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小説風再構成:成仏法・七科三十七道品

小説風再構成:成仏法・七科三十七道品

 ガンガーの川霧が薄くたなびく黎明、竹林精舎はまだ静かであった。
その静けさを破るように、一人の弟子が歩み寄り、合掌して釈尊に問いかけた。

「世尊よ。あなたが悟られたその法──いかにして我らは、その境地へ至るのでしょうか。
カルマを断ち、漏れなき心(漏尽)へ至る道を、どうかお示しください。」

 釈尊はゆっくりとまなざしを上げ、集まった比丘たちを一人ひとり見つめた。
冷ややかな朝気の中、その視線だけが確かな温度を帯びていた。

【釈尊の説法の始まり】

「比丘たちよ──。
われが悟りにおいて見た道は、ここにある七つの科目、三十七の実践によって成り立つ。
これは誰が作ったものでもなく、わたしが悟りの下で直接に見た“道”そのものである。」

 弟子たちは静かに鼻で息を吸い、身を正した。

「四念処、四正断、四神足、五根、五力、七覚支、八正道──これが成仏の道である。
争うことなく、互いに励ましあいながら、これを歩むべきである。」

【四念処──観る者が世界を変える】

「まず、四念処である。」

 釈尊は地面に指で円を描く。その円は“身・受・心・法”の象徴であった。

「身体は不浄である。感受は苦である。心は無常である。万法は無我である。
はじめは個別に観よ。
つぎに、それら四つをひとつに観よ。
そうして、身・受・心・法すべてに、
“不浄・苦・無常・無我”の相を照らすのだ。」

 弟子たちの胸に、冷たくも鋭い真理の刃が差し込んでいく。

【四正断──悪を断ち、善を育てる剣】

「つぎに四正断。」

 釈尊の声音が、ひときわ凛とした。

「断断──すでに起こった悪を断つ。
修断──まだ起こらぬ悪を、起こらせぬよう守る。
随護断──すでにある善を増やす。
律儀断──まだ生まれていない善を、努力して育てる。」

 それはまるで、心の中にひそむ暗闇を切り払う四本の剣のようであった。

【四神足──心を超え、力を得る門】

「そして、四神足(四如意足)。」

 釈尊は天を仰ぎ、静かに続けた。

「欲・精進・心・観。
これら四つの“足(よりどころ)”によって、
人は自在なる心の働きを得る。」

 そのとき、弟子のひとりが思った。
まるで、蛇が地を這う力、馬が大地を蹴る力、人が思考する力──
それら“三つの脳”が、一つに統御されるようではないか、と。

 釈尊は彼の思いを見透かしたように言う。

「心は、古きもの・獣のもの・人のもの──
三つが一つに調えられて初めて、真の静けさを得る。
四神足の修行は、その統御の門となる。」

【五根・五力──心の柱とその力】

「五根とは、信・精進・念・定・慧。
そして五力は、それが強く発揮された姿である。」

 釈尊の声は、竹林の奥から響いてくるようであった。

「五根は根本。
五力は飛躍。
ニルヴァーナへ歩む者は、この両輪によって進む。」

【七覚支──悟りの七つの翼】

 釈尊は指を一本ずつ折りながら言った。

「念、択法、精進、喜、軽安、定、捨。
これら七つが、悟りを開く“翼”となる。」

 弟子たちはその言葉の一つひとつが、胸の深くに落ちていくのを感じた。

「喜びは心を明るくする。
軽安は心を軽くする。
捨は心を自由にする。」

【八正道──完成された道】

「そして最後に八正道。」

 釈尊は立ち上がり、歩きながら語りはじめた。
その歩みこそ、正道の象徴であるように見えた。

「正見──世界を正しく観る。
正思惟──正しき方向に心を向ける。
正語──真実を語る。
正業──正しく行動する。
正命──正しい生活をする。
正精進──怠らない。
正念──気づきを保つ。
正定──心を澄ませる。」

