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七科三十七道品の修行

釈尊が残した霊性完成の修行法、七科三十七道品の修行は、これを全部、修行しなければならないというものではない。三十七種の修行法の中には、おなじような修行法が、重複してかかげられているのである。

これは、おそらく、釈尊が、弟子たちそれぞれの能力や才能に応じて課されたものであろう。

たとえば、五根や五力などは、その中に、最初に「信」を置いているが、 「信」は、智慧の低い初歩の者のために、理論をもちいないで、ひたすら仏陀や指導者を信ずることによって修行に励ましめるものであるから、五根・五力は初歩の者に説かれたものであろう。また七覚支などは、その中に禅定に関する法が多くのべられているから、かなり高度の修行者に教示されたものと思われる。

ただ、阿含の根本聖典では、「四念住法」「四神足法」の修行が、いずれも「一乗道」であるとされているのは、注目すべきである。「一乗道」とは、その法の修行だけで、究極の境界、涅槃に到達し、成仏できる道のことである。 ニルヴァーナ

わたくしの体験をのべるならば、最初に四念住法で「四諦の法門」を体得

し、ついで七覚支法で最高度の禅定を体得し、最後に四神足法の習練に入って、 神通力を得た。わた

し、ついで七覚支法で最高度の禅定を体得し、最後に四神足法の習練に入って、 「神通力を得た。わたくしには師はなく、自然にそのようになった。ただただ、神仏のご加護であると感謝している。

成仏法奥義————八科四十一道品

釈尊が教えた成仏法は、奇蹟を起こすためのものではない。

しかし、凡夫が成仏して仏陀になるということ自体、たいへんな奇蹟というべきではないか。それは、大神通力を持ってこそ、はじめてなし得る業である。平凡な人間が、平凡のままパッと仏陀に変身するわけではない。その修行課程において、修行者は、通力・神通力大神通力が身にそなわるのである。

ここで、わたくしの秘伝をのべよう。

「それは、大神通力を得て成仏するためには、アビグルマ仏教の論師たちがま

とめた「七科三十七道品」だけでは完全ではない、ということである。

もうひとつ、絶対に必要な法がある、ということである。

わたくしは、この法を加えて、成仏法を「八科四十一道品」とする。

それは、つぎのようになる。

四念住法

四正断法

四神足法

五根法

五力法

七党支法

八正道法

である。

四安那般那念法は、つぎの四法から成る。

勝止息法 奇特止息法

上止息法 無上止息法

である。

では、その「安那般那念法」とはどういう法なのか?

この中の、「奇特止息法」という文字に目をとめていただきたい。

『佛教語大辞典」によると、こうある。

【奇特】 特に異なっていること。不思議なこと。奇蹟。

つまり奇特止息法とは、奇蹟を起こす力をあたえる特異な禅定法なのである。

この四つの法は、すべて、奇蹟 大神通力をあたえる特殊な法なのである。

では、その奇蹟とはなにか? 大神通力とはなんであろうか?

・それは「因縁解脱力」である。

因縁解脱こそ宇宙最高の奇蹟ではないのか。自分を変え、世界を変える、これ以上の奇蹟があるであろうか?

そして、この奇蹟の因縁解脱をなしとげる、因縁解脱力こそ仏法最高の大神通力なのである。したがって、この四つの法は、因縁解脱をして成仏する大神通力をあたえる法なのである。

わたくしは、この四つの法は、四神足法の中の、「観神足法」とおなじであると考えている。というよりも「観神足法」、あるいは「四神足法」そのものの具体的な説明・解説になっているのではないか、と思っているのである。そこで、アビダルマ仏教は、この四安那般那念法を、(わざわざ一科目立てることをせ

ず)七科三十七道品の中に入れなかったのではないかとも考えられるが、しか

輪転生联想法

 

 

三善根 ― ある老僧の教え

三善根 ― ある老僧の教え

風が梵鐘の音を運んでくる午後、若き修行僧・慧真(えしん)は、山寺の縁側で古びた経巻を閉じた。瞳に浮かぶのは迷い。なぜ、どれほど修行を重ねても、心に満ちる安らぎが得られないのか。

「師よ、私は幸せになりたいと願っております。ただ、それがどこにあるのか、わからなくなりました」

その問いに、年老いた僧・日融(にちゆう)は静かに微笑んだ。そして、炎のように赤く染まる夕日の方を見やりながら口を開いた。

「慧真よ、福とは、ただ天から降るものではない。種をまかねば実はならぬ。稲も、水も、光も、土もなければ育たぬのと同じだ」

慧真は眉をひそめた。「では、その“種”とはなんでしょうか?」

日融はゆっくりと立ち上がり、棚から一巻の古文を取り出した。それは金泥で書かれた経典であった。日融はその一節を読み上げた。

「『如来の所に於て功徳を種う。此の善根腐尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず』――これは、三善根と呼ばれる修行の教えだ」

「三善根……」

「そうだ。如来のもとで、正法の中で、聖衆との関係の中で、功徳を積む。それが三福道とも言われ、出世間の福、すなわち真の幸福を得る三つの道なのだ」

「如来のもとで功徳を積むとは、どういうことでしょうか?」

「仏に帰依し、その教えを信じ、心から仏恩を感じることだ。礼拝、供養、感謝――それらは徳の種をまく行いとなる。仏は何も要求しないが、敬う心そのものが人を変えるのだ」

「正法において功徳を積むとは?」

「正しき教えを聞き、それに生きることだ。戒を守り、清らかな言葉を用い、怒りに染まらぬ心を持て。法を知る者は、その徳により自らを清める」

「では、聖衆とは?」

「共に道を歩む僧や在家の者たち、あるいは仏道に励むすべての仲間のことだ。他者に施し、支え、共に修める。それこそが第三の功徳だ」

慧真の瞳が、次第に輝きを取り戻してゆくのを、日融は見逃さなかった。

「世の人々は“幸せになりたい”と口では言う。だが、福をもたらす徳を積むことはしない。ただ願っているだけでは、福は来ぬ。福は徳から生まれ、徳は心と行いから生じる。三善根こそが、幸いの根だ」

