UA-135459055-1

PC

曼荼羅の中心──蓮華の座にて

《曼荼羅の中心──蓮華の座にて》

あの夜。
第一の願いを浄め終えたその瞬間、透の胸に宿る珠が淡く輝き、彼の意識はふたたびあの虚空へと引き寄せられた。

星なき闇。
その中心に、一輪の蓮が咲いていた。

蓮の上には、十三の顔と千の手を持つ存在が、静かに座していた。
彼女は何も語らない。ただ、すべてを見透かすように透を見つめていた。

そして、次の瞬間──

その顔の一つが、透に向けて微笑みかけた。
声なき声が、胸の奥に直接響く。

「赦しの光は、ただ罪を忘れさせるものではない。
罪の痕を抱きながら、それでもなお歩もうとする意志にこそ、慈悲の光は宿るのです。」

透は、首を垂れた。
廃村で出会った元教師の嘆き、子どもたちの声、そして自分自身の心のどこかにもあった“許されなさ”が、今も胸を締めつけていた。

「……僕は、あの人を救えたわけじゃない。
ただ、ほんの少し、寄り添えただけで……。それでも、よかったんでしょうか」

準胝観音は、ゆっくりと手を差し伸べる。
その手のひらには、咲きかけの小さな蓮の蕾が浮かんでいた。

「蓮は、泥の中で咲きます。
清らかに見える花も、その根は濁流の中にある。
あなたの歩みもまた、そうであるのです。」

「泥の中で……」

「あなたが背負うもの。
それは、過去世においてすでに“願われた光”でもあります。」

そのとき、透の目の奥に、かすかに過去の光景がよぎった。
幼い声、涙の中で交わされた“約束”、誰かの手を離してしまった記憶。

だが、それはまだ輪郭の定まらぬ“影”。

「すべての珠がそろうとき、
あなたは“自身の願い”が、他者の願いと交わっていたことを知るでしょう。
曼荼羅とは、願いの縁の交差点なのです。」

準胝の瞳は、どこまでも澄んでいた。

「神月透。
あなたは願いを聴く者。
けれど、同時に……かつて願った者でもあるのです。」

透の目に、ふっと涙がにじんだ。

「……わかりました。
僕はまだ、ほんの一歩しか踏み出していない。
でも、それでも、歩いていきます。光が見える限り。」

観音は、静かに頷いた。

その瞬間、曼荼羅の中心から八方へと広がる道が、ふたたび淡く輝いた。
次なる願いが、透を呼んでいる。

虚空が静かに揺れ、透の意識は現世へと引き戻されていく──

『如意の宝珠伝 ~準胝の誓いを継ぐ者~』

――プロローグ:準胝の誓い

かつてこの世界が、深い闇に包まれていた時代があった。
天は裂け、大地は呻き、人の心からは祈りが消えた。
誰もが希望を失い、声にならぬ願いだけが、空虚に満ちていた。

そんな混沌の中で、ひとりの観音が、静かに蓮華座に坐した。
その名は――準胝観音。
千の手を持ち、無量の慈悲をその胸に宿す者。
声なき声を聴き、形なき苦しみを抱きしめる者。

観音は、誰にも聞こえぬほど微かな声で、宇宙の深奥に誓いを響かせた。

「もし、人が心を静め、我が真言を唱えるならば――
いかなる災厄であっても、その魂を傷つけることはない。
天においても地においても、等しき福徳がその者に降り注ぐ。
そして“如意の宝珠”に巡りあうならば、その者は比類なき功徳を得るであろう。

だが――
もしこの誓いをもってしても、たった一人の願いすら叶えることができぬのなら、
私は偽りの者として堕ち、悟りへの道を閉ざし、この大悲の誓いを捨てよう。」

その言葉は、永遠を貫く刃のように鋭く、同時に、全てを包む母のように優しかった。
時代が変わっても、文明がいかに進もうとも、
準胝観音は変わらず、無数の苦しみの中に耳を澄まし、静かに歩み続けている――

第一章 声なき願い

神月透(かんづき とおる)が、初めてあの声を聞いたのは、冬の午後だった。

その日はどこか、世界が不自然に静かだった。
学校帰りの道、風は凪ぎ、車の音も遠のき、まるで時間が沈黙しているかのようだった。
誰にも話さず、誰にも話しかけられずに過ごした一日。
透の心は、重い鉛のように沈んでいた。

