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仏教

仏と同じ景色を見る者 the Buddha Sees 仏法奥義

 

仏と同じ景色を見る者
The One Who Sees as the Buddha Sees

蝋燭の灯 揺れる禅堂
息を調え 言葉は沈む
奇蹟の名を 胸に抱いて
古の声が 魂を叩く

観よ 心に灯る真実呼吸が開く 無明の扉
奇特なる法 神足の道
今 <仏と同じ景色を見る

Candlelight flickers in the silent hall
Breath aligns, and words fall still
The name of a miracle held to the heart
Ancient voices strike the soul

Behold — the truth that lights the heart
Breath unlocks the gate of ignorance
A wondrous art, the path of divine steps
Now I see the world the Buddha sees

 

仏法奥義————成八科四十一道品

成仏法奥義————八科四十一道品

釈が教えた成仏法は、奇蹟を起こすためのものではない。

しかし、凡夫が成仏して仏陀になるということ自体、たいへんな奇蹟というべわざきではないか。それは、大神通力を持ってこそ、はじめてなし得る業である。平凡な人間が、平凡のままパッと仏陀に変身するわけではない。その修行課程において、修行者は、

通力神通力大神通力

が身にそなわるのである。

成仏法奥義—————八科四十一道品

 

それは、大神通力を得て成仏するためには、アビダルマ仏教の論師たちがま

くとめた「七科三十七道品」だけでは完全ではない、ということである。

もうひとつ、絶対に必要な法がある、ということである。

わたくしは、この法を加えて、成仏法を「八科四十一道品」とする。

それは、つぎのようになる。

四念住法

四正断法

あなはなねんぼう四安那般那念法

四神足法

五根法

五力法

七覚支法

八正道法

四安那般那念法

である。

四安那般那念法は、つぎの四法から成る。

勝止息法 奇特止息法

上止息法

無上止息法

である。

では、その「安那般那念法」とはどういう法なのか?

この中の、「奇特止息法」という文字に目をとめていただきたい。

「佛教語大辞典」によると、こうある。

【奇特】 特に異なっていること。不思議なこと。奇蹟。

つま今特近見店とは、顔を起こす力をあたえる特異な禅定法なのである。 このつの法は、すべて、奇蹟大神通力をあたえる特殊な法なのである。

では、その奇蹟とはなにか? 大神通力とはなんであろうか?

それは「解説力」である。

解説こと宇宙最高の奇蹟ではないのか。自分を変え、世界を変える、これ以上の奇蹟があるであろうか?

そして、この奇蹟の図録解説をなしとげる、因縁解脱力こそ仏法最高の大神通力なのである。したがって、この四つの法は、因縁解説をして成仏する大神通力をあたえる法なのである。

わたくしは、この四つの法は、四神足法の中の、「観神足法」とおなじであると考えている。というよりもら「観神足法」、あるいは「四神足法」そのものの具休的な説明・解説になっているのではないか、と思っているのである。そこで、アビダルマ仏教は、この四安那般那念法を、(わざわざ一科目立てることをせず)七科三十七道品の中に入れなかったのではないかとも考えられるが、しかし、やはりこの「科四品は、加えられなければならないものである。

それと同時に、阿含の型群が、四神足法を「一乗道」とした理由もうなずけるのではないか。

大神通力を得る禅定法

 

 

 

 

 

 

揺れる受(うけ)に身をまかせ 四念住 Swaying Feelings — Letting Go

 

 

揺れる受(うけ)に身をまかせ
Swaying Feelings — Letting Go

 

雨が降る、心にそっと
孤独が音を立てる夜
感じたままに見つめれば
波のように揺れて消える

悲しみの底にある かすかな愛の灯よ
喜びもまた過ぎゆく 夢のような泡沫(うたかた)
この身に訪れる“受”を わたしは手放そう
今、ただ在るものとして

Rain falls softly on my soul
Loneliness echoes through the night
When I gaze with open heart
Waves arise, then fade from sight

