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輪と業 ――ある思想の胎動

輪と業 ――ある思想の胎動
仏陀は、神話の彼方から現れた存在ではない。
彼は、確かにこの地上に生まれた一人の人間だった。
乾いた風が吹き、ガンジスの流れが人々の生活を支えていた古代インド。
仏陀の言葉は、未来に向けて語られたのではなく、当時を生きる民衆の不安と疑問に、まっすぐ向けられたものだった。
その土壌は、すでに深く耕されていた。
遥か以前、アーリア人によって記されたヴェーダの詩句があり、
そこから、世界の根源を問うウパニシャッドの哲学が生まれた。
人はどこから来て、どこへ行くのか。
生きるとは何か。
死とは終わりなのか。
やがて、その問いに満足できなくなった者たちが現れる。
彼らは「自由思想家」と呼ばれた。
祭祀と伝統に縛られたバラモンの教えに異を唱え、
己の思索と体験によって、真理を掴もうとした人々。
仏陀も、その群れの中の一人だった。
同じ時代、マハーヴィラもまた、沈黙と苦行の道から真理を探し、
後にジャイナ教を打ち立てることになる。
思想は百花繚乱のごとく現れ、
やがてそれらは体系化され、凝縮され、
ヒンドゥー教という巨大な精神の河となって、人々の生活を規定していった。
だが――
どれほど多様な思想があろうとも、
そこには一つの共通した骨格があった。
輪廻と業。
それは、どの思想にも通奏低音のように流れていた。
仏教も、ジャイナ教も、
その最終目的は同じだった。
輪廻と業から、いかにして解放されるか。
違いがあるとすれば、それは解決の方法だけだった。
革命的と呼ばれた自由思想家たちでさえ、
輪廻そのものを否定しようとはしなかった。
否定できなかったのだ。
それほどまでに、この思想はインドの人々の魂に根を下ろしていた。
もちろん、異端はいた。
世界は物質だけで成り立つと説く者、
業も来世も疑わしいと笑う者。
だが、彼らの声は大衆の心に届かなかった。
残されたのは、仏教やジャイナ教の経典に記された、
「論破される側」としての名前だけである。
では――
それほどまでに人々を捉えて離さなかった
輪廻と業とは、何だったのか。
それは、単純な考えであり、同時に恐るべき考えだった。
人の生命は、死によって終わらない。
肉体は朽ち、土と水に還る。
だが、人を人たらしめている本質――
アートマン、すなわち個体我は、そこから抜け出て、
別の生命へと移っていく。
生まれ変わりを駆動するもの。
それが、業である。
行為、意志、欲望。
そのすべてが力となり、次の生を決定する。
永遠の生命。
そう聞けば、祝福のように思えるかもしれない。
だが、古代インドの人々は、そこに救いを見なかった。
なぜなら、輪廻とは、終わらないことだからだ。
生まれ、老い、病み、死ぬ。
そして、また生まれる。
そこに休息はない。
確実なのは、次の生が今より良いとは限らないという事実だけだった。
現代の私たちは、死を恐れる。
すべてを失い、無に帰すことを恐れる。
しかし、輪廻を信じる人々にとって、
死の恐怖は、そこにはなかった。
彼らを震え上がらせたのは、
また生まれてしまうことだった。
どんな姿で。
どんな苦しみの中に。
どんな業を背負って。
死は終わりではない。
むしろ、次の苦しみへの扉かもしれない。
だからこそ、人は問うたのだ。
――どうすれば、この輪から抜け出せるのか。
その問いのただ中に、
静かに坐す一人の男がいた。
彼は神を語らず、
世界の始まりを語らず、
ただ、人間の苦しみを見つめ続けた。
その名を、仏陀という。

ブッダの説く輪と転生

人間は霊的存在

――である。 さきの節であげたように、ブッグははっきりと、人間の生命の再生を説いた。そしてその数えの目的は、その再生からの解説であった。再生からの解説とは、転生輪廻の停止寂滅

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その再生からの解説――寂滅を、ブッグは涅繋(ニルヴァーナ)とよんだのだが、日本の大乗仏教は、これをたんなる「さとり」(現世における)にしてしまったのである。

人間はあきらかに霊的な存在であって、これを否定したり、無視したり、あるいはあやふやにして、テーマを現世だけにしぼってしまったら、それはもう宗教ではない。たんなる倫理道徳にすぎなくなる。それに、なによりも、それは、人間の生きかたをきめる生命観にかかわる問題であり、これがまちがったら、その人間の生きかた――それは同時に死にかただが――それがまったくまちがってしまうことになる。これほど大きな問題はない。あなたもおそらくそう思うであろう。それが、日本の仏教では、ブッダの教説とまったくちがったものになってしまっているのである。わたくしが、平生、日本の仏教はシャカの仏教ではないと主張している
の日。ここにも大きな理由があるのである。

