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仏教

三福道の啓示 ―舎衛城の夜に―

三福道の啓示 ―舎衛城の夜に―

梵鐘が遠く、夜の闇を打った。

舎衛国、祇樹給孤独園。その夜は特別に静かだった。星々が葉の隙間から洩れ、風は祇園精舎の欄干を撫でていた。弟子たちは静まり返り、ただひとり、阿難が世尊のそばに控えていた。

「阿難よ――」
低く、深く、しかし確かに響く声で、世尊が口を開いた。

「この世に三つの福道がある。これらを修める者、その功徳は尽きることがない。やがて涅槃へと至るであろう。」

阿難は静かに合掌し、身を正した。その瞳に、仏の言葉が月光のように沁みていく。

「その第一は――如来に於いて功徳を積むこと。仏の姿を讃え、仏舎利を供養し、仏の慈悲を信じて行ずる者、その福徳は果てることなし。」

「第二は――正法に於いて功徳を植えること。経を読誦し、法を説き、教えに従って生きる者、その道は尽きることがない。」

「そして第三は――聖衆に於いて功徳を施すこと。僧を敬い、衆を支え、道を共にする者を助けること。それもまた、無量の福を育むのだ。」

世尊の言葉に、阿難の胸は静かに熱くなった。それは、ただの理屈ではなかった。生きた言葉だった。無数の過去世を貫いてきた、悟りの息吹だった。

「この三福道を実践せよ、阿難よ。これはただの供養ではない。事・行・理――三供養の実践が、そのまま仏舎利供養の根本であり、仏の生きた教えである。」

阿難は頷いた。闇のなかに、涅槃の光がほのかに灯ったようだった。

それは、世俗の福ではない。名誉でも、財でもない。

それは、生きとし生けるものを超えたところで、ただただ清らかに、ただただ無尽に広がっていく――出世間福という、覚醒の道だった。

霊塔の灯明   Light of the Stupa

 

霊塔の灯明   Light of the Stupa

静けき山の石の祠(ほこら)
ひとしずく 慈悲はしみわたる
夢に映る 金の声
風は語る いのちの名を

燃ゆる灯よ シャカのいのち
骨は今も 願いを聴く
闇のなかで 誰かを抱き
光となれ 霊塔の空へ

Silent stone, the shrine in the hill
A drop of mercy, softly distilled
In dreams I hear the golden voice
The wind speaks names with quiet choice

O burning light, O life of Shakyamuni
His bones still listen, holding our plea
In the dark, He gathers the lost
Becoming light, in the stupa aloft

三重の釈迦 ―霊塔に宿るいのち―』

 

 

『三重の釈迦 ―霊塔に宿るいのち―』第一章:旅のはじまり

大陸の西の果て、古都マガダにほど近い小さな村。そこに一人の青年、サンジャイが暮らしていた。村人たちは口々に彼を「奇妙な若者」と噂した。なぜなら、彼は毎晩、夢の中で“金色の仏”と語り合うというのだ。

ある朝、村の広場に旅の僧が現れた。白髪に長い眉、穏やかな声の老僧――その名はラーマ尊者。

「おぬし……仏の声を聞く耳を持つかもしれぬ」

ラーマはサンジャイを一目見るなり、そう言った。

その言葉をきっかけに、二人は聖地ラージギルへの巡礼の旅に出る。旅の道中、二人は様々な人々と出会う。霊塔を守る老女マールティ、密教の曼荼羅師カヴィ、仏舎利を盗もうとする盗賊団――その頭目であり、過去に仏弟子だった男、アーナンダル。

それぞれが「三重の釈迦」の意味に触れ、己の生き方を問われていく。

たとえば次の章では、マールティが語る仏舎利信仰の霊験のエピソードや、カヴィによる曼荼羅制作の秘儀が描かれます。また、盗賊アーナンダルがなぜ仏教を捨て、仏舎利を狙うようになったのか――その過去も、物語の鍵となるでしょう。

 