In sorrow’s depths, a light remains — a tender spark of love
And joy, too, passes like a dream — a fleeting cloud above
The feelings that arise in me, I gently let them go
As they are, just passing winds that blow

 

四念住

第一部「四念住」

第二章 受念住 ― 揺れる心、たゆたう感覚

 それは、ある雨の日のことであった。

 小屋の屋根を打つ雨音が、単調に続いていた。外界とのすべての関係が断たれ、アーナンダは己の心とだけ向き合う静寂にあった。

 彼は坐を組み、そっと目を閉じる。

 「次に観ずべきは、受である」と、師バラモンは語っていた。

 「受とは、感受である。喜び、苦しみ、快・不快、無関心――それらは心に生じては消える波。だが、愚者はそれを“わがもの”と思い、掴み、流される。賢者はそれを“ただの感受”と見て、手放す」

 アーナンダは、その言葉を思い出しながら、心の中を見つめる。しばらく何も感じないように思えた。だが、そこに注意を集中すると、確かにあった。

 ――物悲しさ。
――孤独。
――そして、小さな焦り。

 (ああ、わたしの中には、苦の“受”がある……)

 彼は、その苦を否定せず、ただ見つめた。まるでそれが誰か他人の苦しみであるかのように。

 やがて、その苦は、静かに姿を変えていった。悲しみの底にあったのは、愛だった。師への思慕、仲間への想い。だがその想いが叶わぬとき、人は苦を生じる。

 「なるほど……」

 次に、彼の心に過去の記憶がよぎった。師の言葉に褒められたあの日、胸が熱くなったあの瞬間。

 (これが、楽の“受”)

 楽しさもまた、ただの感覚。永遠には続かず、変わりゆくもの。

 そして今――雨音だけが響く静寂の中で、彼の心は不思議な「中立」の感覚に包まれていた。苦しくもなく、楽しくもない。ただ、静かにそこにある。

 (これが、捨受。すなわち「無記の受」……)

 アーナンダの呼吸は深くなっていく。感覚が、波のように生まれては消えていくのを、ただ見守っている。

 そこに、永遠なるものはなかった。

 苦も楽も、「わたし」のものである必要はなかった。

 それらは、ただ生じて、ただ滅する。

 それが真実なのだ。

 アーナンダはそっと目を開いた。雨は、いつのまにか止んでいた。雲間から一筋の光が差し込み、土の匂いが、清らかな風に混じって流れてきた。

 彼はその光と香りを、ただ受け取った。歓喜もなく、拒絶もなく。

 ――これが、受念住。

 心に生じるあらゆる感覚を、ただの“波”として見る。その深奥に、智慧の芽がひそかに宿りはじめていた。

心念住 ― 心のかたちを映す鏡

 月が昇るころ、山の庵には、静寂が降りていた。アーナンダは、薄衣を肩に掛け、今夜もひとり、坐に入った。

 「身を観じ、受を観じて、最後に残るもの。それが“心”である」と、師は語った。

 「心念住とは、今この瞬間、いかなる心があるかを知ること。貪りがあるか、怒りがあるか、迷いがあるか。あるいは、それが去ったのか。それを知り、見抜き、離れていくこと」

 アーナンダは、呼吸とともに心を澄ませていく。すると、突如――

 ひとつの記憶が浮かび上がった。

 それは、かつて仲間の修行僧と些細な言い合いをした日のこと。相手の言葉が、どうしても許せなかった。彼の中に、怒りがふつふつと沸いた。

 そして今、瞑想の中でもなお、その怒りの「残り香」が微かに蘇ってくるのを感じた。

 (怒り……)

 彼は、その心を見つめた。

 怒りとは、火のようなものだ。心を焼き、理を失わせる。だがその火も、ただ心に生じた一つの現象にすぎない。真実の“我”ではない。

 アーナンダはさらに心を沈めた。

 すると今度は、静かな慈しみが湧き上がってくる。あのとき、自分もまた苦しかった。相手もまた迷いの只中にいた。――それを赦す心。

 (これも、また心)

 欲する心、怒る心、信じる心、疑う心――どれもが、現れては消える。流れる雲のように。

 それを「私」と呼ぶなら、「私」は刻々と形を変え、定まることがない。

 (では、“私”とは何なのか?)