からの夜について、わたくしは、かつて、「密教占星術1 運命とはなにか』(平河出版社)

オウドのように透べたことがある。引用するので、お読みいただきたい。

仏教と運命学

「仏教とは

仏教とはもちろん、釈尊・仏陀が開創された教えであるが、それは、現代のわれわれが考え、接してる仏教というものと、じっさいに仏陀が唱道された仏教というものとは、非な差があるのである。

現在、われわれが仏教だと思っている宗教と、実際に仏陀が説かれた仏教と、場合によっては全く違っているのである。私たちは、いま説かれているようなかたちで、仏陀がその教えを説いたのだと思いがちであるけれども、全くそうではないのである。いま、私たちが険している仏教は、一つの意図によって整理されたり、あるいは取捨選択されたり、 お前されたり、つけ加えられたりしてつくり出されたものであって、時には、ほとんど仏

今いる保管に一つの意図によって整理されたり、あるいは取捨選択されたり、 布伝されたり、つけ加えられたりしてつくり出されたものであって、時には、ほとんど仏

陀の製かれたものと違うかたちに仕上げられているのである。

それでは、実際の原始仏教とはどんなものであったかというと、私は、まことに単純素朴なものであったと思うのだ。

そういうと、いやしくも大覚世尊釈迦牟仁仏の教説を単純素朴とはなにごとかと大嶋されるかもしれない。もちろん、単純素朴とは言葉のアヤで、率直明快であったというべきだろう。それは、現代のわれわれが接しているような、かくも魔大複雑なるものではなかったということである。仏陀の教説は、ズバリ、率直明快で、なにびとにもただちにうなずかれるものだったのである。現代のわれわれが仏教を知ろうとするとき、厖大な経論うなものではなかったのである。

と、甲論乙聡の各宗論の間に立ちすくんで、どこから手をつけたらよいのか、当惑するよ

輪と業

中すまでもなく、仏陀は古代インドに生まれたかたであり、従って、仏陀の教説は当時の古代インドの民衆に向かってなされたわけである。

のアップのく

生育年以前の頃からはじまる。そのヴェーダ文献とよばれるアーリア人の書いたものは、 アーリア人の書いたものの中で最も古いばかりでなく、おそらく人類が持つまとまった文献としては世界最古のものであろう。

グィーアホらウパニシャッドの哲学が生まれ、それから自由思想家とよばれる手の思想家がいて出てきたのであるが、仏教の関仏陀はこの自由思想家の一人であり、また仏陀と同時代にあらわれてジャイナ教を創始したマハーヴィラも同じく自由思想家の一人であった。仏教・ジャイナ教に続いて種々の哲学が体系づけられ、最後に凝縮してヒンドウ数となり、それがこの半大陸の無数の人びとの心を支え、その生活を規制してきたわけなのだが、そこにはあらゆる型の思考があり、あらゆる傾向の哲学と宗教が見い出されるとされている。けれども、そのいずれにも一貫しているのが輪廻と業の思想である。ジャイナ教にしても輪廻と業の解決が主眼であって、その仏教と違うところはただ解決の方法が違うということだけである。

仏陀とマハーヴィラは当時輩出した自由思想家という群れの中の一人とされており、この自由思想家というグループは、バラモンのヴェーダやウパニシャッドの思想、哲学にあきたらず、これに対して反対したり、新しい説をとなえたりしたいわば革命的な思想家たちなのだが、その革命的な思想家たちでさえもが、この輪廻と業を否定するというのではなく、ただその解決の方法が違うと主張したにすぎず、実にこの輪廻と葉の思想こそイン

人の本をなしているものといえよう。もっとも、この自由思想家の中には、 アジア・ケーサカンパリンとか、パラザ・カッチャーヤナというような唯物論者や、サンジャケ・コーラッディブックのように散した懐疑論をとなえて、業や来世の問題に疑問を持った人もいたけれども、結局、当時の大衆の支持や共鳴を得られず、彼らの主張をしもしたものはなにも残っていない。ただ、仏教やジャイナ教の典籍の中に、彼らを対象とする利や論があり、それが彼らの思想を知る手がかりになっているにすぎないのであ