ふと気づくと、彼の足は、住宅街を外れていた。
まるで何かに導かれるように、小道を抜け、木々に囲まれた古びた石段の前に立っていた。

石段の上に佇むのは、誰もいない小さな寺だった。
門は開かれていたが、人気はない。
枯葉が舞い、ひっそりとした空気が漂っている。

透は、引き寄せられるように、その寺の中へと足を踏み入れた。

本堂の奥には、古びた厨子(ずし)があり、煤けた仏像がひとつ、静かに祀られていた。
六本の腕を持つ、穏やかな表情の観音像。
どこか懐かしい、けれど、言い表せぬほど厳かな存在感。

その足元に、色あせた札が落ちていた。
拾い上げると、筆でこう書かれていた。

「準胝真言を唱えよ。願いは聴かれる」

「じゅんてい……?」

透はその名を呟いた。

不意に、風もないのに、堂内の灯明が揺れた。
静寂の中、透の胸の奥に、確かに何かが響いた。

――ナム サラ バ タ タ アバ ロキャティ ソワカ……

その言葉が、誰のものでもなく、心の中から流れてきた。

そして、像の目が、ゆっくりと開かれた――

第二章 因縁の記憶

あの夜から、透の中で何かが変わり始めていた。
駅の階段でつまずいた老人に手を伸ばす時。
隣の席で、ひとりぼっちのクラスメイトと目が合った時。
ふとした瞬間、胸の奥に、名前のない“痛み”がよぎるようになった。

そして、再び夢は訪れた。

白霧の世界――
前と同じ、声なき人々の海。
だが今回は、その中に、ひときわ濃い影が立っていた。

老婆。
前回と同じ姿。
だが、その背後には、かつての時代――
荒れた村、木の小屋、布を裂く音、空腹の子どもの声――が、浮かび上がっていた。

老婆の手は、火鉢にかざされていた。
寒さでかじかむ手。
痩せ細った腕。
そして、その腕の先に、透は見た。

――自分自身の手を、握っているのを。

「……あなた……まさか……」

透が思わず声を出すと、老婆の目に涙が浮かんだ。

「わたしの名は“澄(ちょう)”。
かつてあなたを育てた者。
戦と疫病がすべてを奪った時代……
私はあんたを、仏の子だと信じて、育てたのです。
だけど……最後の夜、私は……」

その先は言葉にならなかった。

透は、遠い記憶の底で、それを思い出していた。

火が回った家。
寒さに凍え、母を呼んだ声。
差し出されたぬるい粥と、布の中のぬくもり。

そして、最後に見た、
布団の向こうで静かに座禅を組んだまま、目を閉じた老婆の姿。

透が幼すぎて知らなかった“死”。
彼女は――自分の食を削り、身を包み、
静かに命を渡していたのだ。

その瞬間、観音の真言が、胸の奥から自然とこぼれた。

「ナム・サラ・バ・タ・タ・アバ・ロキャティ・ソワカ……」

老婆の姿が、ゆっくりと光に包まれていく。

「あなたがこの真言を得たのなら、私はもう十分……
願いは果たされました……
だから……今度は、あなたが聴いてあげて。
誰にも届かぬ声を、あなたが……」

光と共に、老婆は消えていった。
だが透の心には、彼女のぬくもりが深く、深く刻まれていた。

目覚めた時、透の掌には一枚の古布が握られていた。
どこか甘い香がする、手縫いの布。

「……澄さん……」

初めて、その名を呼んだとき、
何かが静かに、魂の奥底で解けていった。

そして透は、決意した。

この真言は、自分ひとりのものではない。
無数の願いに応えられず、声を失った者たちのために。
“今を生きる者”として、祈りを聴く者になるために――

第三章 彼方より来る者

初夏の夕暮れ。
都会の喧騒も少し和らぎ、透はひとり、河原沿いの細道を歩いていた。
胸の奥に沈むような感覚――
それは、誰かの“声なき願い”に触れた夜から、ずっと続いている。

(俺は……何をすればいいんだろう)

