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仏教

《五蘊の道》  雑阿含経・応説経 The Path of the Five Aggregates 

《五蘊の道》  雑阿含経・応説経
The Path of the Five Aggregates

乾いた風が 過去をなぞる
草の匂いに 記憶が揺れる
問いを抱いて 丘に立つとき
静かに光る 仏の声

ナウマク・サマンダ・ボダナン・バク
Naumak Samanda Bodhanan Bak

 

これは色、これは受──五つの影よ
無常を観じて 我を捨てゆけ
煩悩の岸を 越える舟とは
ただ願うだけじゃ 進まない

ナウマク・サマンダ・ボダナン・バク
Naumak Samanda Bodhanan Bak

A dry wind traces the lines of the past,
Scent of grass stirs memories vast.
With questions held, I stand on this hill—
The Buddha’s voice speaks calm and still.

Naumak Samanda Bodhanan Bak
Naumak Samanda Bodhanan Bak

〈Chorus〉
This is form, this is feeling—five shadows appear,
See their impermanence, let go of the “me” here.
To cross the shore where craving ends,
You need more than hope—it’s the path that mends.

Naumak Samanda Bodhanan Bak
Naumak Samanda Bodhanan Bak

 

 

雑阿含経・応説経

雑阿含経・応説経

如是我聞。一時仏住拘留国雑色牧牛聚落。爾時仏告諸比丘。

我以

知見故。得諸漏尽。非不知見。云何以知見故。得諸漏尽。非

不知

見。謂此色此色集此色滅。此受想行識。此識集此識滅。不修方便

随顺成就。而用心求令我諸漏尽心得解脱。当知彼比丘終不能得漏

尽解脱。所以者何。不修習故。不修習何等。謂不修習念処正勤如

意足根力党道。譬如伏鶏生子衆多。不能随時蔭餾消息冷暖。而欲

令子以特以爪啄卵自生安穩出殼。当知彼子無有自力堪能方便以烤

以爪安穩出殼。所以者何。以彼鶏母不能随時蔭餾冷暖長養子故。

如是比丘。不勤修習随順成就。而欲令得漏尽解脱。無有是处。所

以者何。不修習故。不修何等。謂不修念処正勤如意足根力覚道。

若比丘修習随順成就者。雖不欲令漏尽解脱。

而彼比丘自然漏尽。

心得解脱。所以者何。以修習故。何所修習。 正復不欲令

謂修念処正勤如意足

如彼伏鷄善養其子。随時蔭餾。冷暖得所

子方便自啄卵出。然其諸子自能方便安穩出殼。 鶏随時蔭餾冷暖得所故。如是比丘。善修方便。

所以者何。

以彼伏

而彼比丘自然漏尽。心得解脱。所以者何。以勤修習故。

正復不欲漏尽解脱。

何所修習。

謂修念処正勤如意足根力覚道。

譬如巧師巧師弟子。

手執斧柯。捉

之不已。漸漸微尽手指

処現。然彼不覚斧柯微尽而尽処現。

如是比

丘。精勤修習随順成就 。不自知見今日爾所漏尽。

然彼比丘。知有漏尽。

所以者何。以修習故。何所修習。

謂修習念

明日爾所漏尽。

処正勤如意足根力覚道。譬如大舶在於海辺。

藤綴漸断。如是比丘。精勤修習。

随順成就。

経夏六月風飄日暴。

漸得解脱。所以者何。

善修習故。

何所修習。

一切結縛使煩悩纏。

謂修習念処正勤如意

不起諸漏。

足根力覚道。說是法時六十比丘。 已。諸比丘聞仏所說。歓喜奉行

心得解脱。仏説此経

 

現代語訳

「いろいろな方法を駆使して修行を行っても成就しない者が、もろもろの煩悩が尽き、心に解脫を得たいと思っても、あの僧侶(修行者)たちは、ついに漏尽解脱を得ることはできません。

それはなぜでしょうか?

修行していないからです。

なにを修行していないのでしょうか?

それは、いわゆる四念処法(四念処む)・四正勤法(四正断法)・四如意足法(四神足法)・五根

街・五力法・七覚支法・八正道を修行していないのです」

解説

ここは、『応説経』の中でも特に重要なことが、説かれているところです。

たいへんなことが書かれているわけですが、諸君はそれに気づいたでしょうか?