「比丘たちよ。
正しいとは、わたしの教えに即したものをいう。」

【釈尊の“厳しい宣言”】

 しばし沈黙が流れた後、釈尊はきっぱりと言い切った。

「もし比丘が、念処・正断・神足・根・力・覚支・道を修行しないのであれば、
その者はいかなる努力をしても、決して漏尽解脱することはない。」

 弟子たちの背筋に、凍るような緊張が走った。
これが“方便”ではなく、釈尊が絶対視した“唯一の道”であることが、
言葉のすべてから伝わった。

【弟子たちの決意】

 やがて弟子たちは深く頭を垂れ、静かに誓った。

「世尊よ。
我らは互いに争わず、互いに励まし、
今ここに示された道を歩むことを誓います。」

 朝の光が竹林に差しこみ、葉の間で揺れる。
その光の中に、釈尊は静かに微笑んだ。

「よく聞いた。
では行け。
七科三十七道品──
これが、汝らが歩むべき“成仏への道”である。」

魂の灯火 ~七覚支編~ 構成コンセプト 主人公:現代を生

とてもよい流れです。
これまで書かれてきた世界観・語り口(静かな日常 × 仏法の実践)を踏まえ、小説連作として読め、かつ七覚支の修行段階が自然に体験される章立てを提示します。


魂の灯火 ~七覚支編~

構成コンセプト

  • 主人公:現代を生きる一人の修行者(介護職/都市生活者)
  • 舞台:職場・通勤路・夜の部屋・自然(公園・川・山)
  • 主題:苦を消そうとするのではなく、「気づきが次の気づきを呼ぶ」過程
  • 特徴
    • 各章は独立した短編として読める
    • 読み進めるほど主人公の心が静まり、世界の見え方が変化
    • 教義は説明せず、体験として描写

第一章 念 ― 消えない足音

対応覚支:念覚支

主題:気づくことをやめない

夜勤明けの通勤路。
主人公は、疲労と苛立ちの中で、無意識に歩いている自分に気づく。

靴底の感触、呼吸の重さ、信号待ちの沈黙。
「今、ここ」に戻るたび、心が逃げようとする。

失敗への恐れ、過去の後悔。
それらを追い払わず、ただ気づき続ける

――気づきが、最初の灯火となる。


第二章 択 ― 揺れる言葉の重さ

対応覚支:択法覚支

主題:見極める智慧

同僚の一言に心が乱れる。
正しいのは誰か、間違っているのは誰か。

だが主人公は、
「これは怒りか、悲しみか、それとも恐れか」
と心の動きを見つめる。

反応する前に、選ぶ。
何を信じ、何を手放すか。

――法を択ぶとは、世界ではなく自分の心を選び直すことだった。


第三章 精進 ― 逃げない一歩

対応覚支:精進覚支

主題:やめない力

修行は地味で、成果は見えない。
忙しさに流され、今日はもういいかと思う夜。

それでも主人公は、
ほんの一呼吸だけ、立ち止まる。

完璧ではなく、続けること
それが精進であると知る。

――努力ではなく、誠実さが道をつなぐ。


第四章 喜 ― 静かな微笑

対応覚支:喜覚支

主題:自然に湧くよろこび

ある日、利用者の何気ない笑顔。
ありがとう、という短い言葉。

胸の奥に、理由のない温かさが広がる。
それは興奮ではなく、静かな喜び。

修行が報われたのではない。
執着が少し抜けた空間に、喜びが入り込んだだけだった。


第五章 軽安 ― 風が通る身体

対応覚支:軽安覚支

主題:緩むことの許し

夜、布団に横たわる。
肩の力が抜け、呼吸が深くなる。

心と身体が、同じ速度で静まっていく。
「何かをしなければ」という衝動が消えていく。

――安らぎは、得るものではなく、邪魔をやめたときに現れる


第六章 定 ― 一点の灯

対応覚支:定覚支

主題:揺れない中心

雨音を聞きながら座る主人公。
音はあるが、心は動かない。

考えは浮かぶが、掴まない。
感情は来るが、引きずられない。

――心が一点に定まるとは、
世界が止まることではなく、振り回されなくなることだった。


第七章 捨 ― 手放した先の光

対応覚支:捨覚支

主題:等しく見る心

誰かを嫌う心も、
自分を誇る心も、
同じように現れては消える。

良い・悪い、成功・失敗。
それらに重みを与えない眼差し。

主人公は気づく。
苦を断とうとしていた自分が、
いつの間にか苦に巻き込まれなくなっていたことに。

――灯火は、強くなったのではない。
風に揺れなくなっただけだった。


終章(短) 魂の灯火

七つの覚支は、特別な力ではない。
日常の中で、静かに連なっていく灯である。

誰も気づかなくてもいい。
世界が変わらなくてもいい。

ただ一人、
確かに目覚めつつある魂が、ここにある。


次の展開として自然につながります:

