三善根 ― ある老僧の教え
風が梵鐘の音を運んでくる午後、若き修行僧・慧真(えしん)は、山寺の縁側で古びた経巻を閉じた。瞳に浮かぶのは迷い。なぜ、どれほど修行を重ねても、心に満ちる安らぎが得られないのか。
「師よ、私は幸せになりたいと願っております。ただ、それがどこにあるのか、わからなくなりました」
その問いに、年老いた僧・日融(にちゆう)は静かに微笑んだ。そして、炎のように赤く染まる夕日の方を見やりながら口を開いた。
「慧真よ、福とは、ただ天から降るものではない。種をまかねば実はならぬ。稲も、水も、光も、土もなければ育たぬのと同じだ」
慧真は眉をひそめた。「では、その“種”とはなんでしょうか?」
日融はゆっくりと立ち上がり、棚から一巻の古文を取り出した。それは金泥で書かれた経典であった。日融はその一節を読み上げた。
「『如来の所に於て功徳を種う。此の善根腐尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず』――これは、三善根と呼ばれる修行の教えだ」
「三善根……」
「そうだ。如来のもとで、正法の中で、聖衆との関係の中で、功徳を積む。それが三福道とも言われ、出世間の福、すなわち真の幸福を得る三つの道なのだ」
「如来のもとで功徳を積むとは、どういうことでしょうか?」
「仏に帰依し、その教えを信じ、心から仏恩を感じることだ。礼拝、供養、感謝――それらは徳の種をまく行いとなる。仏は何も要求しないが、敬う心そのものが人を変えるのだ」
「正法において功徳を積むとは?」
「正しき教えを聞き、それに生きることだ。戒を守り、清らかな言葉を用い、怒りに染まらぬ心を持て。法を知る者は、その徳により自らを清める」
「では、聖衆とは?」
「共に道を歩む僧や在家の者たち、あるいは仏道に励むすべての仲間のことだ。他者に施し、支え、共に修める。それこそが第三の功徳だ」
慧真の瞳が、次第に輝きを取り戻してゆくのを、日融は見逃さなかった。
「世の人々は“幸せになりたい”と口では言う。だが、福をもたらす徳を積むことはしない。ただ願っているだけでは、福は来ぬ。福は徳から生まれ、徳は心と行いから生じる。三善根こそが、幸いの根だ」
慧真は深くうなずいた。そして、再び経巻を開く。今度は、読むためではない。生きるために、その言葉を自らの魂に刻むために。
徳の種をまく者
それから幾日かが過ぎたある朝、慧真は本堂の裏手にある小さな畑で、黙々と土を耕していた。竹籠には数珠と阿含経が入っている。だが今日は読経ではない。彼は、日融に言われたのだ。
「経を読むだけが修行ではない。手を動かすこともまた功徳だ」
鍬を握る手はまだ慣れておらず、泥だらけになってはいたが、その瞳には確かな意志が宿っていた。
「種をまけば、やがて芽吹く。人の心も同じじゃ」
背後から聞こえた声に振り返ると、日融が木の枝に止まる小鳥を指していた。
「見なさい。あの鳥が鳴くのも、誰かの徳になる。やさしい音を聞けば、人は怒りを忘れることもある。功徳は、かならずしも大きなことから始まるのではない。むしろ、小さなことにこそ宿るのだよ」
慧真は汗をぬぐいながら問うた。
「師よ、では、私のこの耕しも、功徳となるのでしょうか」
「もちろんだ。だが、心が伴っていなければ、ただの作業となる。たとえ同じ行為でも、どのような心で行うかが、徳の深さを決めるのだ」
日融はそっと草の葉を摘み、手のひらに乗せた。
「如来のもとで功徳を積むとは、自分を超えたものへの感謝と敬いを生きること。正法において功徳を積むとは、自らの行いを律してゆくこと。そして、聖衆において功徳を積むとは、他者を尊び、支えること。お前の耕すこの畑が、皆の糧となるなら、それは立派な“第三の功徳”じゃよ」
慧真はその言葉に、初めて「喜び」という花が心に咲いた気がした。
日が高くなるころ、一陣の風が山中を通り過ぎた。その風は、ただ涼しさを運ぶだけではない。どこか、慧真の心の奥底――幼きころから持ち続けていた「何か足りない」という渇きに、少しずつ水を注いでいるようだった。
日融は言った。
「徳を積めば、福は生まれる。福は、自らの幸せとなり、やがて他の者を照らす光となる。やがて、その光が、また新たな種を育むのだ。お前はその輪を紡ぐ者になりなさい」
慧真は深く合掌し、微笑をもって言った。
「はい、師よ。私は、徳の種をまく者になります」
衆生の中へ ― 徳を灯す旅立ち
山を降りる朝、慧真は、かつての自分の姿を思い出していた。
――「幸せになりたい」と叫びながらも、徳を積むことの意味を知らなかった日々。
今、その問いに一つの答えを得た彼は、師・日融の見送りを受けながら、袈裟をたたみ、下山の支度を整えていた。
「慧真よ、これからは世の中で生きなさい。そこには迷いも欲も苦しみも渦巻いている。だが、それこそが真の修行の場だ」
「はい、師よ。三善根の道を、衆生の中で行じてまいります」
日融はひとつだけ、木の実を慧真の掌に置いた。
「これは徳の種。だが、それを実らせるのはお前の行いだ」
慧真は深く頭を下げ、里へと足を踏み出した。