手の中の念珠を握ると、不意に足が止まった。

その道の先に、ひとりの“少女”が立っていた。

白い着物に薄藍の帯。
髪は長く、風に揺れている。
顔はよく見えなかったが、その姿には奇妙な既視感があった。

そして透が数歩近づいたそのとき、少女は口を開いた。

「あなたは、“願い”に触れたのね。」

澄んだ声だった。
まるで、霧の奥で響く鈴のように。

「え……?」

透が問い返すより先に、少女はゆっくりと振り向いた。
その瞳には、深い静けさと、遠い悲しみが宿っていた。

「神月透。
かつて、観音の誓いを支えた者。
また目覚めの時が来たの。」

透は言葉を失った。

「あなたに宿された“真言”は、ただの音ではない。
それは、千の命、万の悲願を紡いできた“橋”。
あなたがそれを思い出したとき、再び“輪”が回り始める。」

少女は歩み寄り、透の胸にそっと手を置いた。

「私は、準胝の“ひとしずく”。
人の世に降り、まだ目覚めぬ“願い”を起こす者。」

「……準胝……?」

透の唇からその名がこぼれた瞬間――
背後の夕空が金色に染まり、
少女の姿が一瞬、無数の手を持つ慈母の姿へと変わった。

十三の顔。千の手。無限の慈悲。

それは――夢の中で何度も見た、あの光景そのものだった。

少女は微笑んだ。

「今はまだ、あなたには見えないものもあるでしょう。
でも……道は、あなたの中にある。」

そして、彼女は小さな“光の珠”を掌に現した。

「これが、“如意の宝珠”へ至る鍵の一つ。
願いを聴く者だけが、それを持つ資格を得る。」

その光を、透の掌に託すと、少女は静かに背を向けた。

「私は、また来るわ。
あなたが“耳”と“心”を開いたとき、
次の扉が見えるでしょう。」

そう言って、少女は道の奥へと消えていった。
まるで、最初からこの世の者ではなかったかのように。

透はしばらく、その場を動けなかった。

掌には、あたたかな光の残り香。
心には、風のような声が響いていた。

「願いを聞く者となりなさい。
それが、あなたの“目覚め”の始まり。」

 

 

 

 

 

『如意の宝珠伝 ~準胝の誓いを継ぐ者~』

――プロローグ:準胝の誓い

かつてこの世界が、深い闇に包まれていた時代があった。
天は裂け、大地は呻き、人の心からは祈りが消えた。
誰もが希望を失い、声にならぬ願いだけが、空虚に満ちていた。

そんな混沌の中で、ひとりの観音が、静かに蓮華座に坐した。
その名は――準胝観音。
千の手を持ち、無量の慈悲をその胸に宿す者。
声なき声を聴き、形なき苦しみを抱きしめる者。

観音は、誰にも聞こえぬほど微かな声で、宇宙の深奥に誓いを響かせた。

「もし、人が心を静め、我が真言を唱えるならば――
いかなる災厄であっても、その魂を傷つけることはない。
天においても地においても、等しき福徳がその者に降り注ぐ。
そして“如意の宝珠”に巡りあうならば、その者は比類なき功徳を得るであろう。

だが――
もしこの誓いをもってしても、たった一人の願いすら叶えることができぬのなら、
私は偽りの者として堕ち、悟りへの道を閉ざし、この大悲の誓いを捨てよう。」

その言葉は、永遠を貫く刃のように鋭く、同時に、全てを包む母のように優しかった。
時代が変わっても、文明がいかに進もうとも、
準胝観音は変わらず、無数の苦しみの中に耳を澄まし、静かに歩み続けている――

第一章 声なき願い

神月透(かんづき とおる)が、初めてあの声を聞いたのは、冬の午後だった。

その日はどこか、世界が不自然に静かだった。
学校帰りの道、風は凪ぎ、車の音も遠のき、まるで時間が沈黙しているかのようだった。
誰にも話さず、誰にも話しかけられずに過ごした一日。
透の心は、重い鉛のように沈んでいた。

ふと気づくと、彼の足は、住宅街を外れていた。
まるで何かに導かれるように、小道を抜け、木々に囲まれた古びた石段の前に立っていた。

石段の上に佇むのは、誰もいない小さな寺だった。
門は開かれていたが、人気はない。
枯葉が舞い、ひっそりとした空気が漂っている。

透は、引き寄せられるように、その寺の中へと足を踏み入れた。

本堂の奥には、古びた厨子(ずし)があり、煤けた仏像がひとつ、静かに祀られていた。
六本の腕を持つ、穏やかな表情の観音像。
どこか懐かしい、けれど、言い表せぬほど厳かな存在感。