慧真は深くうなずいた。そして、再び経巻を開く。今度は、読むためではない。生きるために、その言葉を自らの魂に刻むために。

徳の種をまく者

それから幾日かが過ぎたある朝、慧真は本堂の裏手にある小さな畑で、黙々と土を耕していた。竹籠には数珠と阿含経が入っている。だが今日は読経ではない。彼は、日融に言われたのだ。

「経を読むだけが修行ではない。手を動かすこともまた功徳だ」

鍬を握る手はまだ慣れておらず、泥だらけになってはいたが、その瞳には確かな意志が宿っていた。

「種をまけば、やがて芽吹く。人の心も同じじゃ」

背後から聞こえた声に振り返ると、日融が木の枝に止まる小鳥を指していた。

「見なさい。あの鳥が鳴くのも、誰かの徳になる。やさしい音を聞けば、人は怒りを忘れることもある。功徳は、かならずしも大きなことから始まるのではない。むしろ、小さなことにこそ宿るのだよ」

慧真は汗をぬぐいながら問うた。

「師よ、では、私のこの耕しも、功徳となるのでしょうか」

「もちろんだ。だが、心が伴っていなければ、ただの作業となる。たとえ同じ行為でも、どのような心で行うかが、徳の深さを決めるのだ」

日融はそっと草の葉を摘み、手のひらに乗せた。

「如来のもとで功徳を積むとは、自分を超えたものへの感謝と敬いを生きること。正法において功徳を積むとは、自らの行いを律してゆくこと。そして、聖衆において功徳を積むとは、他者を尊び、支えること。お前の耕すこの畑が、皆の糧となるなら、それは立派な“第三の功徳”じゃよ」

慧真はその言葉に、初めて「喜び」という花が心に咲いた気がした。

日が高くなるころ、一陣の風が山中を通り過ぎた。その風は、ただ涼しさを運ぶだけではない。どこか、慧真の心の奥底――幼きころから持ち続けていた「何か足りない」という渇きに、少しずつ水を注いでいるようだった。

日融は言った。

「徳を積めば、福は生まれる。福は、自らの幸せとなり、やがて他の者を照らす光となる。やがて、その光が、また新たな種を育むのだ。お前はその輪を紡ぐ者になりなさい」

慧真は深く合掌し、微笑をもって言った。

「はい、師よ。私は、徳の種をまく者になります」

衆生の中へ ― 徳を灯す旅立ち

山を降りる朝、慧真は、かつての自分の姿を思い出していた。

――「幸せになりたい」と叫びながらも、徳を積むことの意味を知らなかった日々。

今、その問いに一つの答えを得た彼は、師・日融の見送りを受けながら、袈裟をたたみ、下山の支度を整えていた。

「慧真よ、これからは世の中で生きなさい。そこには迷いも欲も苦しみも渦巻いている。だが、それこそが真の修行の場だ」

「はい、師よ。三善根の道を、衆生の中で行じてまいります」

日融はひとつだけ、木の実を慧真の掌に置いた。

「これは徳の種。だが、それを実らせるのはお前の行いだ」

慧真は深く頭を下げ、里へと足を踏み出した。

 

 

 

 

四種の呼吸法

四種の呼吸法

この本で教える瞑想の呼吸法は、四種の呼吸法から成り立つ。

一、長出入息呼吸法

二、出息呼吸法

はんしゃ

三、反式呼吸法

である。

四、強短息呼吸法(火の呼吸法)

簡単に説明すると、一の長出入息呼吸法は、出る息、入る息、どちらも、できるだけ細く長く深く呼吸する。一呼吸に二十秒から三十秒、一分くらい、時間をかける。

二の長出息呼吸法は、出る息のみをできるかぎり細く長く吐いて、吸う息はふつうに吸う。

三の反式呼吸法は、ふつうの呼吸とちがって、息を吸うとき、腹部をひっこ

 

にする。 そのためには、頭部、頸部の緊張を解くために、前頭部を心もち前に出し、 下顎を少し中へ引くようにして、頭部をやや下げるようにするとよい。同時に、前胸部も少しひっこめるようにし、腹部は少し前に出し、両肩は力を入れず、自然な姿勢をとる。背中は心もち前に曲げ、腹部の容積を大きくするよう

め、息を吐くとき、腹部をふくらませる。ちょうどと逆になるわけである。

四の強短息呼吸法は、「火の呼吸法」とよび、片方の鼻孔を指で押さえて閉じ、片方の鼻孔で強く短く呼吸する。

それでは、四種の呼吸法の訓練を説明しよう。

長出入息呼吸法の訓練

りき趺坐、あるいは椅子坐、いずれにしても、頭部、頸部をごく自然に、まっすぐ、きちんとした姿勢をとる。ただし、あまり緊張しすぎて力んだり、硬直したりしてはいけない。ゆったりと、リラックスすることが大切である。

 

る。 ことである。まず吐いて、つぎに吸うときから第一回の呼吸がはじまるのであ

に持っていく。 口と唇はごく自然に軽く閉じる。両眼も軽く閉じるが、かすかに外光を感じる程度にひとすじの隙間を残す。すなわち半眼にして、視線は、鼻の先、鼻頭

肛門をきゅっと締め、上へ引き上げるようにする。

まず、最初、軽く息を吸い、ついで口をすぼめ開き、力いっぱい吐き出す。

下腹部に力をこめ、上体を少し前に折りかがめるようにしながら、吐いて吐い

て吐き尽くす。このとき、前に書いたように、体中の悪気、不浄の気をことご

とく吐き出してしまう気持ちで、鳩尾が背骨にくっついてしまうくらいに、吐

くのである。吐き尽くしたら、また大きく吸い、二、三回、これをくり返す。 大事なことは、呼吸法をはじめるときには、かならず、まず最初に息を吐く

歯は軽くかみ合わせて、かみ合わせた歯の間を通して、ゆっくりと息を吐く。歯は上下が軽くふれるかふれない程度で、決して強くかみ合わせてはいけ

ない。

自然に、長出人意呼吸法に移る。

まず、軽く息を吸う。

歯の間を通してゆっくりと息を吐き終わったら、今度は唇を閉じ、歯をきちんと合わせて、鼻からゆっくりと吸うのである。

少しずつ、時間をかけて、鼻から空気を吸う。このとき、鼻から入ってくる空気の量をできるだけ少なくするために、鼻をすぼめて鼻腔をせまくする。こうずると、入ってくる空気の量が少なくなるだけではなく、せまくなった鼻腔の壁が空気でマサツされて、その刺激が脳に伝わり、脳の興奮を静める効果もあるのである。

