薬師瑠璃光の導き
深い森の奥、夜露に濡れた石畳を踏みしめながら、老僧は静かに祠へと向かっていた。灯された松明の火が揺れ、彼の影が古びた杉の幹に揺らめく。風の音にまぎれて、小さく唱える声が聞こえた。
「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ――」
それは薬師如来の真言。老僧・円乗(えんじょう)は、病に伏した村人のために、今宵も薬師の加護を乞うて祈るのだった。
祠の奥には、青き瑠璃の光を放つ薬師如来の像が鎮座していた。その手には薬壺。全ての病を癒すという神聖な薬が収められているという。慈悲に満ちたその眼差しは、見る者の心の奥深くにまで静かに染みわたる。
「医王善逝(いおうぜんぜい)……我らの苦しみを癒し、清め、命の光を取り戻したまえ……」
薬師如来は古来より、病気平癒、厄除け、長寿祈願、そして死後の安楽をもたらすと信じられてきた。そしてその護法には十二の守護神――十二神将が控えている。彼らは元来、激しい夜叉神であったが、薬師の誓願に感応し、善神として転じたという。
円乗は祈りながら、遠い昔の記憶をたぐっていた。かつて自らの命もまた、薬師如来に救われたことを。
その夜、祠の前にひとりの娘が現れた。病に倒れた父のために、加護を求めてやってきたという。
「薬師さまは……ほんとうに救ってくださるのですか?」
娘の問いに、老僧は微笑んだ。
「神聖なる力のもとに、病を取り除き、浄化し、癒しの力をもってすべてが成就しますように。それが薬師如来の願いなのです。」
空に光が差し始めた。夜が明けるとき、瑠璃光の仏は静かに輝きを増していた。
薬師瑠璃光の導き(第二章)―癒しの法を求めて―
娘の名は沙耶(さや)。父は長年、胸の病に悩まされていた。医者も手を尽くしたが、やがて彼の命は風前の灯となり、娘は最後の望みを託して山奥の薬師の祠を訪れた。
「薬師法を修めれば、救える命もあるかもしれぬ」
老僧・円乗の言葉に、沙耶は決意した。
「教えてください。薬師法を……癒しの法を、わたしにも。」
円乗は静かにうなずくと、祠の奥の経棚から一巻の経を取り出した。
「これは薬師瑠璃光如来本願功徳経。薬師如来が、かつて十二の大願を立て、衆生を救うと誓った教えだ。まず、その御名と真言を日々、心をこめて唱えるのだ。声に出して、魂で響かせよ。」
夜ごと、沙耶は父の床辺で唱え続けた。
「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ……」
その声はまるで、瑠璃の光が空間を満たすように澄んでいた。
やがて、不思議なことが起きた。父の咳が和らぎ、苦しみがやや静まっていった。まるで誰かが苦悩を少しずつ取り除いてくれているようだった。
老僧は語った。
「薬師法とは、ただ祈ることではない。心と行いを正し、他を慈しむことで、はじめて真の癒しがもたらされる。沙耶よ、次に教えるのは“浄身観想”。自らの体が瑠璃光に満たされ、すべての穢れを洗い流す観法じゃ。」
沙耶は祠に籠もり、七日七夜の修行に入った。
その間、祠の周囲には見知らぬ姿が現れたという。金の甲冑をまとった十二の神々――十二神将である。彼らは薬師如来の誓願に応じ、修行する者を守護する役目を負っているという。
最終夜、沙耶の夢の中に、深き瑠璃の光が差し込んだ。その中心に現れたのは、右手に施無畏印、左手に薬壺を携えた、慈悲深き仏の姿。
「苦しみを受けし者に、癒しの光を。願いを立て、精進せよ。汝の中にこそ、癒しの力は宿る。」
その瞬間、沙耶の心には確信が生まれた。彼女はもはや、ただの娘ではなかった。癒しの道を歩む者、薬師法の行者となったのだ。
そして夜が明け、父の病は――静かに、しかし確かに、快方へと向かい始めていた。