  • 🔥 「七覚支 → 涅槃界への移行編」
  • 🔥 『四神足』『五力』との統合編
  • 🔥 主人公とは別の人物が別の覚支を体験する群像編

どの方向へ進めましょうか。

七覚支 ― 林中の対話

了解しました。
原文の経典調の骨格を保ちつつ、情景・対話・内面描写を加えた小説風に再構成します。


七覚支 ― 林中の対話

このように、私は聞いた。

ある日のこと、含衛国の祇樹給孤独園は、朝露に濡れた静かな光に包まれていた。
風は葉を揺らし、比丘たちの歩みも、鳥の羽音さえも、どこか慎ましく感じられる時刻であった。

そのとき、一人の異教徒の出家が、園の奥からゆっくりと歩み寄ってきた。
彼の衣は使い込まれ、眼差しには長い遍歴の疲れと、なお消えぬ問いの炎が宿っていた。

彼は仏さまの前に至ると、静かにひざまずき、額を地に伏せておみ足をいただいた。
礼拝を終え、慎重に一歩退いて座に着くと、胸に秘めてきた疑問を、ようやく言葉にした。

「世尊よ。
世尊が説かれるという、覚分――七覚支とは、いかなるものなのでしょうか。
何をもって“覚りに至る因”とされるのか、どうかお教えください。」

仏さまは、しばしその出家を見つめられた。
責めることも、試すこともなく、ただ澄んだまなざしで。

そして、静かに語り始められた。

「よく聞きなさい。
覚分とは、修行の道を支える七つの要であり、七三十七道品の一つである。
それは、同時に現れるものではない。
順に生じ、順に育まれ、順に完成されていく道なのだ。」

異教徒の出家は、思わず身を乗り出した。

「世尊よ。
では、その覚分は、どのようにして生じ、どのように修められていくのでしょうか。」

仏さまは頷かれた。

「もし比丘が、身体の内側を観察するならば――
彼は、ただ観ることに没頭し、心を散らさず、念をつなぎ続けねばならない。」

比丘たちの背筋が、わずかに正される。

「そのとき生じるのが、念覚支である。
今ここに気づき続ける力だ。
この念が十分に育まれ、揺らがなくなったとき、念覚支は完成したと言える。」

仏さまは、言葉を区切りながら続けられた。

「念が確かになると、次に、法を選び、分別し、深く観ずる力が起こる。
これが択法覚支である。
何が真実に導き、何が迷いを深めるか――
それを見極める智慧だ。」

異教徒の出家は、静かに息を呑んだ。
彼の心に、これまで断片だった修行の経験が、一本の線として結ばれ始めていた。

「さらに、
その理解を支える精進覚支が起こり、
修行の中に自然な喜びである喜覚支が満ち、
心身が静まる軽安覚支が訪れる。」

仏さまの声は、森の静けさと溶け合う。

「軽安の中で、心は一点に定まり、定覚支が成熟する。
そして最後に――
執着も嫌悪も手放した、澄み切った平等の心、捨覚支が完成するのだ。」

仏さまは、少し間を置かれた。

「これらは、四念処の観察と離れては生じない。
身体は不浄であると観じ、
受は苦であると知り、
心は無常であると見極め、
法は我にあらずと洞察する。」

「内を観じ、外を観じ、内外をともに観じながら、
念を断ち切らず、心を今に結び続けるのだ。」

異教徒の出家の目に、静かな光が宿った。
それは、新しい教えに驚いた光ではない。
長く探し続けてきた道が、ようやく一つにつながった者の光であった。

仏さまは、最後にこう結ばれた。

「このようにして、七覚支は次第に生じ、
生じたものは、次第に完成していく。
急ぐ必要はない。
ただ、途切れぬ正念と、正しい修行があればよい。」

仏さまが語り終えられると、
そこに集っていた比丘たちは、深い喜びとともにその教えを受け取り、
それぞれの歩みにおいて、静かに実践していったという。

――覚りとは、遠き雷鳴ではない。
一つの気づきが、次の気づきを生み、
やがて世界の見え方そのものが変わっていく、
その静かな連なりなのである。


もしよろしければ、

  • 現代の修行者(介護職・都市生活者)視点で七覚支を描く短編
  • 『魂の灯火 ~七覚支編~』として章立て構成
  • 一つの覚支を一章ずつ掘り下げる連作形式

などにも展開できます。

念覚支と四念処

それぞれ二つの「所含星・七道點」(以下「七道品種」)と『雑阿含経・哭」(以下「果報経」、そして「雑阿含経・七種果経」(以下「七種果経」)を講義し、そこに説かれる成仏法の一