また、息を吸い込むとき、舌の先を、上顎部(上の正面の歯ぐきのやや上能、つまり、ルートの父のところである)につける。なぜつけるのかというと、わたくしは、さきに、任脈と督脈のニルートは、元来一本の線であるとのべた。

しかし、じつは、口のところでとぎれているのである。これを、舌の先で接続

 

させるのである。これによって、じっさいに、任脈・督脈のニルートにのルートとなるのである。(ここから意念との共同訓練に入っていくのだ) そこで、ごく自然に息を吸い込んでいく。

かんげんきゅうびちゅうかんしんけつこのとき、息を吸い込む鼻の奥から、(任脈ルートの)鳩尾、中院、神闕(勝) を通って、男性は気海(勝の下約四センチ)、女性は関元(臍の下約八センチ)のところまで、一本の気管(プラーナ管)が通じていると観想せよ。太さは細めのストローくらいで、赤色である。

こんかんほうのうほうきゆうこの気管の根本、つまり根管部(気海、関元)に、胞宮という三センチ四方くらいの特殊な細胞の場のあることを意識せよ。胞嚢という、うすいオレンジ色を帯びた透明の袋と考えてもよい。鍛錬によって収縮・拡大するから、糞と考えたほうが把握しやすい。 ふくろ

みぞおち静かに深く息を吸い込んでいく。気管を通じて息はまっすぐに胞嚢に吸い込まれていく。吸い込む最初、鳩尾は軽くひっこみ、このとき、胞宮に強く意識をかけ、少し力を入れる。息が吸い込まれるにしたがって、爛尾はふくらみ、

収縮していた胞嚢もふくらんでいく。(注意。あとでのべる「反式呼吸法」のときは、この逆になる)

みぞおちず鼻からちょっと息を漏らす。これが非常に大切で、これをやらないと、胸から頭部にかけて圧がかかり、体を痛めるおそれが出てくる。腹式呼吸をやって、頭痛を起こしたり、内臓下垂で苦しんだりするのは、これを知らないからである。禅宗の原田祖岳老師が、原坦山和尚の極端な下腹入力禅をやったところ、頭が鳴って苦しくなった。また腸の位置が変則的になって難病をしたと本に書いておられる。注意が必要である。 はらたんざん

息を吸い終わったら、もう一度、軽く息をのみ、鳩尾は十分に落とし、肛門をぐっと閉じ、胞宮にウムと力を入れる。この力を入れるとき、同時にかなら

この肛門を締めて、胞宮にウムと力を入れる動作を、二、三回おこなう。

つぎに、長出息呼吸に移る。

胞宮に一段と力をこめ、下腹部を収縮させながら、どこまでも腹の力をもって静かに息を吐き出していく。ふくらんでいた胞嚢がしだいにしぼられ、収縮

していく。

「オン」

マントラ真言はつづいて、

このとき、息を吐き出しながら、それまで、上顎部につけていた舌を離し、 吐き出す息に乗せるような気持ちで、低い声で真言を語する。

真言を話しながら息を吐き出していく。静かに、ゆっくりと、できるだけ細く長く吐き出していく。息がすっかり出てしまうと、下腹はくぼみ、腹壁が背骨にくっつくような気持ちになる。つまり、そうなるような気持ちで吐き出していくのである。

吐き出し終わったら、また、静かに鼻で吸う。吸うときは、舌を上顎につけること。前とおなじである。

吸い込んだら、前と同じ動作で吐き出していく。前とおなじように、吐き出しながら、真言を誦する。 マントク

「シンタマニ」

 

「ダト」

「ウン」

で、これを、それぞれ、吐くひと息ごとに、一句ずつ、唱える。

「オン、シンタマニ、ダト、ウン」

この真言は、守護仏、仏舎利尊(輪廻転生瞑想法の本尊、準胝尊の本体)の真言である。深く念ずることにより、守護仏の加護を得て、魔境に陥ることなく、 無事、修行を成就するのである。

この長出入息呼吸法は、一呼吸についての時間は問わない。できるだけ細く長く、長出入息させるのである。

長出息呼吸法の訓練

前の、長出入息呼吸法は、出る息、入る息、ともにできるだけ長く細く呼吸するものである。できるだけ細く長く、というだけで、どれほどの時間をかけて細く長く呼吸するのか、という時間は問わない。

す。 この長出息呼吸法は、一呼吸を、一分間に三回ないし四回くらいにまで落と

しかし、長出息呼吸法は、時間が目安になる。

だいたい、成人の呼吸は、健康な人の平静な状態で、ふつう一分間に十八回とされている。

一般に虚弱体質の人は、息を吸う時間が非常に短い。重病人などは、肩でせわしく浅い短い呼吸をしている。虚弱体質でなく健康な人でも、興奮したり、 激しい怒り、おそれ、悲しみなど、心が激動すると、呼吸はずっと速くなる。 激怒して言葉が詰まったりするのは、呼吸が速くなりすぎて、切迫するためである。

心の病気を持つ人の呼吸も速い。一分間に二十数回、あるいは三十回以上も呼吸している人は、明らかに異常で、心因性の病気を持つ人である。精神科の医師は、患者の呼吸の速さを、診断の目安のひとつとしているのである。

呼吸のしかたは、長出入息呼吸法とおなじでよい。ただし、呼吸を、一分間

に三回にまで落とすということは、ふつうの呼吸法では不可能である。それができるコツは、出す息をできるかぎり細く長く、織々と吐いていって、吸うほ

うの息は、ふつうの呼吸に近い吸い方で吸うのである。

この呼吸法に熟達すると、一分間に一回くらいにまでなれる。

この呼吸で、前記した長出入息呼吸法とまったく同様に、気管の観想、守護仏真言の読論をおこなう。

練習時間は三十分ないし一時間である。

反式呼吸法の訓練

反式呼吸法というのは、ふつうの呼吸とまったく反対の呼吸をするので、こうよぶのである。

つまり、自然の呼吸では、息を吸い込んだとき、腹部がふくれ、息を吐いたとき、腹部がひっこむ。

この反式呼吸法は、それがまったく逆になる。すなわち、息を吸い込んだと

き、腹をこ

吸法なのである。

なぜ、そういう反自然の呼吸法をするのか?