第二章:老女マールティと灯明の夜

山間の道を登りきったところに、小さな霊塔があった。崩れかけた石造りの祠の中に、それでも静かに、確かな存在として仏舎利が祀られている。

「よく来てくれました……」

迎えに出たのは、白髪を束ねた老女だった。マールティ――この地で代々、仏舎利を守り続けてきた家系の最後の者だという。

「シャカの御骨は、ただの遺灰ではないのですよ」

サンジャイが塔を見上げていると、マールティは静かに語りはじめた。

「わたしがまだ娘だった頃、この村にひどい疫病が流行りました。人々は次々と倒れ、祈っても薬を求めても手立てはなかった……」

彼女の声は、記憶の深みに沈み込むように低くなる。

「そのとき、わたしの祖母は、この塔の扉をひらき、仏舎利の前に香を焚いて祈ったのです。『どうか、民をお救いください』と」

サンジャイは息を呑んだ。

「その夜でした。疫病で眠ることもできなかった村人たちが、一人また一人と深く眠りにつき、翌朝、熱がすうっと引いていたのです。まるで、慈悲の手がひとりひとりに触れていったようでした」

ラーマ尊者がうなずく。

「仏舎利は、単なる骨ではない。それは“仏そのもの”であり、“生きた慈悲”なのです」

マールティの目が、炎のように静かに光った。

「だから、わたしはここを離れません。この仏舎利が、いつかまたこの地に仏法の光を灯す、その日まで」

その夜、霊塔の前で、三人は灯明を捧げた。風に揺れる炎の中、サンジャイは感じていた。目に見えぬ何かが、自分たちを包んでいると――それは、まぎれもない“生きたシャカの気配”だった。

 

第三章:曼荼羅師カヴィと護法の図

山道をさらに奥へと進んだ一行がたどり着いたのは、鬱蒼とした森に包まれた小さな庵だった。苔むした石段の先に、竹で組まれた門があり、その向こうからは不思議な香の気配が流れてくる。

「ここが……カヴィの庵か」

ラーマ尊者の言葉に、サンジャイは静かに頷いた。

庵の戸を開けたのは、墨衣をまとった長身の男。深く刻まれた眉間と、鋭いまなざし。その人物こそ、密教曼荼羅師カヴィであった。

「仏舎利の加護を求めに来たか。だが、護られるべきは仏ではない。護られるべきは――おぬしたちの心だ」

そう言ってカヴィは、一同を庵の奥へと導いた。

そこには、巨大な布に描かれた曼荼羅の下絵があった。円の中心には大日如来、その周囲に金剛手、観音、地蔵、そして忿怒の明王たちが配され、緻密に構成された“宇宙の地図”だった。

「これは……ただの絵ではない」

サンジャイが思わず声を漏らすと、カヴィは微笑を浮かべた。

「曼荼羅とは、目に見えぬ“仏界の結界”を、この世に顕現させる鍵。私はこれを、護法の図として結ぶ」

その夜、カヴィは香を焚き、金粉を散らしながら、仏舎利を護るための結界曼荼羅を描きはじめた。

筆先から流れるように現れる線。それはまるで、無数の仏たちがこの地に舞い降りる通路を紡ぎ出すかのようだった。光と影がゆらぎ、曼荼羅の中心にある大日如来の目が、ほんの一瞬、確かに開いたようにサンジャイには見えた。

「この曼荼羅が完成すれば、邪なる者は塔に触れることすらできぬ。だが……」

カヴィの声は、わずかに翳った。

「相手がかつて仏門にいた者ならば――この結界すら、心の迷いによって破られるかもしれぬ」

そのとき、庵の外に、風がざわりと吹いた。森の奥、何かが忍び寄ってくる気配――それは、仏舎利を狙う者の影だった。

 