つ、七覚支法について解説します。

まずは二つの「七道品経」の経文を読み、現代語に訳してみましょう。

如是我聞。一時仏住舎衛国祇樹給孤

独園。時有異比丘。来詣仏所稽首礼

足。退坐一面。白仏言。世尊謂覚分。

世尊。云何為覚分。仏告比丘。所謂

党分者。謂七道品法。然諸比丘七覚

分漸次而起。修習满足。異比丘白仏。

世尊。云何竟分漸次而起。修習満足

仏告比丘。若比丘内身身観住。彼内

身身眼住時。摂心繫念不忘。彼当爾

いちめんざ髪の姫く戦れ聞きぬ。「時、仏、舍衛国の祇樹給孤独園に住まりたまえり。時に異比丘有り。仏の所に来詣し稽前して足に悲したてまつり、退きて一面に坐し、仏に白して言さく、「世尊の調ゆる覚分とは、世尊、云何が覚分と為すや」と。仏、比丘に告げたまわく、「所謂覚分くぶんとは調ゆる七道品の法なり。然かも諸の比丘、七覚がは次に而かも起こり、器じ湖足す」と。異比丘、仏に白さく、「世尊、云何が覚分は漸次に而かも起こり、修習し満足するや」と。仏、比丘に告げたまわく、「若し 24 いわゆる

比丘、射の射戦に話せば、越、内身の身観に住する時、

時念意分方便修者,方便修音念分

注意内車の年に住せば、使、内身の身観に住する時、

已,修習满足,满足念意分已,於法

選択。分別思量。当於爾時。修択法乃平精意分修習满足。如内身身観念 (『七道品経」)

党分方便。修方便已修習满足。如是

住。如是外身。内外身。受心法法観

念住。当於爾時。専心繫念不忘。乃

至檢意分亦如是說。如是住者。漸次

意分起。漸次起已修習満足。仏説此

疑已。諸比丘聞仏所説。歓喜奉行

もが思しき習す。方便して念分をしじらば、 習満足す。念堂分を満足し已らば法に於いて選択し、

灯し思量す。稲の時に当たって択法党分の方便を修するなり。方便を修し巳らば修習満足す。是の如く乃至抱

如くが歌・産卵・気・心・選の概念に住せば、稲の

覚の修習満足す。内身の身がに住するが如く、是の時に当たって心に念を繋げて忘れず。乃至槽覚分も亦、 是の如く説く。是の如く住せば漸次に覚分起こる。漸次春し奉行しき。

に起こり已らば修習満足す」と。仏此の経を説き已りたまいしに、諸の比丘、仏の説かせたまう所を聞きて、戦

現代語訳

このように私は聞きました。ある時、仏さまが含衛国の祇樹給孤独園に滞在されておりました。 その時、異教徒の出家が仏さまのふもとを来面して、仏さまのおみ足を額にいただいて礼拝し、

退いて座に着き、仏さまに、

「世尊の説かれる、いわゆる覚分(七党支法)とはどのようなものでしょうか? 世尊よ、なに

をもって覚分とされるのですか?」

と申し上げました。仏さまは異教徒の出家に、

「いわゆる覚分とは七つの道品法(七三七道品)の一つです。もろもろの比丘たちもよく聞

きなさい。七覚分(七覚支)は順番に生じ、それを修行して完全に修めていくのです」

と告げられました。

異教徒の出家は仏さまに、

か?」 「世尊よ、どのようにして覚分は順番に生じ、どのように修行して完全に修めていくのでしょう

と申し上げました。仏さまは異教徒の出家に、

「もしも比丘が身体の内側を観察する時は、彼は身体の内側を観察することに没頭し、心を修めて念を集中して気を散らさないことが肝要です。そうするならば、彼は『念覚が(念覚支)』を工夫して修行したといえます。