いくつもの利点があるからである。

その利点は、横隔膜を極限に近く使うことから生ずる。

ちょっと考えると、腹をふくらませながら、息を吐くなどという芸当は、とてもできないと思われるかもしれない。

しかし、それができるのである。それは、内臓の中で胸腔と腹腔の境目になっている横隔膜をはたらかせることによって可能となるのである。 さかいめ

ふだんは、意思の支配の外で、自律的に、胸や腹がポンプの役目をして空気を吸ったり吐いたりするのにまかせっきりでいるけれども、反式呼吸のように自然ではないかたちで呼吸をしようということになると、横隔膜を動かすしか方法がない。

ふつうの呼吸の場合、横隔膜が上下に動く幅は、せいぜい四~六センチくら

 

いである。

しかし、反式呼吸にすると、なんと十センチ以上も動くのである。

人間の腹腔の上下の幅は、どんなに胴長の人でも、だいたい三十センチもあるかどうかというところである。その三十センチの中で、横隔膜が十センチ以上も上下に動くのである。その影響は、たいへんなものである。横隔膜が下に下がれば、腹の中にある内臓は非常な圧力を受け、上に上がった場合は、逆に大きなマイナスの圧力を受けることになる。

つまり、この呼吸法によって、腹腔内で内臓が、強い力で動かされ、刺激されるということである。

それがどんな利益をもたらすか?

反式呼吸法の四つの利点

1、体の新陳代謝を盛んにする。

肺の機能が高まり、これまでの何倍も大量の酸素を血液の中に吹き込

 

み、体中に送り込む。

2、筋肉の発達をうながす。

新陳代謝が盛んになれば、体中の組織が強化されるのは当然であり、筋

肉が発達する。ことに、内臓の筋肉が強化される。

3、神経のはたらきが安定する。

それは、自律神経を安定させるからである。

4、血液の循環を盛んにする。

最後に大切なのが、血液の循環を活発にするということである。

これにより、体中に大量の酸素を運んで新陳代謝を盛んにし、筋肉や骨が強化されるのである。

自律神経安定のメカニズム

自律神経(植物性神経)とは、すべての内臓、腺、血管等、人間の意志と無関係に反応する器管を支配する不随意神経で、これらの器官のいろいろな機能を自動的に調節している。それで、自律神経とよばれるのである。

自律神経は二つの特徴を持っている、それは、

この二つである。

一、意思をともなわず、自動的にはたらくこと。

二、この神経は、かならず交感神経と副交感神経の二つからできていて、その支配を受けること。

ひとつの内臓器官の自律神経は、いつもこの二つの神経交感神経と副交感神経がはたらいて調節しているのである。そのはたらきはまことに微妙なもので、おたがいに反対のはたらきをする。交感神経は神経を興奮させ、血管を収縮させるのに対し、副交感神経は心臓を抑制し、血管を拡張させる。つま

り、交感神経は人体におけるアクセルであり、副交感神経はブレーキだと思たぼよい。交感神経が緊張すれば人間の体は興奮状態となり、副交感神経が緊張すれば、その腕が抑えられるようになる。どちらかにかたよっても、体は納的な状態になるわけで、このあい反した二つのはたらきがバランスをたもつことにより、心は順調に動き、血管は適当な大きさを保持するわけである。

こういうはたらきは、すべて、意思をともなわず、まったく無意識のうちにおこなわれているが、その調和が破れると、当然、さまざまな病気が生ずる。

その調和を破るものは、病気とか、内臓器官そのものの故障によるものは別として、ほとんど精神的なものからくることが多い。

のうかすいたいふくじん強い煙問、悩み、悲しみ、おそれ、怒り等、心と体の動揺をきたす精神的刺激が起きると、内分泌器官の中枢である脳下垂体を経て、副腎の自律神経の交感神経に伝わり、副腎の皮の髄質や、神経の末端から、 の髄質や、神経の末端から、アドレナリンおよびノルアドレナリン(副腎髄質ホルモン)や、シンパシン(交感神経の末端から遊離する物質)などの、強い興奮剤が分泌される。

 

これは、その強い煙閣やおそれなどに対応するための、体の自衛作用なので

あるが、その精神的刺激がつづくと、アドレナリン系の過剰分泌をきたすことになる。アドレナリン系の過剰分泌は、胃腸の運動を止め、血管を収縮させ、 血圧を高める。さらに、肝臓や筋肉内の大切なエネルギーのもととなるグリコーゲンを、いたずらにブドウ糖に分解し、そのため血液内の血糖量がふえて

酸過多症を起こし、身心の過労状態をもたらすのである。

これが、いわゆる「ストレス」であり、ストレスは「心因性の病気」を引き起こす。

ストレス説で有名なハンス・セリエ博士などは、分裂性の疾患もふくめた事実上のあらゆる疾患が、心因性によるものだと断言しているくらいである。

これに対し、反式呼吸法は、自律神経の安定をもたらすのである。

というのは、この呼吸法は、自律神経の中枢である腹部(胃のうしろのあたりにある)の太陽神経叢Solar Plexusにいつも圧力をかけて、刺激をあたえているのである。つまり、うさきにのべたように、内臓が強い力で動かされ、モミクチャ

ある。 このため、自律神経のはたらきが活発になり、安定するのである。というのは、ふつう精神的なショックを受けたとき、交感神経のはたらきで、アドレナリンなどの強い興奮剤が過剰分泌される。これに対し、この呼吸法をおこなっている修行者は、平素からのコントロールの力により、自動的にその緊張・興奮を緩和するよう、副交感神経がはたらいて、神経の末端から興奮抑制剤であるアセチルコリンの過剰分泌が起こされる。この作用によって、血管は拡張し、血圧も下がり、心身の興奮はおさまって心身安定し、リラックスするので

