『黒き神、福を招く ― 現代に現れる黒き神』
時は流れ、世界は変わった。
だが人の心は、昔とそれほど変わってはいない。
祈りは絶え、欲は増し、恐れは静かに心の奥で育っている。
東京の片隅、コンクリートに囲まれた雑居ビルの屋上。
そこに、ひとつの祠(ほこら)がある。
いつ建てられたのかもわからぬ小さな石の社(やしろ)。
通りすがる者は気にも留めないが、じっと目を凝らせば、その奥に何かが「いる」のがわかる。
ある夜のこと――
風のない夜に、街の灯りが一瞬だけすべて消えた。
闇の中、誰にも見えぬはずのその祠の前に、ひとりの青年が立っていた。
名前は神田 清志(かんだ きよし)。
派遣の仕事を転々とし、生活の疲れにまみれ、人生に問いを持てずにいた若者だった。
その夜、なぜか彼は足が向いたのだ。
気がつけば屋上にいて、祠の前に立ち尽くしていた。
「……何か、いるのか?」
彼がつぶやいたとき、祠の中から、低く響く声が届いた。
「呼ばれたか……それとも、導かれたか……」
青年は息を呑んだ。
誰もいないはずの場所で、誰かの声が確かに聴こえたのだ。
そして次の瞬間、漆黒の影が祠から立ち上がった。
夜の闇よりなお黒く、だがその中に光を宿した存在。
巨大な姿ではなかった。
むしろ人のように、ふつうの男のように見えた。
だが、その瞳には「時」が宿っていた。
「お前は……誰だ……」
青年が震えながら問うと、その男は答えた。
「我が名は、マハーカーラ。
だが、今の世では……大黒天と呼ばれている」
青年は目を見開いた。
大黒様? あの、笑ってる福の神様?
だが目の前の存在は、笑ってなどいない。
その黒き眼差しは、すべてを見透かしていた。
過去も、未来も、嘘も、弱さも、そして……希望も。
「……なぜ、今の時代に?」
そう問いかける青年に、大黒天はゆっくりと語る。
「福とは、与えられるものではない。
福とは、失われ、壊れ、なお再び立ち上がる力そのもの。
今の人々は、“壊れること”を恐れすぎている。
それゆえ、真の再生に至れぬ。
我はそれを……変えに来た」
都市の空に、黒い雲が流れた。
だがその中心から、一筋の光が差し込む。
そのとき青年の胸に、なにか熱いものが灯る。
「……僕にも、できるのか。変わることが」
大黒天は、初めて微笑んだ。
かつて戦神の顔に浮かんだことのなかった、静かで温かな微笑みだった。
「お前の中にも、“時”はある。
壊れてなお、歩む力がある。
小槌は、我がものにあらず。
それを振るうのは、お前自身だ」
青年の足元に、小さな木槌が現れていた。
それはただの木片にしか見えなかったが、彼が手に取った瞬間――
彼の心に、「何を変えるべきか」がはっきりと浮かび上がった。
仕事。家族。人とのつながり。
そして、自分自身。
「わかった……俺が、俺の“福”を打ち出す」
そう言ったとき、彼の背に光が差した。
大黒天は、静かにうなずいた。
その姿は、すでに霧のなかに溶けかけていた。
「忘れるな。壊れてよい。壊すことで、再び生まれよ。
真の福とは、生き直すことだ」
そして祠の奥には、再び静けさが戻った。
青年は祠に一礼し、ゆっくりと階段を降りていった。
彼の背にはもう、迷いはなかった。
都市の喧騒に、ひとつの神が息を潜める。
福の神として、人知れず現代の「再生者(リジェネレーター)」を見守っている。
大黒天の微笑みは、今日も祠の奥で灯っている。
第二章:「壊すべきもの」― 過去と向き合う青年
東京の街は、いつものように忙しく騒がしかった。
だが、その喧噪の中を歩く神田清志の心には、不思議な静けさが広がっていた。