そのように工夫をして『念覚分」を修行し終わるならば、それを完全に修めたといえます。

『念覚分」の修行を成就したならば、法について選択し、分別してよく考えるのです。それが 『択、洪覚分(択法覚支)』を工夫して修行するということです。そのように工夫して修行し終わるならばそれを完全に修めたといえます。

そのようにして、(「構派覚分<精進党支〉」「客觉分《喜覚支〉』『寄覚分<覚支〉』『定「覚分〈定

覚支」と完全に修めて)「捨覚分(他覚支)』まで完全に修めます。

 

覚え」と完全に修めて「分(文」まで完全にめます。

(念分」では身体の内側を観察するのと同じように、身体の外側も、そして身体の内外とも

に観察し(以上、四念処観の身念処(身体を不浄と観ずる不浄観)」、さらに「受は苦なり四念処観の受念処」「心は無常なり「四念処観の心念処」「法は無我なり「四念処観の法念処」』という(「四念処観」の)観念に没頭し、念をつなげて気を散らしてはなりません。

同様に(『択法党分」から)『捨覚分」まで没頭して、心を繋げて気を散らしてはなりません。

このように七覚分は(『念覚分」から「捨覚分」まで)しだいに生じるのです。そして、しだいに

生じたそれぞれを順番に完成させていくのです」

と告げられました。仏さまがこの経を説き終わると、もろもろの比丘たちは、その教えを聞いて心から喜び、その内容を実践いたしました。

如是我聞。一時仏住舍衛国祇樹給孤

独園。爾時世尊告諸比丘。所謂覚分何等為覚分。諸比丘白仏。世尊是法根法眼法依。唯願為説。諸比丘聞已。 当受奉行。仏告諸比丘比丘尼。七党分者謂七道品法。諸比丘。此七党分

是の如く我れ聞きね。一時、仏、舍衛国の祇樹給孤独園に住まりたまえり。斎の時世尊、諸の比丘に告げたまわく、「所謂、覚分とは何等をか覚分と為す」と。諸の比丘、仏に白さく。「世尊は悪、出根・眼・岩なり。 噌だ願くばあに説きたまえ。諸の比丘聞き已りなば当に受け奉行すべし」と。仏、諸の比丘・比丘尼に告げたまわく。「七覚分とは調ゆる七道品の法なり。諸の比丘、

已修有满足,若比丘身身観念住。

放行地立在已。当心繫念不忘。当

分已。为满足、副修念分已於

法選択。当於爾時。能积法竟分方便

修积法竟分方便已。修習满足。如是

精進、高・・定・捨覚分、亦如是

說,如内身,如是外身、内外身受

心法法観念住。專心繫念不忘。当於

留時,方便修念堂分。方便修念覚分

已。修習满足。乃至持党分。亦如是

說。是名比丘七党分漸次起。漸次起

已。修得满足仏說此経已。諸比丘聞

仏所說。歡喜奉行“七道品経」)

次にこり、次に超三かって満足するか」と、

だって心に念を繋げてれず。原の時に当たって方便

ゆる分をしって法にて選択 。瀬の時に当たって秋活発行の方を絶す。税法觉行

の方便をし巳らば、修習満足す。是の如く精進,喜

持,定・覚分も、長の如く説く。内身の如く、是の

外身、内外身、受・心・法の法観念に住し、専心に

念を繋げて忘れざるなり。陽の時に当たりて方便して念

党分を修す。方便して念覚分を修し巳らば修習満足す。 乃至持覚分もホ、是の如く説く。是を比丘の七覚分次

に起こり、漸次に起こり巳って修習満足すと名づく」と。

仏此の経を説き巳りたまいしに、諸の比丘、仏の説かせ

たまう所を聞きて、歓喜し奉行しう。

このように私は聞きました。ある時、仏さまが変にされておりました。

その時、 もろもろのたちに、

はどういうものか分かりますか?」

ごげられました。

「真であり、真理を見るのであり、真理のよるべであります。どうか私たちのためにおきください。私たちはその教えをしたならば、即座にそれを実行いたします」

と申し上げました

ま、やに対し、

(右)とは、いわゆる七つの道品法(七科三十七道品)の一つです。もろもろの比かえ、こぐむけに、それをひとつひとつ行じていくのです。順番に修行していを静めていくわけです」

のらはいま

「ぐうにして寄にどのように修行して完全に修めていくのでしょうか?」

第一版(高)一行い、その戦法に専心して念をつなげて忘れなけれ

 

