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一二六

SLOW

生きた如来さまはいらっしゃいます。それが、お釈迦さまの本体、生ける釈迦と呼ばれている真正仏舎利です。これが「自然法爾の仏」です。単なる如来像は、仏でもなければ如来でもありません。真正仏舎利こそが真実の如来です。この「真実の如来のもとで功徳を種えよ」、とお釈迦さまはおっしゃっておられるのです。真実の如来・真正仏舎利こそが、『三供養品』に説かれている、生ける血来なのです。

これは、わたくしが勝手にいっているのではありません。密教では古来より、お釈迦さまの御聖・御遺骨をもって、お釈迦さまの本体としております。このことは拙著『守護仏の奇蹟』

( 平河出版社)で、すでに説いております(同書一七七一一七九頁)。

密教では、シャカの御遺骨、御遺身を「変化法身の釈迦」といって、生、敷のシャカの本体とするのである。御遺骨、御遺身が、生きているシャカの本体なのである。

仏の本質を緻密に芸術化し、象徴化して表現する点で、密教はもっともすぐれている。

その密教では、シャカに三重あることを説いている。これを「三重の釈迦」という。 一重のシャカは、胎蔵界マンダラ中、台八葉院にまつられている四仏の一つで、「天戦記音仏」という名前でまつられている。

いう。 この名前は、繁の智慧を、天鼓(雷)のような法音をもって衆生にさとらせる仏、という意味で、つまりシャカの説いた教法を、仏として表現したのである。自性、身の仏とも

第二重のシャカは、胎蔵界マンダラ釈違院のシャカで、これが、生敷のシャカ

 

 

 

される。おとして夫がられているのが、、など、生身のの、 おれである。

第三重のシャカは、ボードガヤの菩提樹の下でさとりをひらかれ、仏陀になられたシャな。

これは生身のシャカである。

つまり。

第一重・シャカの教法

御遺骨第二重生身のシャカの本体連射

第三重生身のシャカ

とこうなるのである。

来とするのである。 第三重の生身のシャカはすでにおなくなりになって、仏界におかえりになってしまってい 「そこで、第二重の、生身のシャカの本体である御遺骨・御遺身をもって、生身の釈迦如

もっとも、密教が、御遺骨(対という)をもって生身のシャカの本体として、 にまつったのは、べつに、密教の独断でもなければ、独創でもないのである。

教の用地インドにおいて、それは仏教の本流だったのである。

シャカのおなくなりになったあと、インドの仏教徒は、シャカの舎利をストゥーバ(塔) におまつりし、シャぁそのものとして礼拝供養した。ところが、奇蹟的な霊験功徳があいついだので、急速に全土にひろがり、ついに仏教信仰の本流となったのである。

これは、考えてみれば当然のことで、ジャカなきあと、以

 

成仏法が説かれた二つのお

成仏法が説かれた二つのお経

阿含宗信徒が読する「仏舎利宝珠尊解脱宝生行聖典』(以下、『聖典」)には二つの「阿含経」 が載っています。一つは「雑阿含経・応説」(以下「応説経、上巻・六三一八四頁)で、もう一講義する「雑一阿含経・三供養品』(以下『三供養品」)です。

つはわたくしはなぜ、数ある「阿含経」の中から、この二つのお経を選び出し、唱えさせているの

でしょうか?

この二つのお経には成仏法、つまり成仏の方法が説かれているからです。

二千数百年前、お釈迦さまは弟子たちに、成仏する方法をお教えになられました。その成仏の方法には大きく分けて二種類あります。

ません。 まず第一の成仏法は応脱経に説かれる高度(上根・上品)の成仏法で、七秒三下、七道品を修行して成仏する方法です。わたくしはこれを成仏のための七つのシステム、三十七種類のカリキュラムと呼んでおります。「応脱経』についてはすでに講義をしましたので、ここでは繰り返し

第二の成仏法は、現在は徳薄く福少ない者であっても、これを修行することによって必ず大きな福徳を身につけ、成仏に向かうことができるという下概(下部)の成仏法、三割概です(この三善根を阿含宗では三福道と呼んでおりますが、その理由については後で詳しく説明いたします)。これは『三供養品」に説かれています。

增一阿含経・三供養品[全文聞如是

 