第二の心臓

にされている。これは太陽神経叢という自律神経の中枢神経の刺を、マッサージしていることになるのである。

さらに、反式呼吸法は血液循環を盛んにする。

人間の体には、例外なく心臓がひとつと、人によって多少の差はあるが、ほ

中上限をめぐらしている。

以上のことはいまさらいうまでもなくだれでも知っていることだが、ど 、というのが、この作業に対して、不十分のようなのひとつだけでは足りないようなのだ。

あいうのは、和田リットルの血液が、全部、体中をめぐって、きちんと役目を果たしているかというと、そうではなく、人によっては、全体の三分の二に近い量が、腹腔内にたまって古い車(画)となり、病気の原因となっているのである。

思うに、人間は四足動物から進化したものである。何百万年か前、それまで樹上生活をして、木から木へ、キャッキャッと叫びながら飛びまわっていたのが、突然、アフリカのサバンナ (草原)に降り立った。長い草の生えている草原では、四つ足では先が見えず、自衛上、あと足で立つようになった。そのために下顎骨が張り、眼が遠方を見るようになって、脳が発達した。それはけっこ

うなことであるが、内臓のほうは、そう簡単に変化できず、辛うじて戦帯でよ右下っているだけなので、弱い人は、内臓下垂を起こすことになる。心臓も、 四つ足時代以来の一個だけなので、ポンプとして、直立した全身に血液をめぐらせるのに、過重なのである。

心臓から血液を送り出す血管、つまり、動脈は、その名称のとおり自分で脈打って動き、血液を進めるはたらきをするが、静脈のほうにはそれがない。静

かな脈、というとおりである。動脈というのは、いまいったように、自分で動いて心臓から血液を送り出す。その反対に、血液を心臓に送り返す血管が静脈だが、しかし、その静脈は静止している血管で、心臓というポンプによってその中の血液を流してもらうしかないのである。その静脈の中の血液は、(体循環たいじゅんかん

で)炭酸ガスその他の老廃物をふくんだ暗赤色の汚い血である。(肺循環の静脈では、動脈血となって酸素を多くふくみ、鮮紅色を呈したきれいな血液が通っている)

要するに、心臓ひとつでは、動脈、静脈、両方の血管を動かして全部の血液を全身にまわし、完全に循環させる仕事は、荷が重すぎるということなのだ。

そこで、腹腔の中や、その他の内臓に、老廃物をいっぱいため込んだ汚い血がたまることになる。

貧血症というのがあるが、放射能障害など特殊な場合を除いて、全身にある血液が少ないというのは稀だということで、ほとんどの場合、流れている血が少ないというにすぎないと、生理学者はいっている。

反式呼吸法は、こうしてたまっている汚い血液を、ほとんどすべて、心臓や肺に戻してやるはたらきをする。

この呼吸法は、腹筋を、ぎゅうっとしぼっておこなう。また、胸を動かさず、腹筋のはたらきで横隔膜を上下させて、肺をひろげたり、縮めたりする。 肺自体にはそういうことができないから、呼吸筋を使うだけでなく、このようにして肺を助け、腹筋をしぼって、そこにたまった血液を心臓に送り返し、また、横隔膜をぐっと下げることにより、腹の中に強い圧力をかけ、内臓にたまっている血液を心臓に送り返す。つまり、心臓の役目を果たすわけである。

そこで、ソ連の著名な生理学者ザルマノフは、この横隔膜を強力なポンプに

 

 

思念の相承と四神足法

思念の相承と四神足法

いよいよ、釈尊の成仏法の中心の法である、四神足法の解説に入る。 これが

「輪廻転生瞑想法」の根幹となる法である。

釈尊の成仏法の中でも、最高難度の法である。

いままでの訓練をこなしてきた修行者であれば、なんとか歯が立つのではな いかとは思うが、決して容易ではない。いままでの訓練でさえ、むずかしいの に、これ以上の訓練はできるだろうかと、不安に思う方も多いのではないだろ

わたくしは、第二章で、

霊界の法の世界において、法の完成者タターガタ(如来)が常恒に法を説 いている。 「思念による王者の相承」とは、この法身タターガタが、言葉や

ばいかい

象徴という媒介なしに、直接相手の心に自分の心を伝達するものである。

この場合、心、というのは単なる思念の心ではなく、パワーを主としたも と思うべきである。これによって、相手はたちどころに仏陀として完成 するのである。

これは最高であり、理想的なものであること、もちろんである。 「王者 」という所以である。

とのべた。つまり、仏陀となって成仏するためには、この「思念による王者 相承」を受けることが、理想とされているのである。

しかし、これには条件があるのだ。

どのような条件か?

わたくしは、つぎのようにのべている。

だが、そういうと、一「思念による王者の相承」)は最高理想のものなので

あるから、他のなにものも必要ないのではないかといわれるかもしれな い。そうではないのである。その最高理想のものを受けるために、tapas は 必要なのである。

また、同章で、インドのサヘート・マヘートにおける強烈な霊的バイブレー ションについて、つぎのようにものべている。

賢明な読者はすでにお気づきであったろう。 これが、チベット密教のい う「思念による王者の相承」であることを 思念による王者の相承と

は、じつに、霊的バイブレーションによる伝達だったのである。 わたくしは、これによって、解説に至る四つの階梯のうちの、第三の境 地に達したことを自覚したのであるが、これは、 間脳開発の練行tapasを成 就していなかったら、絶対に得られなかったものである。 内なる受容の態 勢がととのって初めて、外よりの王者の相承が発せられるのである。

つまり、仏陀となる、あるいは仏陀の境界に近づくためには、「思念による王 者の相承」が必要なのであるが、その王者の相承を受けるためには、 間脳開発 の練行 tapas を成就していることが必須なのである。

わたくしは、この王者の相承を受けて、阿含の境地に達し、このとき、死ぬ までにかならず仏陀になると強く自覚したが、それはわたくしが、 tapasを成就 した上で、インドのサベート・マヘート、ミラクルの池に行ったからこそ、白 銀のバイブレーションを受けることができたのである。

したがって、「思念による王者の相承」を受けるためには、 tapasを成就して いることが、絶対条件なのである。

では、その行tapas とはなにか?

