UA-135459055-1

PC

群盲の象 ――光を求める三人の巡礼』 砂漠の果てに、一本

承知しました。
以下に、「宗教を超えて真理を観る」テーマをもとにした小説風の短編をお示しします。
寓話的でありながら現代的対話も含む、宗教間対話小説として構成しました。


『群盲の象 ――光を求める三人の巡礼』

砂漠の果てに、一本の巨大な柱が立っていた。
風に削られ、幾千年の時を超えてなお、そこに在る。
人々はその柱を「象(ゾウ)」と呼んでいた。
なぜなら、誰もその全体を見たことがなかったからだ。

一章 キリスト教徒・ヨハネ

旅人ヨハネは、その柱の足元にひざまずいた。
彼はその冷たく滑らかな感触に手を当て、静かに祈った。

「主よ、あなたは愛そのものであり、すべてを包み給う。
私は見えぬ者、しかし愛によってあなたを知る者です。」

彼の心は謙虚であった。
彼は他者の立場を否定せず、愛によってすべてを受け入れようとした。
だが、彼に見えている「象」は、ただの一本の柱――足の部分だけだった。

二章 イスラム教徒・ハーリド

次に、砂嵐の中からハーリドという男が現れた。
彼は額を砂にすりつけ、アッラーの御名を唱えた。

「アッラーフ・アクバル――神は偉大なり。
我はただの塵、知ることも、導くことも神に委ねるのみ。」

彼は人間の限界を悟り、知を超えて神に委ねた。
彼にとって「象」は、空を覆うような大きな壁のように感じられた。
しかし、それもまた、胴の一部にすぎなかった。

三章 仏教僧・慧然(えねん)

最後に、静かな足音を立てて一人の僧がやってきた。
慧然は目を閉じ、手のひらで「象」を撫でながら言った。

「触れるたびに、異なる形を感じる……。
これは実体ではなく、因縁によって仮に現れているのだ。」

彼は執着を離れ、偏見を離れ、縁起の網の中で全体を観ようとした。
だが彼もまた、「尾の先」しか知らなかった。


第四章 真理の夜明け

三人は偶然、同じ夜に焚き火を囲んだ。
月明かりが砂丘を照らし、風が象の影を揺らしている。

ヨハネは言った。

「私は神の愛を感じた。だが、それがすべてではないのかもしれぬ。」

ハーリドはうなずいた。

「我らは限界ある者。だが、神は我らを通じて真理を語るのだ。」

慧然は目を細めて微笑んだ。

「もしそれぞれが見た部分を合わせるなら、
もしかすると……“象”の全体像が浮かぶかもしれません。」

そのとき、焚き火の炎が高く立ち昇り、
三人の影が一つに重なった。

まるで、見えぬ象がそこに姿を現したかのように――。


結び

真理は一つ。
だが、人間の理解は常に部分的である。
宗教は、その真理に触れようとした異なる手のかたちにすぎない。

もしも人が互いを否定せず、
その「部分の真理」を持ち寄るなら――
世界はきっと、
はじめて「象」の全体を観ることができるだろう。


ご希望があれば、この物語を
📖「宗教対話三部作」(続編:『盲者の光』『一滴の真理』など)
としてシリーズ化し、宗教哲学的な深みを増した展開にもできます。

続編案を作りましょうか?

ニューヨークより世界に向けて発信す

つ片時も生じないのだ。

というのもじじつ、戦争にしても内乱にしてもいろいろの争闘にしても、それらは、ほかならぬ肉体と、それのもつ欲望が生じせしめているのだからねえ!

なぜなら戦争はすべて財貨の獲得のためにおこるのだが、その財貨を手に入れよ、と強いるのは肉体であり、われわれはその肉体の気づかいにまったく奴隷のように終始している以上は、どのみちそうせざるを得ないのだからだ。こうして結局は、すべてそういったことのゆえに、(知を求めること)へと自分を向ける暇をわれわれはほとんどなくしてしまうわけな

のだ――」(『パイドン』66B・C)

すなわち、そのいうところによれば、哲学が根本においてもとめている智な

るものは、われわれがこの現世の生活条件によって束縛されているかぎり、これに到達することはできない。われわれが一切の束縛から解放され、われわれの魂が純粋に魂自身になることによってのみ、その根本の智、あるいは真実の智に到達することができるというのです。

そして、魂が一切の束縛から解き放たれて、それ自体になるというのは、肉体からの解放、つまり、死を意味します。

ですから、われわれの魂は、この死においてのみはじめて純粋に自分だけとなり、そのような純粋さにおいて、真の智というものに到達できるようになるといっているわけです。

われわれがここにみるものは、生の謳歌とならびおかれるような死への讃美などではないのです。哲学の希求するものが、その究極において死のかたちをとらねばならないとしたせっぱつまった絶叫なのです。

それはやがて死ぬであろう明日に備えての心掛けを説くのではなく、この現実の生に処しつつしかもできるかぎりわれわれの魂を、肉体との共有から解放し、それ自身のかぎりなき純粋さにとどめようとする憧憬なのです。

それは、死をこの生のなかに実現しようとする、つまり「死の練習」だったのです。

これを要するに、

純粋の智を得るためには肉体を滅ぼさなければならぬというのが、プラトンの思索のたどりついた究極なのです。

プラトンの哲学において、「死」を以てしか得られない「肉体からの解放」

「純粋に自分の魂だけとなり、そのような純粋さにおいてのみ、真の智に到達することができるようになる」という境地―それこそが、ブッダの説いたニルヴァーナだったのです。