大神通力を得る禅定法──安那般那念法の秘奥

大神通力を得る禅定法──安那般那念法の秘奥

 その夜、山の気は冷たく澄み渡っていた。薪が静かに爆ぜる音を聞きながら、私は古い経典の一節を開いた。墨の匂いが、古の智者たちの気配を運んでくるようだった。

 《是の如く我れ聞きぬ──》

 私は読んだ。祇園精舎において、釈尊が比丘たちに告げた言葉。「安那般那の念を修習せよ」──その一言が、私の魂を貫いた。

 “安那”とは出る息、“般那”とは入る息。だが、そこに記されていたものは、単なる呼吸の観法ではなかった。それは、魂を変容させ、神通へと至る禅定の道であった。

 釈尊は説いていた。身を整え、心を護り、外界から離れて静寂に坐すこと。そして、内息・外息・行息を念じる。その息は、単なる空気ではない。生命の気、プラーナであった。

 呼吸は、ただの生理現象ではない。私の身を巡り、心を巡る“気息”であり、それを制することで、私は自己の因縁をも制御しはじめていた。

 「心の行息を覚知せよ──」

 私は脳の深奥に意識を集中した。チャクラと呼ばれる点を、一つ一つ呼吸の力と念の光で照らしていった。やがて、意識の流れが止まった。時間も、肉体も、私の中で意味を失っていった。

 「身止息、心止息──」

 内なる静けさの中で、私は“解脱”の感覚に触れた。それは、人の枠を超えた感覚。執着も、怒りも、迷いも、すべてが溶け去る。私という存在が、ただ“光”となって在る。

 そして訪れたのだ。大神通力というものが。

 それは外に現れる力ではなかった。内における変容の力、他者の苦しみを癒し、因縁を断つ力。釈尊が説いた四つの最奥義──勝止息、奇特止息、上止息、無上止息──が、私の心身を貫いていた。

 「これはすべての呼吸法に勝る法である」と釈尊は説いたという。その意味が、今ならわかる。この法は、ただの呼吸法ではない。“仏法そのもの”を実践し、成仏に至るための最上の禅定法だったのだ。

 長く埋もれていたこの経典が、再び光を放つときが来た。誰も気づかずにいた真実の法。その価値に目覚める者が、いよいよ現れるべきときが──。

大神通力を得る禅定法

し、やはりこの四道品は、加えられなければならないものである。

それと同時に、阿含の聖典群が、四神足法を「一乗道」とした理由もうなずけるのではないか。

大神通力を得る禅定法

それでは、安那般那念法とはどういう法か?

ちど見てみよう。 前巻「輪廻転生瞑想法Ⅱ」でも解説したが、その法を説いた聖典を、もうい

是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に住まいたまえ

り。爾の時世尊、諸の比丘に告げたまわく「安那般那の念を修習せよ。若し比丘の安那般那の念を修習するに多く修習せば身心止息することを得て有覚、有観、寂滅、純一にして明分なる想を修習満足す。何等をか安那般

那の念を修習するに多く修習し巳らば身心止息し、有覚、有観、寂滅、純

一にして明分なる想を修習満足すと為す。是の比丘、若し聚落城邑に依り

て止往し、晨朝に衣を着け鉢を持ち、村に入りて乞食するに善く其の身を

護り、諸の根門を守り善く心を繋けて住し、乞食し已って住処へ還えり、

げんぼう衣鉢を挙げ足を洗い已って或は林中の関房の樹下、或は空露地に入りて端

よわ

 

身正坐し、念を繋けなば面前、世の貪愛を断じ欲を離れて清浄に、瞋恚・

睡眠・掉悔・疑、断じ、諸の疑惑を度り、諸の善法に於て心決定すること

を得、五蓋の煩悩の心に於て慧力をして贏らしめ、障礙の分と為り、涅槃

に趣かざるを遠離し、内息を念じては念を繋けて善く学し、外息を念じて

は念を繋けて善く学し、息の長き息の短き、一切の身の入息を覚知して一

切の身の入息に於て善く学し、一切の身の出息を覚知して一切の身の出息

に於て善く学し、一切の身の行息・入息を覚知して、一切の身の行息・入

息に於て善く学し、一切の身の行息・出息を覚知して、一切の身の行息・

出息に於て善く学し、喜を覚知し、楽を覚知し、身行を覚知し、心の行

息・入息を覚知して心の行息・入息を覚知するに於て善く学し、心の行

息・出息を覚知して、心の行息、

息・出息を覚知して、心の行息・出息を覚知するに於て善く学し、心を覚知し、心悦を覚知し、心定を覚知し、心の解説入息を覚知して、心の解脱入息を覚知するに於て善く学し、心の解説出息を覚知して、心の解脱出息を覚知するに於て善く学し、無常を観察し、断を観察し、無欲を観察し、