この tapas こそが、四神足法なのである。

いい換えれば、四神足法を成就していなければ、仏陀になるために必要な

「思念による王者の相承」を受けられないのである。しかしながら、四神足法

は、釈尊の成仏法の中でも最高度にむずかしい法である。だれでも容易に修行 できる内容ではない。

釈尊のむずかしい成仏法を修行しなければ、いつまでたっても思念の相承を 受けられず、 間脳が開かず、霊性開顕が不可能であるならば、いったいどれほ どの人が、霊性開顕をすることができるであろうか?

ごく限られた、わずかなエリートしか、到達することができないであろう。 当然のことながら、釈尊の成仏法を発展させた輪廻転生瞑想法も成就できない ことになるのだ。

だが、そうではないのである。

わたくしは、永年の修行により、この問題点を解決し、だれでも比較的容易 に成仏法の修行を進めていける法を完成することができたからである。

それは、「水晶龍 神瞑想法」という法である。

この瞑想法は単なる瞑想法ではない。

じつは、この水晶龍神瞑想法は、釈尊の成仏法の真髄である、

「四神足法そのもの」
なのである。

そして、この水晶龍神瞑想法の最大の特長は、

「瞑想法自体が思念の相承である」

ということなのである。

修行者は、この法にのっとって修行を進めていくことにより、本来であれ ば、 tapasである四神足法を成就しないかぎり、絶対に受けられない思念の相承 を、修行をはじめる最初の段階から受けながら、四神足法に必要な、チャクラ の開発訓練を進めていくことができるのである。ことに、クンダリニー・ヨー ガでは、最も危険とされる脳内のチャクラの開発を、安全に、おだやかに進め ていくことができるのだ。

あなたは、この水晶龍神瞑想法 (四神足法)を修行することによって、神通力 を得ることができるであろう。

ただし、この法は、最極秘伝に属する法なので、すべてを筆にすることはで

きない。本書では、ごく初歩の段階にとどめる。

誤解しないでいただきたいが、決して法を惜しんでいるわけではない。これ 以上の段階は、どうしても、わたくしの直接の指導を受けておこなう必要があ

わたくしの主宰する阿含宗の瞑想道場にて、この「王者による思念の相承」 すなわち、「仏陀の思念」 が受けられるので、で、わたくしや、わたくしの 弟子の指導を受けて修行を進めていただきたいのである。

 

水晶の中に龍神のお姿を見る

まず、水晶龍神瞑想法 (四神足法)の前段階である瞑想法について解説しよ

前段階とはいえ、たいへん高度な瞑想法で、これを習得しないと、釈尊の成 仏法の真髄・四神足法に進むことができない。

この法は水晶を使って深層意識を活用する瞑想法である。

まず、水晶を準備する。けがれのない天然の水晶が理想である。(わたくしの 想道場では、わたくしが成仏法によって浄め、龍神のお霊をこめた水晶龍神御尊像を使 う)

この水晶に心を集中して凝視していると、いろいろなモヤモヤが見える。 そ のモヤモヤを、心を静めて凝視していると龍神のお姿が見えてくる。 このお姿 がはっきりと見えてくるようにならなくてはいけない。

そのお姿には二つのタイプがある。

コブラ (母蛇)型

頭と顔が平たくなっている龍神。

ボア(大蛇

毒を持たない大型の龍神。

この二つの系統がある。

また、見えてきた龍神が男神である場合は「ナンダ龍王」、 女神の龍神の場合

は 「ウパナンダ龍王」という名前で念じる。

水晶の向こう側に白い紙を立てて凝視していると、モヤモヤの中にお顔やお 体が見えてくる。それには三日ほどかかる。観想もこのお姿をよく観察して瞑 想しなくてはならない。

この瞑想を深く進めていくと、その修行者は龍神型の性格を持つようにな り、さらに進めていくと体も似てきて龍体になってくる。そして体の一部がウ ロコになってくる。そこまでいくのは容易ではないが、そうなると龍神の力が そなわってくる。

龍神のタイプがたとえばコブラ型であれば毒を持つとか、ボア型だから相手 絞め殺して食べてしまうというようなことはない。タイプを知るだけで、あ とは自然にまかせておけばよい。

最初に教える瞑想法は、「水晶龍神洗浄 瞑想法」である。

まず心身を浄める「洗浄法」から入る。 龍神に雨を降らしていただいて、そ 龍雨によって心身の不浄不快がすべて洗い流され、病気の根もすべて洗い流

毎朝一回、十五分ほどかけてこの瞑想をおこなう。

この洗浄瞑想を毎日重ねて実行していると、一日中体が元気で爽快になり、 さらに龍神に好意を持っていただけるようになる。

澄み渡った青空に突然一塊の雲が沸き起こり、たちまち空一面が黒い雲に覆 われてしまう。
その黒い雲の中心に金色の龍王を観想する。 この龍王は水晶で見ているお姿 である。この金色の龍王が大神通力をもって暴風を起こしている。さらに大雨 が降ってくる。滝のように降ってくる大雨を頭から受けている。 それはあたか も滝行のごとくである。

この大雨によって心身の不浄不快がことごとく洗い流される。 病気の根もすべて洗い流す。 そう観じて、般若心経 五反

つぎに、観想。

「わが心身爽快なり。わが身の不浄不快悉く消滅す」

そして、準小呪。

「オン・シャレイ・シュレイ・ジェンテイ・ソワカ」

五唱し、 よびかける。

けんぞく

準胝如来は龍神をしたがえておられる。 龍神は準胝如来の眷属であるから、 この真言を唱えると非常にお喜びになる。

最後に、

 

「臨兵闘者皆陳列在前、エイッ」

九字を三回切って終わる。

すると龍王は喜び勇んで姿を消すが、つねに行者の身辺にあって守護してくださっている。そして行者がよぶのを待っておられる。なにかつらいことや 困ったことがあるとサーッと姿をあらわして助けてくださる。

およびするときには、左手親指を右拳でつつむ「如来拳印」で、あなたの水 品で感得した「ナンダ龍王」あるいは「ウパナンダ龍王」をおよびし、

「来たってわれを救いたまえ」

と心の中でつぶやけば、たちまち姿をあらわして助けてくださる。

水晶龍神瞑想法(四神足法)