それでは、そんなにも強くインド人をつかんではなさない輪廻と業とはいったいどんな考えなのか。

それは、要するに人間の生命は死によって終止するものではなく、別な生命に生まれ変っていくという考えかたである。

死によって、その肉体は自然現象の中に解消するが、人間を成立させている生命の本質ともいうべきアートマン(個体)はそこから抜け出て、また別な生命体に移っていく。

その原動力となるものが楽の力である、という考えかたである。次つぎと生まれ変ってい

くということは、未流の生命ということになり、死を高の恋とみる人間にとっ日みたい一人会散いということになろう、とだれしも思うだろう。あなたもそう考えるこ

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ともいうべきアートマン(個体我)はそこから抜け出て、また別な生命体に移っていく。 その原動力となるものが愛の力である、という考えかたである。次つぎと生まれ変ってい

くということ日、永遠の生命ということになり。 とみる人にとって、そ

おはたいへんないということになろう。とだれしも思うだろう。あなたもそう考えとと思うが、そうではないのだ。この考えかたによると、人はつねに不安につつまれることになる。

生まれ変りたい願望

私たちは、おたがいに死というものを恐れる。私たちは、いつ私たちを襲うかわからない死に怯え、不安を感じているけれども、それは死そのものを恐れるのであって、死んでからどうなるかということについては、それほど不安を感ずることはないだろう。少なくとも現代人であるわれわれは、死んでからいったい自分はどうなるのであろうかという漠然とした不安や疑問を抱くけれども、それはどこまでも漠然としたものであって、われわれの死に対する恐れは、現在のすべての関係から別離し、自分が消滅してしまうというところにあるものと思われる。ところが、輪廻転生の考えを持つ古代インドの人びとにとって、死の恐れと不安は、全く別なところにあったのである。もちろん、彼らにも死そのも

ブッダの説くと

 

 

―ブッダのくと生

 

―ブッダの説く輪と転生

今日の九星盤 2026年1月13日

今日の九星盤

2026113

乙巳 二黒土星 歳
己丑 九紫火星 節
丁亥 六白金星 日

破壊の週 成の日

見返りを求めずに奉仕する日

万事思い通りに進まない日です。破壊の週の成の日だけに、悪いことや自分に不利なことが成立してしまいます。あちこちの地雷を自ら踏んでしまうような日になります。破壊の週前半で後先考えずに行動していると、全てこの日に返ってきます。何をするにも十分な余裕をもって行うことで、傷は浅く、不運からの素早いリカバリーが可能です。こういう日もあるさ、と割り切るくらいの心の余裕を持つことが大切です。無理に状況を変えようとせず、敢えて自分を俯瞰して見ることで、冷静に対処できるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

阿弥陀如来

 

命あるものすべてを救うべく誓いを立て、極楽浄土に導く

 

阿弥陀如来(あみだにょらい)とは?

無限の寿命を持つことから無量寿如来ともいいます。限りない光(智慧)と限りない命を持って人々を救い続けるとされており、西方極楽浄土の教主です。四十八願(しじゅうはちがん)という誓いを立て、その中には「南無阿弥陀仏」と唱えたあらゆる人々を必ず極楽浄土へ導くとあり、広く民衆から信仰されました。ちなみに他力本願も四十八願の誓いから来ており、本来は阿弥陀様にすがって極楽に行こうという意味です。

 

阿弥陀三尊として聖観音と勢至菩薩と並ぶ姿が多いです。さらに二十五菩薩を従え、雲に乗って往生者を迎えにやってくるといわれています。そのほか来迎の様子をあらわす場合もあります。

ご利益

極楽往生、現世安穏のご利益があります。また、戌・亥年生まれ守り本尊です。

阿弥陀如来(あみだにょらい)の像容

釈迦如来と同じく装飾品は一切ないです。来迎印という印は、極楽浄土に迎えに来たことを意味していますよ。この印相は施無畏・与願印に似ていますが、第1指ともう1本の指をねじるのが特徴です。

 

特殊な例としては、宝冠阿弥陀像、裸形阿弥陀像、斜めうしろを振り返る姿をしている見返り阿弥陀などがあります。

 

 

ホモ・エクセレンスの資格ライセンス

ホモ・エクセレンスの資格ライセンス

その技術は、まだ公には名を持たない。
ただ、選ばれた者たちはそれをこう呼んでいた――
ホモ・エクセレンスの資格ライセンス。
それは試験でも、血統でもない。
訓練によって、人が人を超えるための“通行証”だった。

一度、目にしたもの。
一度、耳にした言葉。
それらは、もはや記憶という領域を超え、魂の奥に刻まれる。
忘却という現象が、彼らには存在しない。
複雑な構造は、見るより先に理解される。
因果は瞬時に解体され、本質だけが静かに残る。
推理も分析も、もはや手順ではない。
それは“見える”という感覚に近かった。
言葉を介さず、思考が生まれる。
純粋思考――
概念が音になる前に、すでに創造は完了している。
もし、ヒトの平均知能を一・〇とするなら、
彼らは二・五、あるいは三・五に達するだろう。
その中でも最上位の脳は、
四次元を「理解する」のではなく、「住処」として扱う。