滅入息を観察して、滅入息を観察するに於て善く学し、演出息を観察して、演出息を観察するに於て善く学する。是れを安那般那の念を修するに身止息し心止息し、有覚、有親ならば寂滅、純一にして明分なる想の修習満足せりと名づく」と。仏此の経を説き巳りたまいしに諸の比丘、仏の説かせたもう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

(雑阿含経「安那般那念経」)

【安郡anaは、出る息のこと。絵那」―apānaは、入る息のこと。そこで、古米、安都事とは、出る息、入る息を数えて心をしずめる観法「数息観」 のことをいう、とされている。

そこで、この「安部校那念経」も、昔から数息観の呼吸法を説いたものと、

解釈されている。しかし、それはちがうのである。この経典は、単なる法」を説いたものではないのである。これは、初歩から最高奥義に至るまでの禅定法を説いたものなのである。

大神通力を持つ禅定法のすべてが、ここに説かれているのだ。

ここでいう禅定法とは、特殊な呼吸法と、特殊な観法とをあわせた一種の瞑想法と思っていただきたい。

では、それを見ていってみよう。

それは、まず、初歩の呼吸法からはじまって、しだいに深く進んでいく。

内息

外息

出息

行息

身の行息・入息

 

 

内容について説明

そこで、ここで注意しなければならないことかある

それは、「息」の解釈である。

これを、単なる呼吸として解釈してしまってはいけない。そう解釈するか

ら、この貴重な経典を呼吸法を説いた経典と見てしまうのである。そうではな

いのだ。この「息」には、もっと深い重大な意味があるのである。

ざっと説明してみよう。

内息

外息

人息

これは、深い瞑想の修行に入るにあたっての、身心調節の呼吸法である。

行息

 

行息

プラーナこれは、気息、すなわち、ヨーガでいう生気を息とともに、体の隅々にまで行らすことである。

じん身の行息・入息

じん身の行息・出息

これは、髪において気息をだらすこと。すなわち体のある特定の場所(チャクラ)に気息を行らしていくことである。

心の行息・入息

心の行息・出息

めぐこれは、心において気息を行らすこと。

この「心」というのは、端的にいって脳のことである。思念する心は、脳にあるからである。脳の特定の場所(チャクラ)に気息を行らしていくのである。

ここで、この「行らす」という言葉に留意していただきたい。

身止息身において気息を止念す

心止息心において気息を止念す

とど気息を、身と心に止め、念ずるのである。身と心の、どこに止め念ずるのか?

体と脳のある特定の場所(チャクラ)に止め念ずるのである。

心の解脱入息

心の解脱出息

脳のある特殊な場所(チャクラ)を、気息と念のエネルギーによって刺激す

る。この修行から修行者は人間の境界を越え(解説)はじめる。

滅入息

滅出息

 

前の修行につづき、仏陀の覚性に到達する修行である。気息・思念すべて人間を超越した境地に入る。

つぎに、釈尊は、四つの最上深秘の禅定を説いている。これは、雑阿含経「止息法」に説かれているが、「安那般那念経」につづく奥義の禅定法である。

勝止息 奇特止息

上止息 無上止息

である。

のである。 これが、さきにのべた「四安那般那念法」である。これが、四神足法の核になるもので、修行者はこの法によって、解脱・変身し、大神通力を身につける

釈尊が、この経典で、「この四つの呼吸法は、すべての呼吸法において、これ以上のものはない最上の呼吸法である」とのべているのも当然なのである。

ここでは、“呼吸法”と訳されているけれども、単なる呼吸法ではないことは、前にのべたとおりである。正しくは、『禅定法”と意訳されなければならないのである。

どうして、こんな貴重きわまる聖典が、これまで注目されなかったのか、わたくしはじつに不思議でならない。おそらく、その価値がわかるところにまで到達した修行者がいなかったということなのだろう。

さて、

いきなり、最高の奥義・秘伝に入ってしまって、あなたはびっくりしているかもしれない。もちろん、ここに来るまで、非常な修練を積まねばならない。

ていただきたい。 しかし、どんなにむずかしいことでも、初歩から段階を踏んで進んでいけば、 だれでもかならず、その堂奥に達することができるのである。しっかり修行しどうおう

では、もとに戻って、初歩からの課程を説くことにしよう。

輪転生联想法Ⅲ 204