漏尽解脱とは、漏(煩悩)がすべて尽きた状態ですから、完全解脱、つまり成仏したということです。その完全成仏を心から願って修行しているのに、それができない僧侶たちがいる、とお釈迦さまがおっしゃっておられるわけです。これは大問題です。

なぜ、その僧侶たちは成仏できないのか? それは、四念処法・四正動法・四如意足法・五根法・五力法・七覚支法・八正道を修行しないからだ、とお釈迦さまは説かれているわけです。

す。

この四念処法・四正動法・四如意足法・五根法・五力法・七覚支法・八正道というのが、わたくしがいつもお話ししているお釈迦さまの成仏法、「七秒三下、七道品」です。わたくしはこれを、 成仏のための七つの科目(システム)、三十七の修行法(カリキュラム)であると申し上げております。念処・正勤・如意足・根・力・覚・道で七科目。そして、それぞれが四・四・四・五・ 五・七・八からなる修行によって成り立っておりますから、全部を合わせて三十七になるわけで

お釈迦さまは、この修行を行わない者はたとえそれが僧侶であっても、その人がどのように成仏を望んでも、絶対に成仏することはできない、とおっしゃっています。

 

 

「彼の比丘はついに成仏することがで

と、おっしゃっておられます。「彼比丘」というこの三文字の中に、日本の大乗仏教の僧侶が全部入っているわけです。きっと、「阿含経」以外のお経を信仰し、それを広める僧侶たちが出現することを、予見しておられたのでしょう。

ですから、このお釈迦さまのお言葉に基づいて、

「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは誰一人として、成仏していない」

と説いているのです。

 

 

雑阿含経・応説経

 

雑阿含経・応説経

如是我聞。一時仏住拘留国雑色牧牛聚落。爾時仏告諸比丘。

我以

知見故。得諸漏尽。非不知見。云何以知見故。得諸漏尽。非

不知

見。謂此色此色集此色滅。此受想行識。此識集此識滅。不修方便

随顺成就。而用心求令我諸漏尽心得解脱。当知彼比丘終不能得漏

尽解脱。所以者何。不修習故。不修習何等。謂不修習念処正勤如

意足根力党道。譬如伏鶏生子衆多。不能随時蔭餾消息冷暖。而欲

令子以特以爪啄卵自生安穩出殼。当知彼子無有自力堪能方便以烤

以爪安穩出殼。所以者何。以彼鶏母不能随時蔭餾冷暖長養子故。

如是比丘。不勤修習随順成就。而欲令得漏尽解脱。無有是处。所

以者何。不修習故。不修何等。謂不修念処正勤如意足根力覚道。

若比丘修習随順成就者。雖不欲令漏尽解脱。

而彼比丘自然漏尽。

心得解脱。所以者何。以修習故。何所修習。 正復不欲令

謂修念処正勤如意足

如彼伏鷄善養其子。随時蔭餾。冷暖得所

子方便自啄卵出。然其諸子自能方便安穩出殼。 鶏随時蔭餾冷暖得所故。如是比丘。善修方便。

所以者何。

以彼伏

而彼比丘自然漏尽。心得解脱。所以者何。以勤修習故。

正復不欲漏尽解脱。

何所修習。

謂修念処正勤如意足根力覚道。

譬如巧師巧師弟子。

手執斧柯。捉

之不已。漸漸微尽手指

処現。然彼不覚斧柯微尽而尽処現。

如是比

丘。精勤修習随順成就 。不自知見今日爾所漏尽。

然彼比丘。知有漏尽。

所以者何。以修習故。何所修習。

謂修習念

明日爾所漏尽。

処正勤如意足根力覚道。譬如大舶在於海辺。

藤綴漸断。如是比丘。精勤修習。

随順成就。

経夏六月風飄日暴。

漸得解脱。所以者何。

善修習故。

何所修習。

一切結縛使煩悩纏。

謂修習念処正勤如意

不起諸漏。

足根力覚道。說是法時六十比丘。 已。諸比丘聞仏所說。歓喜奉行

心得解脱。仏説此経

 

 

『五蘊の道──応説の丘にて』

乾いた風が、草の匂いを運んでくる。そこは、拘留国の片隅、雑色牧牛聚落と呼ばれる静かな村だった。

丘の上に、ひとりの修行者が佇んでいた。彼の名はアーナンダ。だがその日、彼は弟子ではなく、ただの問いを持つ人間として、仏陀の前に座っていた。

夕暮れが差し始めると、仏陀は緩やかに口を開いた。

「アーナンダよ、わたしは知見によって、もろもろの煩悩を滅した。不知見によってではない。」

その声は、風に乗って村の方へ流れていく。仏陀は地面を指差しながら、続ける。

「これが“色”である。これが“色の集まり”であり、これが“色の滅”である。同じく、これは受、想、行、識。これら五つの集まり、すなわち五蘊(ごうん)を、わたしは智慧の光で照らし出した。」

アーナンダの瞳が揺れる。五蘊──色、受、想、行、識。それは彼自身を構成するもの、だが未だ見抜かれていない影のようなものでもあった。

仏陀は語る。

「五蘊はすべて無常であり、空であり、我ならざるもの。わたしはその真実を、観想によって見極めた。だからこそ、漏(ろう)──煩悩の漏れ口をふさぎ、解脱を得たのだ。」

しばしの沈黙が訪れた。空が赤く染まり、遠くで牛の鳴き声がした。

やがて、仏陀の声が再び響く。

「だが、ある者たちはこの道を歩めぬ。方便──正しい手段を修せず、ただ“解脱したい”と心で願うのみ。そうして彼らは、いつまでも漏尽解脱を得ることができない。」

アーナンダは口を開く。

「なぜでしょうか、世尊。なぜ彼らは成就できないのですか?」

仏陀は静かに答える。

「それは修行しないからである。四念処(身・受・心・法を観る)、四正断、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道──これらを習わずして、ただ願うだけでは、悟りの岸へは至らぬ。」