 アーナンダは、その問いを胸に置いたまま、ただ心を観じ続けた。

 今、この瞬間、自分の心は穏やかか、動揺しているか。眠気はあるか、喜びはあるか。ありのままに、それを映し出す“心の鏡”を、自らの内に据える。

 すると彼の内なる空間に、透明な静けさが生まれた。

 心とは、無限の姿を取りながら、空に浮かぶ雲のように、来ては去り、現れては消える。

 それを知ったとき、アーナンダの中に、柔らかな微笑が芽生えた。

 もはや、怒りや欲に巻き込まれる必要はなかった。

 なぜなら――彼は、それらが「ただの心の状態」であると、知ったからだ。

心念住 ― 心のかたちを映す鏡

 月が昇るころ、山の庵には、静寂が降りていた。アーナンダは、薄衣を肩に掛け、今夜もひとり、坐に入った。

 「身を観じ、受を観じて、最後に残るもの。それが“心”である」と、師は語った。

 「心念住とは、今この瞬間、いかなる心があるかを知ること。貪りがあるか、怒りがあるか、迷いがあるか。あるいは、それが去ったのか。それを知り、見抜き、離れていくこと」

 アーナンダは、呼吸とともに心を澄ませていく。すると、突如――

 ひとつの記憶が浮かび上がった。

 それは、かつて仲間の修行僧と些細な言い合いをした日のこと。相手の言葉が、どうしても許せなかった。彼の中に、怒りがふつふつと沸いた。

 そして今、瞑想の中でもなお、その怒りの「残り香」が微かに蘇ってくるのを感じた。

 (怒り……)

 彼は、その心を見つめた。

 怒りとは、火のようなものだ。心を焼き、理を失わせる。だがその火も、ただ心に生じた一つの現象にすぎない。真実の“我”ではない。

 アーナンダはさらに心を沈めた。

 すると今度は、静かな慈しみが湧き上がってくる。あのとき、自分もまた苦しかった。相手もまた迷いの只中にいた。――それを赦す心。

 (これも、また心)

 欲する心、怒る心、信じる心、疑う心――どれもが、現れては消える。流れる雲のように。

 それを「私」と呼ぶなら、「私」は刻々と形を変え、定まることがない。

 (では、“私”とは何なのか?)

 アーナンダは、その問いを胸に置いたまま、ただ心を観じ続けた。

 今、この瞬間、自分の心は穏やかか、動揺しているか。眠気はあるか、喜びはあるか。ありのままに、それを映し出す“心の鏡”を、自らの内に据える。

 すると彼の内なる空間に、透明な静けさが生まれた。

 心とは、無限の姿を取りながら、空に浮かぶ雲のように、来ては去り、現れては消える。

 それを知ったとき、アーナンダの中に、柔らかな微笑が芽生えた。

 もはや、怒りや欲に巻き込まれる必要はなかった。

 なぜなら――彼は、それらが「ただの心の状態」であると、知ったからだ。

第四章 法念住 ― 真理に目覚めるまなざし

 森の夜は、深く、静かであった。
アーナンダは、灯明も持たずに、木の根元に坐った。目を閉じ、ただ己の呼吸と共にある。

 この夜、彼は、ある問いを胸にしていた。

 (苦しみの根は、どこにあるのか?)

 思い返せば、さまざまな「感情」「思考」「記憶」が、彼を悩ませてきた。だが、それらは単なる現象ではなかったか? なぜ、人は現象に巻き込まれ、迷い、煩悩にとらわれるのか?