その足元に、色あせた札が落ちていた。
拾い上げると、筆でこう書かれていた。

「準胝真言を唱えよ。願いは聴かれる」

「じゅんてい……?」

透はその名を呟いた。

不意に、風もないのに、堂内の灯明が揺れた。
静寂の中、透の胸の奥に、確かに何かが響いた。

――ナム サラ バ タ タ アバ ロキャティ ソワカ……

その言葉が、誰のものでもなく、心の中から流れてきた。

そして、像の目が、ゆっくりと開かれた――

第二章 因縁の記憶

あの夜から、透の中で何かが変わり始めていた。
駅の階段でつまずいた老人に手を伸ばす時。
隣の席で、ひとりぼっちのクラスメイトと目が合った時。
ふとした瞬間、胸の奥に、名前のない“痛み”がよぎるようになった。

そして、再び夢は訪れた。

白霧の世界――
前と同じ、声なき人々の海。
だが今回は、その中に、ひときわ濃い影が立っていた。

老婆。
前回と同じ姿。
だが、その背後には、かつての時代――
荒れた村、木の小屋、布を裂く音、空腹の子どもの声――が、浮かび上がっていた。

老婆の手は、火鉢にかざされていた。
寒さでかじかむ手。
痩せ細った腕。
そして、その腕の先に、透は見た。

――自分自身の手を、握っているのを。

「……あなた……まさか……」

透が思わず声を出すと、老婆の目に涙が浮かんだ。

「わたしの名は“澄(ちょう)”。
かつてあなたを育てた者。
戦と疫病がすべてを奪った時代……
私はあんたを、仏の子だと信じて、育てたのです。
だけど……最後の夜、私は……」

その先は言葉にならなかった。

透は、遠い記憶の底で、それを思い出していた。

火が回った家。
寒さに凍え、母を呼んだ声。
差し出されたぬるい粥と、布の中のぬくもり。

そして、最後に見た、
布団の向こうで静かに座禅を組んだまま、目を閉じた老婆の姿。

透が幼すぎて知らなかった“死”。
彼女は――自分の食を削り、身を包み、
静かに命を渡していたのだ。

その瞬間、観音の真言が、胸の奥から自然とこぼれた。

「ナム・サラ・バ・タ・タ・アバ・ロキャティ・ソワカ……」

老婆の姿が、ゆっくりと光に包まれていく。

「あなたがこの真言を得たのなら、私はもう十分……
願いは果たされました……
だから……今度は、あなたが聴いてあげて。
誰にも届かぬ声を、あなたが……」

光と共に、老婆は消えていった。
だが透の心には、彼女のぬくもりが深く、深く刻まれていた。

目覚めた時、透の掌には一枚の古布が握られていた。
どこか甘い香がする、手縫いの布。

「……澄さん……」

初めて、その名を呼んだとき、
何かが静かに、魂の奥底で解けていった。

そして透は、決意した。

この真言は、自分ひとりのものではない。
無数の願いに応えられず、声を失った者たちのために。
“今を生きる者”として、祈りを聴く者になるために――

第三章 彼方より来る者

初夏の夕暮れ。
都会の喧騒も少し和らぎ、透はひとり、河原沿いの細道を歩いていた。
胸の奥に沈むような感覚――
それは、誰かの“声なき願い”に触れた夜から、ずっと続いている。

(俺は……何をすればいいんだろう)