彼らは見る。
不可視と呼ばれてきた領域を。
赤外も、紫外も、
闇に沈んだ世界の輪郭を、当たり前のように受け取る。
彼らは聴く。
超音波のささやきを、風の一部として。
高度な知能と拡張された感覚が結びついたとき、
未来は予測ではなく、兆しとして訪れる。
それは超能力ではない。
自らの肉体と精神を、完全に統御した結果にすぎなかった。

思えば、最も恐るべき力は、
「自分を変える」能力だった。
思念ひとつで、性質を変え、
行動ひとつで、他者を動かす。
個人を越え、集団を、
やがて環境そのものを、自分の理に沿って創り変えていく。
――それが、彼らの担う能力の輪郭だった。

では、ホモ・エクセレンスとは何者か。
ホモ・サピエンス――
ほかならぬ、われわれ自身。
その延長線上に現れる、
「特別な能力を身につけた優秀なるヒト」。
ある者は、彼らをこう呼んだ。
ホモ・インテリゲンス――聡明なる未来人。

かつて、バリ大学の人類学者、
ジョルジュ・オリヴィエ教授は語った。
「未来の種属、超・ヒトは、
おそらく脳発達度係数三・九を持つだろう」
彼は続けた。
第四次元の理解。
複雑な全体を一瞬で把握する能力。
第六感の獲得。
無限に発展した道徳意識。
そして、
われわれの悟性では説明不可能な精神的特質。
――それらを備えた存在。
彼らの姿形も、行動原理も、
われわれには理解できないだろう。
なぜなら、われわれが“盲”であるのに対し、
彼らは千里眼の持ち主なのだから。

高度の知能は、
必ず高度の倫理を伴う。
彼らにとって、
いまの宗教や教義は、
かつての童話のように映るかもしれない。
神や仏を外に求める必要はなくなる。
なぜなら――
ヒトそのものが、神仏とひとしくなるからだ。
それは支配ではない。
霊性の獲得である。
無限に発展した道徳意識。
不可解と呼ばれてきた精神的特質。
それこそが、神仏の霊性にほかならない。

かつて、人類に必要なのは霊性だと説いても、
多くの者は耳を貸さなかった。
だが、時代は変わった。
危機は増大し、
文明は自らの限界に触れはじめた。
いま、
「霊性」という言葉を聞いたとき、
人々は直感的に理解する。
――それこそが、次の扉だと。

そうではなかったのである。

シャカの仏法は、だれでも成仏を可能にするのである。どんなひとでも、間脳を開発して霊性を開顕し、聖者になれる道をひらいていたのである。

指導者を目ざす者は、七科三十七道品ととり組むがよい。わたくしが指導しよう。

そうでない者は、生ける如来のもとで梵行にはげみ、「王者の相承」を受けるがよい。

わが教団に集まるひとたちを見てほしい。

わたくしの道場では、七科三十七道品の前段階である成仏法と、生ける如来への梵行を合わせた修行法を指導している。「準胝尊千座行」という。

この修行によって、特に宗教的素質に恵まれているとは思えぬひとたちや、ひとの何倍もの悪しきカルマに苦しんでいたひとたちが、「きよめられた聖者」のしるしであるきよらかなオーラを、身のまわりにただよわせはじめているのである。老若男女のすくなからざるかずのひとたちが、その頭上に、すきとおったきよらかなオーラをともしはじめているのである。そのひかりはまだ弱い。ときにきよらかならざる雑色のひかりがまじることもある。しかし、日に日に、そのひかりはつよくなりつつある。 どうしよく

ことに、若いひとたちの間に、力づよいオーラがともりつつある。この若ものたちには、確実

に未来がある。かれらはかならず生き残るだろう。次の世代は存在する。その確信がごく最近わたくしの中に芽生え、それはしだいに大きくなりつつある。それが、この本を書かせた原動力なのだ。

読者と、

いまや、人類は二つの道を選択するギリギリの時点にさしかかった。

核ミサイルによる地獄の業火か、

シャカの仏法によるきよらかな霊光か、

二つに一つである。

読者よ、

地獄の業火でこの地球を焼きつくしてはならない。

人類よ、

全人類がすべてこのすきとおったきよらかなオーラを身にともし、この地球を霊光にかがやく

天体と化そう。それが世紀の地球なのだ。

読者よまずあなたがオーラをともせ! 聖者になれ!

第三章 間脳開発————第三の目をひらく一