つぎに、いよいよ、釈尊の成仏法の真髄である四神足法の瞑想法である。

これが、さきほど大極秘伝といった、八科四十一道品の中の一科四道品、四 安那般那念法となる法で、 「水晶龍神瞑想法」という。

ただし、さきほどもいったように、これ以上は筆にすることができない。

法を惜しんでいるわけではないが、この法に関しては、わたくしが導師と なって、あなたを弟子として受け入れ、その修行の進み具合を見ながら直接指

導しなければ、絶対に法を成就することができない。

だが、熱心な修行者のために、少しだけヒントをさしあげよう。

この瞑想法では、さきほどの水晶龍神御尊像と、「輪廻転生瞑想法II」で紹介 した準胝尊秘密光明曼荼羅を使うのである。

そして、水晶と曼荼羅を組み合わせ、ある特殊な観想と真言読誦によって、 脳内のチャクラに仏陀の思念、すなわち、「王者による思念の相承」を受けるの である。さらに、この瞑想法とあわせて、護摩行(火界定)と滝行(水想観)を 修することが、最も望ましい。

阿含宗の瞑想道場には、水晶龍神御尊像と準胝尊秘密光明曼荼羅をそなえて あり、護摩行、滝行ができる設備をそなえた道場もある。

ぜひ、わたくしの瞑想道場に来て、わたくしか、わたくしの直弟子から指導 を受けることを強くお勧めする。

輪廻転生瞑想法のカリキュラム

四神足法解說

四神足法解說

欲神足法

勤神足法

心神足去

では、このクンダリニー・ヨーガの修行法と、シャカの成仏法との関連は、どのよ

うなものであろうか?特に、わたくしがさきに「金星の法」だといった求聞持聡明

法の原典である四神足法、五力法との関連はどのようなものであるのか。

まず、四神足法と五力法について見てみよう。

人間の生命力の、特に肉体上における根源的諸条件を、完全なものにする修行法。

欲神足法で得た能力をベースに、肉体上の基本的諸条件を、さらに飛躍的に向上させる修行法。

四神足法解說

欲神足法

勤神足法

心神足去

では、このクンダリニー・ヨーガの修行法と、シャカの成仏法との関連は、どのよ

うなものであろうか?特に、わたくしがさきに「金星の法」だといった求聞持聡明

法の原典である四神足法、五力法との関連はどのようなものであるのか。

まず、四神足法と五力法について見てみよう。

人間の生命力の、特に肉体上における根源的諸条件を、完全なものにする修行法。

欲神足法で得た能力をベースに、肉体上の基本的諸条件を、さらに飛躍的に向上させる修行法。

心神足法

観神足法

肉体的能力の向上発達を基に、精神的能力を充実させ、さらに段階的にその能力を飛躍向上させて行く。

すなわち、脳の欠階部分を補強するための準備段階として、古い脳を人為的に進化させる修行法である。ワニとウマの獣性の脳を霊性の脳に変えて行くのである。

あたらしい脳である新皮質を向上させるとともに、霊性の場である間脳を開く。同時に、間脳に付属する視床下部と、古い脳辺縁系との神経回路を補充強化する修行法である。知性と霊性の完全なる融合だ。

以上が、四神足法の概略である。

四神足法を成就したとき、その修行者は、仏陀に準ずる大聖者となる。業を超え、 因縁を解説し、生者、死者ともに解脱成仏させる大聖者である。

その関係はつぎの通りである。

「ムーラーダーラ・チャクラ

欲神足 【スヴァーディシュターナ・チャクラ

勤神足マニプーラ・チャクラ

心神足ヴィシュッダ・チャクラ

「アナーハタ・チャクラ

観神足サハスラーラ・チャクラ

(アージュニャー・チャクラ

以上であるが、ここに非常に重大なことがある。

それは、四神足法は、クンダリニー・ヨーガのチャクラを開発しただけでは不十分だということである。チャクラを開発すると同時に、各チャクラを統合して機能させてゆく技法が必要なのである。わたくしはいま、非常に重大、ということばを使ったが、それはそれ以上、絶対に必要なポイントなのである。

それは、どういうことか?

 

チャクラは、チャクラを覚醒、発動させる技術によって活動を開始し、チャクラ特有の力を発生する。しかし、それだけでは、四神足法が目的とする神力(超常的能力)にまでは到底、至ることが出来ない。どうしても、これらのチャクラを統合して、 さらにパワーを加圧、加増して、重点的にはたらかせる技法が必要なのである。

それは、二つの技法である。

1、各チャクラが発生したエネルギーを、自由にコントロールし、かつ、自分の必要とする場所に自在に送達させることの出来る回路を持つ。

特に、脳にたいしての回路が重要である。

2、その回路作製を可能ならしめるための神経経路を補強、さらに、新たにつくり出す。

これは、特に、さきにのべた「新皮質と視床下部をつなぐ神経経路を補強す

る」ということにも、必要欠くべからざる技法なのである。

この二つの技法は、クンダリニー・ヨーガにはないものである。

ただし、全くないのではなく、これに類似した技法が一つある。

ある。 骨低骨から脳の下部のスシュムナー管は、脊柱の中空部にある生気の通る路で、背低化か脈にまで届いている。また、スシュムナー管の内側には、ヴァジリニーとよばれる気道があり、さらにその内側には、クモの糸のように細かいチトリニとよばれる気道が

それは、スシュムナー管と、ピンガラ、イダーという気道を使う法である。

クンダリニー・ヨーガというのは、だれもが体内に持つクンダリニーと名づける強大な生命の根源力を目ざめさせて、これにより、超常的体力を獲得し、特殊な精神領城に到達しようとするヨーガである。

クンダリニーは、脊柱の一番下部、尾骶骨のチャクラ(ムーラーダーラ)の部分に、 蛇が三巻き半、とぐろを巻いたような形で眠っている。クンダリニーというのは、 「巻かれているもの」という意味である。

クンダリニーは、そこにあるスヴァヤンブーという男根のまわりに巻きついていて、

その頭部で、スシュムナー管の入口を閉ざしている。

特殊な瞑想・思念・ムドラー・マントラ詠唱などの動作によってチャクラが発動し、

クンダリニーが目ざめると、クンダリニーは噴火した火のような激しい勢いで、

 

きをする。 クンダリニーの目ざめとともに、スシュムナー管の両側にあるピンガラとイダーという二つの気道が開き、クンダリニーのエネルギーは、この二つの気道をも、ラセン状に上昇してゆく。この二つの気道は、その後のクンダリニーの力を調節するはたら

かろうか? 四神足法も、このクンダリニー・ヨーガの技法を、そのまま使ったらよいのではな

クンダリニーが目ざめると、クンダリニーは噴火した火のような激しい勢いで、スシュムナー管を上昇してゆく。クンダリニーを Serpent fire (サーペント・ファイア、 蛇の火)と呼ぶのも、そこからきているのである。

クンダリニー・ヨーガの目的は、聖なるものと一体となる至高の境地を目ざすので、 スシュムナー管、ピンガラ・イダーの両気道を上昇するクンダリニーのエネルギーは、 最終的に、サハスラーラ・チャクラにまで到達して、その目的を達するのである。

以上が、クンダリニー・ヨーガの気道の技法とされるものである。

そうはいかないのである。たんにチャクラを目ざめさせ、そのエネルギーを発動さ

 

なぜか?

