カルマとはなにか? いうならば
くに終交に行き着くことのてき。しメテて。07
なぜか?
◎霊性完成の到達点は、カルマからの超越である。
カルマとはなにか? いうならば、地球における引力のようなものである。
地球上に存在するものすべて、地球引力の支配下にある。いかなるものも、引力から逃れることはできない。いや、地球という存在そのものが、引力によって成り立っているのである。人間におけるカルマもそのとおりである。人はすべて、輪廻のカルマの絶対的な規制を受けている。このカルマから、もろもろの
「因縁」が生じて、人間を繋縛しているのである。いや、カルマと因縁によっけばく
て、人間が成立しているのだ。このカルマと因縁の緊縛から完全に解説したときが、霊性の完成である。いうならば引力からの脱出である。反重力の修行なっだ。その修行によって自分の存在の次元が変わるのである。
存在とはなにか? それは究極のところ『波動”である。『自分』という波動 ・を変えてしまうのだ。それにより『カルマ”という波動を越えてしまうのである。
人間という存在の波動を変える原点は、間脳の視床下部にある。ここの波動を変えることにより、全身の波動が変わり、特殊な精神波動と肉体波動を持つ存在になる。それは、カルマの規制を受けない、ふつうの人間とはまた異なった、高
オーラ殊な「霊光」が発生するようになる。この特殊なオーラの発生は、全身の波動が
・度な霊的存在とよぶよりほかない存在となるのである。これが成就すると、特オーラ変化したことを示すのである。オーラについてはまたあとでのべるが、このオーラの発光源は間脳なのである。瞑想だけでは、以上のような次元の変化”は不可能である。もちろん、心の安定、集中、まったく新しい高い次元へのメディ
テイト等、瞑想はこの修行に絶対必要なものである。しかし、それはひとつの
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手段にすぎない。瞑想は、大脳辺縁系と新皮質脳しか動かすことができない。だから瞑想だけではだめなのである。間脳をはたらかす瞑想でなければ、オーラは
発生しない。したがって、カルマを越えることはできないのである。
では、なにが必要なのか?
タバス ◎ 特殊なtapas (練行)である。
学者は tapas を苦行と訳しているが、わたくしはこれを、練行と訳したい。そしてこの練行が絶対に必要なのである。
思念による王者の相承
いている。 チベット密教のニンマ派では、古くから解脱の完成に三つの方法があると説
一、思念による王者の相承
じみようしゃ二、象徴による持明者の相承
ギヤルワゴン rgyal ba dgongs pa’i brgyud pa rig ‘dzin brda’i brgyud pa リクコンデュ
三、耳を通した言葉による人の相承 gang zag snyan gyi brgyud pa
である。
ゆたん
いる。 霊界の法の世界において、法の完成者タターガタ(如米)が常恒に法を説いて
一の「思念による王者の相承」とは、この法身タターガタが、言葉や象徴という媒介なしに、直接相手の心に自分の心を伝達するものである。この場合、 心、というのは単なる思念の心ではなく、パワーを主としたものと思うべきである。これによって、相手はたちどころに仏陀として完成するのである。
これは最高であり、理想的なものであること、もちろんである。「王者の」、と
いう所以である。
二の「象徴による持明者の相承」とはどういうものかというと、象徴とは、ある言葉、かたち、音、色などに複雑な思想の内容を圧縮して詰め込んだものをいい、また、持明者 (rig ‘dzin)とは、純粋な心で実相をそのまま見ることがで
きる真如の世界に到達した者たちのことである。この相承(方法)では、真如の理解を持つ持明者たちは、導師から象徴を示されることで、密教の深奥に到達のである。
YAMAHA
きる真如の世界に到達した者たちのことである。この相承(方法)では、真知の理解を持つ持明者たちは、導師から象徴を示されることで、密教の深奥に到達する教法を授けられるのである。
以上のすぐれた方法に対し、ふつうの人間は、霊感はなかなか得がたく、また象徴だけでは深い密教の教法を即座に理解することはできない。そこで、ラマが、いろいろな言葉をもちいてくわしく説き明かし、弟子に理解させていく。
いわゆる「口頭伝授」である。これが、三の「耳を通した言葉による人の相承」である。 こうとうでんじ
これは、チベット密教だけではない。世界中のいかなる宗教でも、究極至上のものに到達するためには、この三つの方法しかないであろう。 じよう
(しかし、究極至上のものに到達するためには、この三つだけでは不十分なのである。欠けているものがある。なにが欠けているのか? さきにのべた練行 tapas である。
だが、そういうと、一は最高理想のものなのであるから、他のなにものも必要ないのではないかといわれるかもしれない。そうではないのである。その最高理想のものを受けるために、tapasは必要なのである。
練行とはなにか
では、その練行tapas
思われる。 それには、ひとつの例
こしかないと
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