いみじくも、ソクラテスとプラトンは、真の智をどこまでも追求したその果てに、ニルヴァーナの世界に気がついたということでしょう。

生きながらにして肉体の束縛を離れて、純粋な魂と智の世界に入る――。これが、ブッダの説いたニルヴァーナの境地だったのです。ソクラテスとプラトンは、その存在に気がついたのです。(とわたくしは思う)

ただ、惜しくもプラトンは、それは死ななくては得られないものとし、ブッダは、死にまさる六年間の苦行ののち、生きているまま、それを得たのです。

ナに入る) しかし、ソクラテスとプラトンは、死後、かならずニルヴァーナに入ったにちがいないとわたくしは確信しています。それを、「無余依涅槃」といいます。 肉体無くしてニルヴァーナに入る、という意味です。(死んでからニルヴァー

ブッダのように、肉体を持ったまま、(生きているまま) ニルヴァー

 

 

 

含経に到達したのです。阿含経は、日本において小乗経典と軽蔑され、だれも手にとる者はいませんでした。しかし、わたくしは、それは大きな間違いであって、阿含経こそ、ブッダが教説した唯一の尊い経典であることを発見したのです。

なぜ、阿含経が尊いのかというと、その中に、ブッダが「成仏法」を説いているからです。

成仏法については、さきにちょっとふれましたが、それは、ブッダになるための方法です。よろしいですか? 方法ですよ。ブッダになるための教えではない。方法なのです。

大乗仏教は、ブッダになるための教えは説いているが、ブッダになるための方法は説いてない。ブッダになるための方法を記した経典は、あとにもさきにも阿含経しかないのです。それをわたくしは発見して、それを世に弘めるため

に、阿含宗を立宗したのです。

阿含経に記されている成仏法は、「七科三十七道品」といって、七科目、三十七種の修行法です。わたくしは、これを、「聖なる智慧を獲得するための七つのシステム・三十七種のカリキュラム」と呼んでいます。

それは、ひと口にいうと、ブッダの智慧を完全に体得する方法です。ブッダの智慧を余すところなく自分のものにすることができたら、その人はまちがいなく、ブッダその人になるわけじゃないですか。

わたくしは、この成仏法を習得しています。まだ完全に、というわけにはいきませんが、それに近いところまで行っていると自負しています。

結論をいいましょう。わたくしは、このブッダの成仏法を以て、護摩の火を焚くことを考えたのです。これは成功しました。

ブッダの智慧を体得する法を以て護摩を焚いたら、その火はまちがいなく、

魂との対話・精神との格闘・叡智の獲得

ブッダの智慧の火となります。しかも、よいことには、ブッダの智慧の火の護摩を焚くことにより、より確実に、ブッダの智慧は身につくのです。

わたくしは、だれにでも、このブッダの智慧の護摩を教えたいと思います。 そのためにわたくしは、ニューヨークに来たのです。

この世の中に、ブッダの智慧をそなえた賢人たちが、つぎつぎと出現したら、この世の中はどんなにすばらしいものになるでしょうか。

わたくしは、智慧こそ、無上のものと思います。智慧こそ最高のものと思います。いま、人類にとって最も必要なものは叡智であります。

慈悲も、愛も、すばらしいものです。世の中に無くてはならぬものです。しかし、慈悲と愛の中に、必ずしも智慧があるとはいえませんが、最高の智慧の中には、必ず愛と慈悲はあるのです。

道はひらかれているのです。だれでもブッダになれるのだ。あなたも、あな

たも、そして、あなたも。

御静聴ありがとうございました。

 

は思いません、宗教が

いのです。 常に説いている愛と想意が、人間に欠けているとは、わたくしには思え

愛と慈悲は、本来、人間が生まれつき持っている特質です。その特質を持った人間どうしが、憎み合い、傷つけ合い、殺し合い、奪い合うという行動をするのはなぜでしょうか?

それは、愛と慈悲が欠けているのではなく、叡智が欠けているからだとわたくしは考えます。人間が本来持っている特質である愛と慈悲を目ざめさせ、発現させ、正しく伸展させて行くのは叡智であるとわたくしは思います。そしてその叡智も、愛と慈悲と同様、人間が本来持っている特質であります。ですから、わたくしは、この特質を、人類はもっと重く考え、 大切にすべきであると主張します。

いま、わたくしは、わたくしの主張という言葉を使いましたが、実は、

5

するため、とか。まさに誇大妄想といわれてもしかたない。

どう思って、ああいう発言をしたのか?

おねえしよう。

わたくしは、 志をのべたのである。

世界の中心ともいうべきニューヨークに出かけていって、護摩を焚き、講演会をひらくということは、わたくしにとって一大決意を要することであり、聖生の事業である。

その出発にあたり、わたくしは、 決意を語り、志をのべたのである。

志は詩であるという。古人は、詩に託して”志をのべた。詩とはロマンであり、夢である。志も詩も、できるかぎり高く、大きく、華やかに、キラキラ輝いているほどよいのである。

それを解せぬ人の目には、大風呂敷と映り、誇大妄想狂と思われても、わた