手の中の念珠を握ると、不意に足が止まった。

その道の先に、ひとりの“少女”が立っていた。

白い着物に薄藍の帯。
髪は長く、風に揺れている。
顔はよく見えなかったが、その姿には奇妙な既視感があった。

そして透が数歩近づいたそのとき、少女は口を開いた。

「あなたは、“願い”に触れたのね。」

澄んだ声だった。
まるで、霧の奥で響く鈴のように。

「え……?」

透が問い返すより先に、少女はゆっくりと振り向いた。
その瞳には、深い静けさと、遠い悲しみが宿っていた。

「神月透。
かつて、観音の誓いを支えた者。
また目覚めの時が来たの。」

透は言葉を失った。

「あなたに宿された“真言”は、ただの音ではない。
それは、千の命、万の悲願を紡いできた“橋”。
あなたがそれを思い出したとき、再び“輪”が回り始める。」

少女は歩み寄り、透の胸にそっと手を置いた。

「私は、準胝の“ひとしずく”。
人の世に降り、まだ目覚めぬ“願い”を起こす者。」

「……準胝……?」

透の唇からその名がこぼれた瞬間――
背後の夕空が金色に染まり、
少女の姿が一瞬、無数の手を持つ慈母の姿へと変わった。

十三の顔。千の手。無限の慈悲。

それは――夢の中で何度も見た、あの光景そのものだった。

少女は微笑んだ。

「今はまだ、あなたには見えないものもあるでしょう。
でも……道は、あなたの中にある。」

そして、彼女は小さな“光の珠”を掌に現した。

「これが、“如意の宝珠”へ至る鍵の一つ。
願いを聴く者だけが、それを持つ資格を得る。」

その光を、透の掌に託すと、少女は静かに背を向けた。

「私は、また来るわ。
あなたが“耳”と“心”を開いたとき、
次の扉が見えるでしょう。」

そう言って、少女は道の奥へと消えていった。
まるで、最初からこの世の者ではなかったかのように。

透はしばらく、その場を動けなかった。

掌には、あたたかな光の残り香。
心には、風のような声が響いていた。

「願いを聞く者となりなさい。
それが、あなたの“目覚め”の始まり。」

 

 

zz

ロリポップ! no-reply@lolipop-service.jp

6月14日(土) 20:01 (22 時間前)

To 自分

ご契約中のロリポップ!レンタルサーバーのアカウントにつきまして、次回のお支払いのご案内です。

次回のご請求は【 572 】円です。
【 2025-06-16 】までに、ユーザー専用ページ『契約・お支払い』よりお支払い手続きを行ってください。
締切日までにお支払いが確認できない場合、ホームページの表示やメール送受信ができなくなりますので余裕を持ってお支払い手続きをお願いいたします。

小説風化:「解説の力

小説風化:「解説の力──四安那般那念法を巡る記録」第一話より

夜は静かに更けていた。風の音も止み、草木は一切の囁きをやめた。トウマは薄明かりの灯の下、古びた写本を開いていた。

「奇特止息法――」

その言葉に、彼の指が止まる。紙に刻まれた文字の、ひとつひとつが呼吸しているかのように見えた。

「奇特──特に異なっていること。不思議なこと。奇蹟。」

その語義の解説を目にした瞬間、彼の胸にざわめきが走った。それは単なる呼吸法や坐禅の術ではなかった。この法は、顔を起こす力、すなわち眠れる魂を目覚めさせる、「特異なる禅定」なのだという。

「奇蹟……か。」

彼はつぶやいた。
成仏とは、果たして何なのか。自分という存在の深みに沈み、闇と対峙する中で、光を見出すこと。それが仏となる道ならば、そこには何かしらの通力──それも並外れた「大神通力」が必要であるはずだ。

しかし、その「大神通力」とは、何かを動かしたり、空を飛んだり、超常の力を持つことではない。

「解説の力──」

トウマは、師の言葉を思い出していた。

「真に奇蹟と呼べるものは、自分を解き明かす力、自他の因縁を明らかにする智慧じゃ。解説とは、ただ語ることではない。それは宇宙を照らす仏の灯火なのじゃ。」

因縁を解き、自らの苦しみを説明できること。
それこそが、成仏への鍵なのだと。

この写本に記されていた四つの法──

勝止息法

奇特止息法

上止息法

無上止息法

それらは、まさに因縁解脱を実現する「解説力」の根源だった。
つまり、因縁解脱力を得るための、大神通力を生む四つの扉である。

トウマの心に、ある直感が閃いた。

「これらは、四神足のうちの“観神足”にほかならないのではないか……」

深く座し、観じることにより、神足──自在なる智慧と力を得る。
それは師から授かった阿含の中にあった“一乗道”の教えと響きあっていた。

「七科三十七道品では足りぬ。これを加えなければならぬ。」

トウマは筆を取り、写本の余白に一行の文字を刻む。

「八科四十一道品──これをもって成仏法奥義とす。」

その文字を見つめながら、彼は小さく笑った。
自らを解く力、因縁を解き明かし、道を照らす力。

それこそが、最大の奇蹟。
彼は、いまその奇蹟への扉の前に立っていた。

准低

5

准低とは、梵名チュンディー (Cundī) の音写で

「清浄無垢」という意味があり、さとりの道を歩ませる観音です。

別名、准低仏母、七俱胝仏母とも呼ばれます。

七俱胝とは「無量」を意味しますから、多くの諸仏の母となります。そのため観音菩薩ではないとの説もあります。経軌にも観音として説かれていないことから、天台密教では准胝如来として仏部の尊としますが、真言密教では観音の一つとして六観音の中に加えます。

求児・安産の本尊としてもまつられます。もとは水の神で、その姿は女身といわれています。 なお、胎蔵曼荼羅中台八葉院の観音の種子は、 この准胝観音のブ(bu) 字が記されています。

なんわか