あの夜のこと――
ビルの屋上の祠で、大黒天と名乗る黒き神に出会ったことは、夢のようにも思えた。
だが、あの木槌は確かに手の中にあったし、胸の奥には、言葉では言い表せぬ熱が残っている。
「小槌を振るうのは、お前自身だ」
その言葉が、何度も脳裏に響く。
だが、振るうべき「対象」がわからない。
福とは何か。
再生とはなにか。
それ以前に、自分が「壊すべきもの」とは何なのか。
清志は、無意識のうちに向かっていた。
もう何年も会っていない、故郷の街へ。
駅前の商店街。シャッターが下りたままの店。
その奥に、ひとつだけ営業している小さな中華屋があった。
「……まだ、あるんだな」
それは、彼の父が昔通っていた店だった。
父は厳しく、無口な人だった。
言葉をかけられた記憶よりも、怒鳴られた記憶のほうが鮮明だ。
母は早くに病で亡くなり、父は酒に逃げるようになった。
高校を出る頃には、家は崩壊していた。
清志は逃げるように家を出て、そのまま都会に沈んでいった。
駅前のベンチに座りながら、清志は胸の奥に沈んでいた塊に触れる。
怒り。恨み。悲しみ。そして、後悔。
――壊したいのは、自分の過去か。
――それとも、そこにすがってきた“弱さ”か。
そのとき、風が吹いた。
ポケットの中の小槌が、わずかに震えた。
その震えに導かれるように、清志はふと立ち上がる。
向かったのは、古びた団地の一室。
もう誰も住んでいないはずの、彼の実家だった。
扉の前に立つと、懐かしい埃の匂いが鼻をついた。
「……終わらせなきゃな、ちゃんと」
心の中でつぶやき、小さな木槌を取り出す。
ただの木片にしか見えないその槌を、彼は玄関の空気に向けて静かに振るった。
――カン。
音はしなかった。
だが、何かが“壊れた”。
ずっと心にこびりついていた、過去の闇が、剥がれ落ちていくような感覚。
涙は出なかった。
ただ、肩の力が抜けた。
「ありがとう……そして、さよなら」
それだけ言って、彼は背を向けた。
もう振り返ることはなかった。
壊すべきものは、過去の記憶そのものではなかった。
それに囚われ続けてきた、自分自身の執着だったのだ。
第三章:「小槌の意味」― 再生への選択
東京へ戻る電車の中で、清志はふと思った。
「この小槌って……一体、なんなんだ?」
手のひらに乗せると、それはただの木片のようだ。
けれど、振ればたしかに「何か」が起こる。
目に見えないが、確かに感じられる変化。
それは、外の世界を変える力ではない。
内側を変える、目覚めの契機だ。
車窓に映る自分の顔が、少しだけ変わって見えた。
暗さの奥に、何か光が宿っているような――そんな錯覚。
自宅のアパートに戻った清志は、小槌を机に置いた。
そして、ふと思いつきでSNSを開いた。
通知が一件、届いていた。
昔の友人からだった。
「今度、地元の子ども食堂を始めるんだけど、手伝ってくれないか?」
清志はしばらく画面を見つめていた。
迷いがあった。自分にそんなことができるのか、と。
でも、あの神は言っていた。
「お前の中にも、“時”はある。
壊れてなお、歩む力がある」
清志はゆっくりと小槌を握り、もう一度、静かに振ってみた。
こんどは――「何も壊れなかった」。
代わりに、何かが「生まれた」。
それは、誰かとつながってみようという勇気。
過去ではなく、未来を見てみようという意志。
彼はスマホを手に取り、返信を打った。
「やってみる。自分に何ができるか、知りたい」
木槌は、静かに光を灯した。
それは、笑う神のまなざしと、マハーカーラの沈黙が交差する、小さな奇跡の光だった。