本流となったのである。

これは、考えてみれば当然のことで、シャカなきあと、仏教を信仰するとしたら、シャカ