增一阿含経・三供養品[全文聞如是。一時仏在舍衛国祇樹給孤独園。爾時世尊告阿難。有三善

根。不可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所謂於如来所而種功德。

此善根不可窮尽。於正法。而種功德。此善根不可窮尽。於聖衆而種功德。此善根不可窮尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲此不可窮尽之福。如是阿難。当作是学。 爾時阿難聞仏所說。歓喜奉行

現代的意義

現代社会においても、人は「悟りたい」「解脱したい」と願うが、その願望自体が解脱を保証するわけではない。重要なのは、**日々の実践の積み重ね(修習)**である。
瞑想・倫理的実践・正しい認識の訓練が重ねられるとき、解脱は「目標」ではなく「自然の果実」として実現する。この視点は、現代の心理療法・習慣形成論にも通じる普遍性を持つ。

7. 結論

『応説経』の中心文証は、「修習があれば自然に解脱が得られる」という因果必然の教えを明確に示す。
この教えは阿含経の精髄であり、三十七道品を通じた実践体系こそが釈尊の道の核心である。

『応説経』における「修習と自然解脱」の文証

『応説経』における「修習と自然解脱」の文証

― 阿含経の核心構造に関する一考察 ―

1. 序論

阿含経は、釈尊の初期教説を伝える最古層の経典群である。その中心的テーマは「漏尽解脱」であり、それはいかなる条件によって得られるかという問いに集約される。本稿は、『雜阿含経・応説経』における一節――

> 「若比丘修習随願成就者、不欲令解脱、然彼比丘自然漏尽心得解脱。所以者何。以修習故。」

 

を「文証」として位置づけ、逐語的・教義的に解釈し、さらに譬喩との連関を明らかにしつつ、その現代的意義を考察する。

2. 原文と逐語訳

原文(抜粋)

> 若比丘修習随願成就者、不欲令解脱、然彼比丘自然漏尽心得解脱。
所以者何。以修習故。何所修習。謂修習念処正勤如意足根力覚道。

 

逐語訳

もし比丘が修習し、順応して成就するならば、
たとえ「解脱しよう」と望まなくとも、
自然に煩悩は尽き、心は解脱を得る。
なぜか。それは修習によるからである。
では何を修習するのか。
それは、四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道である。

3. 教義的解釈

3.1 願望と修習の区別

経は明確に、「解脱への願望」だけでは果報は得られないことを示す。ここで強調されるのは、修習そのものが因となり、果として解脱を生起させるという因果の必然性である。

3.2 三十七道品の体系

修習の対象として「四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道」が列挙される。これは後代「三十七道品」と総称される修行法であり、釈尊の教えを網羅する枠組みとして提示されている。

3.3 自然法爾の原理

「自然に漏尽する」との表現は、修習が正しく積まれるならば、解脱は意図や作為を超えて必然的に到来することを示す。この「自然法爾」の立場は、後世の大乗仏教思想にも大きな影響を与える。

4. 譬喩による補強

本経には三つの譬喩が続く。

鶏の譬え
母鶏が適切に卵を温めれば、雛は自然に孵化する。

斧の柄の譬え
斧の柄は、気づかぬうちに削れて尽きる。

船の縄の譬え
船を繋ぐ縄は、風雨に晒されて少しずつ断ち切れる。

これらはすべて、「修習が続けば、意識せずとも結果は必然に現れる」という一点を指し示している。

5. 阿含経全体における位置づけ

この一節は、阿含経が一貫して説く「実践による必然的解脱」という教理の核心を凝縮している。
すなわち、阿含経全体の「心臓部」と言っても過言ではない。

6. 現代的意義

現代社会においても、人は「悟りたい」「解脱したい」と願うが、その願望自体が解脱を保証するわけではない。重要なのは、**日々の実践の積み重ね(修習)**である。
瞑想・倫理的実践・正しい認識の訓練が重ねられるとき、解脱は「目標」ではなく「自然の果実」として実現する。この視点は、現代の心理療法・習慣形成論にも通じる普遍性を持つ。

7. 結論

『応説経』の中心文証は、「修習があれば自然に解脱が得られる」という因果必然の教えを明確に示す。
この教えは阿含経の精髄であり、三十七道品を通じた実践体系こそが釈尊の道の核心である。