せただけでは、四神足法の目的を達成することは出来ないのである。各チャクラを統合し、そのエネルギーをさらに増幅して目的のものに集中する方法が、どうしても必姿なのである。

では、クンダリニーを覚醒させ、これを使ったらいいではないか。

わたくしは、すべての阿含経はもとより、仏陀にまつわるさまざまな伝説に至るまで、あらゆるものを分析した結果、仏陀の成仏法には、クンダリニー・ヨーガのクンダリニー覚醒法が用いられた形跡を発見することが出来なかった。(かれ自身は、それを完全に成就していたであろうが)

クンダリニーの覚醒は、あまりにも激烈、過激すぎて、完全な脳を新しくつくりあげるのには適切でないのである。クンダリニー・ヨーガは、人間の脳の欠陥を是正する方法ではなく、そこを通り抜けて一挙に、別次元の高度の意識領域に突入してしまう方法なのである。

これは危険過ぎるし、かつ、ごく限られた特殊な人にしか用いられない方法であっ

た。

ある。 サーサージーみ仏陀の修行法の中心である安那般那について、最もくわしく説いた経が雜阿含経に

仏陀は、だれでもが実行できる修行法を教えた。一心に修行さえすれば、だれでもが成仏できる方法を教えたのである。だから、チャクラを使うことはとり入れたが、 クンダリニー・ヨーガの覚醒法はとり入れなかったのである。クンダリニー・エネルギーは使ったけれども、その方法はまったく違っていたのである。

では、どのようにしたのであろうか?

仏陀の Anāpāna の法

左に載せよう。

是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舍衛国の祇樹給孤独園に住まいたまへり。爾の

 

かんぼうし巳つて住処へ還へり、衣鉢を挙げ足を洗ひ已って或は林中の開房の樹下、或は

時世尊、諸の比丘に告げたまはく『安那般那の念を修習せよ。若し比丘の安那般

那の念を修習するに多く修習せば身心止息することを得て有覚、有観、寂滅、純

一にして明分なる想を修習満足す。何等をか安那般那の念を修習するに多く修習

し已らば身心止息し、有覚、有観、寂滅、純一にして明分なる想を修習満足すと

為す。是の比丘、若し聚落域色に依りて止住し、晨朝に衣を着け鉢を持ち、村に

入りて乞食するに善く其の身を護り、諸の根門を守り善く心を繋けて住し、乞食

空露地に入りて端身正坐し、念を繋けなば面前、世の貪愛を断じ欲を離れて清浄

に、順表・睡眠・悼悔・疑・断じ、諸の疑惑を度り、諸の善法に於て心決定するよわ

ことを得、五蓋の煩悩の心に於て慧力をして嵐らしめ、障礙の分と為り、涅般に

趣かざるを遠離し、内息を念じては念を繋けて善く学し、外息を念じては念を繋

けて着く学し、息の長き息の短き、一切の身の入息を覚知して一切の身の入息に

於て善く学し、一切の身の出息を覚知して一切の身の出息に於て善く学し、一切

の身の行息・入息を覚知して、一切の身の行息・入息に於て善く学し、一切の身

 

の行息・出息を覚知して、一切の身の行息・出息に於て善く学し、喜を覚知し、

楽を覚知し、身行を覚知し、心の行息・入息を覚知して心の行息・入息を覚知するに於て善く学し、心の行息・出息を覚知して、心の行息・出息を覚知するに於て善く学し、心を覚知し、心悦を覚知し、心定を覚知し、心の解脱入息を覚知して、心の解脱入息を覚知するに於て善く学し、心の解脱出息を覚知して、心の解脱出息を覚知するに於て善く学し、無常を観察し、断を観察し、無欲を観察し、

滅入息を観察して、滅入息を観察するに於てよく学し、滅出息を観察して、滅出

息を観察するに於て善く学する。是れを安那般那の念を修するに身止息し心止息し、有覚、有観ならば寂滅、純一にして明分なる想の修習満足せりと名づく』と。 仏此の経を説き已りたまひしに諸の比丘、仏の説かせたまふ所を聞きて、歓喜奉行しき。

これまで、安那般那は、仏陀の呼吸法を説いたものであるとされてきた。

(雑阿含経・安那般那念経)

決してそうではないのである。安那般那はたんなる呼吸法ではないのである。ここには、成仏法の中心である四神足法の神が説かれているのである。

まず、この様に説かれている呼吸法を見てみよう。

外島

入息

出息

行息

身の行息・入息

身の行息・出息

心の行息・入息

心の行息・出息

心の解説入息

心の解説出息

滅入息

 

滅入息

滅出息

身止息

心止息

実に十五種類の呼吸法が説かれているのである。こんな短い経典に、十五種類もの呼吸法が説かれているのだ。いとも簡潔に呼吸法の項目だけが並んでいるが、それは、 この講義を聴聞した修行者たちが、みな、これらの呼吸法に熟達した者ばかりで、 一々、その内容に就いて説明する必要がなかったからであろう。

そこで、

ここで注意しなければならないことがある。

それは、「息」の解釈である。

こきゅうこれを、たんなる呼吸と解釈してしまってはいけない。

これは、「呼吸」であるとともに、生気をともなった息、すなわち、いうならば 「気・感」をもあらわしているということである。一をもあらわしているということである。これは、インドにおけるヨーガの