」のあしたといえるのです。そのように工夫

マイクラます。そうして「覚ア」を移行するのです。工夫し打」終わったならば、それを修めたといえます。「精進行」「喜 「ア」もまた同様です。身体の内向じように、身体の外側も。

(今)、観察し(心)、法

綠美化して繋げて忘れることがないならば、工夫して「念覚分」を多行しただいろるのです。工夫して「」を旅行し終わるならば、それを完全に修めたといえます。 そのようにして「行」から「情覚」までを修めていくのです。比丘たちよ、このように七覚を番に移行していって、最後にそれを完成させるのです」

と告げられました。仏さまがこの経を説き終わると、もろもろの比丘たちは、その教えを聞いて心から喜び、その内容を実践いたしました

まず、「常分」という言葉が出てきますが、これはお釈迦さまの成仏法・七科三十七道品の一つである、「七覚変法」のことです。阿含宗の信徒諸君が毎日読誦している「雑阿含経・記経」(以下「応援」)に、「松正動如意足根力覚道」という箇所がありますが、この中の「覚」 というのが「葉分、つまり七覚支法です。

最初のお経では念覚支(念堂分)択法覚支(択法堂分)・捨覚支(覚分)以外は

 

おりますが。二番目のお経にあるように、七支は念复, (行)・愛の七つの徳目から成り

立ちます。 各目の具体的な内容は、各経の解説を終えた後にお話しいたしますが、この「七道品経」には、支を終えたならば、担法覚えに入り、それを終えたら精進覚支に入って。喜覚次。軽安安、加資方と後んで、最後に折算支に到達する」ということが説かれているわけです。

きらにこの二つのお経では、七覺支法の念覚えとは四念処観であることも示されております。

四念処頼もやはり七科三十七道品の一つで、前述の「応説経」では「念処」と記されております。 れています。 新説で)ともいう。四種の取想法です。これは普通、次のように解釈さ

一、この身は不浄なり

二、受は苦なり

三、心は無常なり

四、法は無異なり

一、身体についての瞑想

以上の四項目について、深く瞑想するのが四念処観です。これを分かりやすくいえば。

二、感受作用についての説想

「心の性質についての想

となるでしょう

簡単に利用しましょう。

一、この身は不浄なり

これは、肉体す、いわゆる「不浄観」の誤想です。 で汚らわしいものであることを観想して、悩や、欲望を取り除くわけで

二、受は苦なり

わたくしたちの肉体はじつにはかなくもろいものです。常に死や老衰、病気、けがなど、生命の危険にさらされています。要するに、わたくしたちの肉体は不完全極まるものです。それを悟らずして、完全なるものを望み、完全なるものに執着するから、すべて苦しく感じられてかなわないわけです。

それはまた、財物や地位、権力、人間関係などについてもいえます。わたくしたちは、それらのものをひとたび手にすると、失いたくないと考え、失われることを恐れ、悩み、苦しみます。

しかし、それらは縁によってわがものとなったのであり、その縁がなくなれば、また去って行くのは当然です。それを悟らずに執着するから苦が生じるわけです。以上のように、苦(と感じるもの)の根源を深く瞑想していくのです。

心はなり

無常とは変滅してやまないことをいい、これに対して、永遠に不変なるものを「常住」といいます。わたくしたちの心は、常に変滅してやまない、とりとめもないものです。そのとりとめもないものが、常住なるものを求めているのです。そこに、矛盾や悩みや苦しみが生じるのは当然です。常に変滅してやまない、とりとめもないわが心を深く見つめて、常住なるもの(真理)を求める姿を想していくのです。

四、法は無我なり

です。

法とは、自分を含めたすべての存在、あるいは存在を構成するものをいいますが、この「無

我」という言葉は、二つの意味を持っているわけです。それは、

すべてにわたって「わがもの」というもののないこと

のすべてのものに「我がない」こと

心は、この世の中のどんなものでも、自分の所有というものはない、ということです。それは、 縁あって夜に自分のものになったのであり、縁のある間は自分のものになっているけれども、緑がなくなれば自分のものではなくなるわけです。したがって、この世の中に、「これこそ確実に自分のものだ」といい切れるものは、なに一つとしてないのです。

それをさらに徹底すると、自分というものさえもないわけです。「自分」とは、いったいなんそしょうか?それについての有名な問答があります。お釈さまが、問答に来たバラモンに戻

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