 その答えを、師はこう語っていた。

 > 「アーナンダよ、汝は“法”を観ずして、ただ感情に揺れるばかりではないか。心に生じるもの、すべては“因と縁”によって生じる。
> それを見よ――すなわち“十二因縁”の観察である。
> 無明あれば、行あり。行あれば、識あり。識より名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死……」

 アーナンダは、師の言葉を胸に、その因縁の連鎖を観ていった。

 ――無明。
(知らぬこと、気づかぬこと。真理を見ないまま生きること)
――行。
(無明から出た衝動、業の積み重ね)
――識。
(意識が生まれ、世界と自我が目覚める)

 ……と連鎖は続き、やがて「老い」「死」へと至る。

 (このすべてが、苦の流れ。だが、その根源は、“無明”にあったのか……)

 アーナンダの心は、少しずつ沈み込んでいった。

 彼はまた、五蘊にも思いを馳せた。
色・受・想・行・識――すなわち、肉体、感覚、認識、意思、意識。

 (これが「わたし」だと思ってきたものは、すべて集まりでしかなかった……)

 彼は、自らの心身を、「自己」としてではなく、「法」として見始めた。

 喜びも、怒りも、肉体の疲労も、思い出も――すべては因縁によって一時的に現れた、無常の現象であった。
それらを掴んで「これは私」と思うことが、苦のはじまりだったのだ。

 彼の心は、深い沈黙のなかで、透き通っていった。
――すべてのものは、縁により生じ、縁により滅す。
――それが、「法(ダンマ)」である。

 アーナンダは、静かに息を吐いた。
彼の内なる目は、ついに「真理の流れ」を見つめはじめたのだった。

 煩悩は、ただ現れては消える泡。
「我」は、それに名前を与えていたに過ぎない。

 ――これが、法念住。

 四念住の最後にして、智慧の扉が開く一歩手前の、最も深い観照。

 夜が明け、東の空が白みはじめていた。
アーナンダのまなざしには、もはや揺らぎがなかった。

彼の眼差しは、まるで大地の奥深くにまで届くかのように、揺るがぬ静寂を湛えていた。

 森の木々は朝露に濡れ、小鳥たちのさえずりが、新たな一日を告げている。だが、アーナンダの内には、もはや「日常」はなかった。

 彼は、見る者となった――
生と死のはざまに現れては消える、すべての現象の背後に流れる「法」を。

 彼は、知る者となった――
この身も心も、「私」の所有物ではなく、ただ因と縁によって構成された無常の流れにすぎぬということを。

 そして今、彼は、手放す者となった

 「執着なきまなざし」こそが、真理を映す鏡であることを知ったからだ。

 雨が止んだあの夕べの静けさ。
月が照らした庵の夜の深み。
そして、今、朝日が森を照らすこの瞬間。

 三つの時を経て、アーナンダの心は、一つの円環を描いた。

 身を観じ、受を観じ、心を観じ、法を観じる――
それは、まるで四弦の琴が調和して一つの旋律を奏でるような、静かで力強い悟りへの道。

 このとき、アーナンダの唇に、かすかな微笑が浮かんでいた。

 それは、歓喜でもなく、誇りでもなく、ただ「あるがまま」のすべてを受け入れた者にのみ訪れる、深奥の微笑みだった。

 ――これが、「四念住」。
それは悟りへと至る、最も真っ直ぐな観照の道。

 物語は、ここでいったん幕を閉じる。
だが、観る者の歩みは、これからも続いていく。
なぜなら、真理はいつも、「今ここ」に在るのだから――

囁きの影 Whispering Shadows

 

囁きの影 Whispering Shadows

闇より響く 誰かの声が
沈む心に 疑いを植える
進んだ道が 本物かと
影は笑う 内なる鏡

信じた光が 揺らぐ夜にも
胸の灯火は 消させはしない
囁く影よ 試すがいい
これは覚醒の はじまりだから

A voice from the dark, calling my name
Planting doubt deep in a heart once tame
“Is the path you walk truly your own?”
The shadow laughs in the mirror alone

Even if the light I trust starts to sway
This flame in my chest won’t fade away
Whispering shadow, come test my soul
This is the start of becoming whole