風が吹き、仏陀の法衣がわずかに揺れた。

アーナンダは目を閉じた。その瞬間、彼の中で何かが音を立てて崩れ、そして静かに組み替わるのを感じた。煩悩とは、どこか遠くの話ではなく、まさにこの己の心のことだ。ならば、自らを知るよりほかに、道はない。

「世尊。わたしもまた、五蘊を観じていきます。」

仏陀は微笑んだ。それは、夕陽よりも柔らかく、そして強い光だった。

 

『五蘊の道──観の始まり』

夜が訪れた。丘の上の林は静まり返り、風の音だけが葉を揺らしていた。アーナンダは一人、蓮華座の姿勢で座していた。

師の語った「色、受、想、行、識」の五つの言葉が、何度も胸の内を往来する。

「これは色である──」

彼はまず、身体の感覚に意識を向けた。膝の痛み、風に当たる頬の冷たさ、腹の内側を流れる微細な熱。すべてが「現れては消える」現象である。

──これは常なるものではない。
──これは変わる。
──これは、我にあらず。

そのとき、ふと心が騒ぎ出した。過去の記憶がひとつ、浮かんできた。

昔、ある修行者の死に立ち会ったときの記憶。彼はアーナンダに微笑みながら、こう言った。

「死は怖くない。ただ、自分が“これだ”と思っていたものが、何も残らないと気づくのが、寂しいだけだ。」

アーナンダは思う。自分もまた、色に、形に、立場に、そして“私”という名前に、縋っていたのではないか。

「これは受である──」

心に訪れる“感じ”。夜の冷たさに不安を覚え、風の音に寂しさを見出すのは、受である。それもまた、来ては去る波のようなもの。

「これは想である──」

彼は、今座している“自分”の姿を心に描いた。静かな修行者、弟子としての自分。けれどその像もまた、心が作り出すイメージであり、絶えず変わっていく幻にすぎない。

「これは行である──」

意志が動く。悟りたい、成し遂げたい、正しい弟子でありたい。だがそれもまた、“求める意志”が生み出す執着ではないか?

「これは識である──」

最後に、すべてを“認識”するこの意識。それこそが「自分」だと思っていた。だが、仏陀は言った。

「識もまた、無常なり。」

そのときだった。胸の奥で、何かがふっと消えた気がした。静かに、なにか“つかんでいたもの”がほどける。

──“私”とは何か。
──“見ている私”さえもまた、変化し、滅するのではないか?

それは恐れでもあったが、同時に不思議な安らぎでもあった。広大な虚空の中で、初めて呼吸をしたような、そんな感覚。

目を閉じると、そこに「風」があった。耳を澄ませば、「音」があった。ただそれだけ。だが、そこに余計な“自我”はなかった。

アーナンダの目に、一筋の涙が流れた。

それは悲しみでもなく、喜びでもない。ただ、「今、ここに在る」という事実への、深い頷きだった。

彼はまだ悟ってはいない。だが、歩みは始まった。

五蘊のひとつひとつを、真に「見る」こと。その果てに、師が語った“漏尽の境地”が、確かに存在する。

遠くの空に、夜明けの光が差し始めていた。

『五蘊の道 第二章──四念処の風』

朝が来た。
薄明の空に鳥の声が響くなか、アーナンダはゆっくりと目を開けた。昨夜の瞑想で感じた「気づき」は、まだ心の内に静かに燃えている。

だが──それだけでは足りない。
師は言った。**「観るだけでは終わらぬ。修し続けよ」と。
そして仏陀が示した、次なる道は「四念処」**であった。

第一の観──身念処(身体の観)

小川のほとりで、アーナンダは呼吸に意識を集中していた。

「息を吸う、私はそれを知る。息を吐く、私はそれを知る。」

息が長い、短い、浅い、深い……それらをただ「知る」。
身体は“我”ではない。
だが、執着の根は深い。ある瞬間、ふいに膝の痛みが走った。

「この痛みは、色(しき)の現象である」と彼は唱える。
そこに、怖れや不満を混ぜない。
ただあるがまま、ただ観る。
そのとき、痛みは“敵”ではなく、“訪れた客”のように感じられた。

第二の観──受念処(感受の観)

修行中、若い沙弥が失敗して器を割ってしまった。
周囲の僧たちの眉がわずかに動いた。

アーナンダも、胸の内に一瞬「苛立ち」が生じた。

「これは“受”だ。外の出来事に応じて、心に生まれる感覚。」

彼はその感情を押し殺すのではなく、正面から観た。
すると、苛立ちは“燃え盛る火”ではなく、ただの“一陣の風”のように過ぎ去った。

「受は我にあらず。来たりて去る。」

第三の観──心念処(心の状態の観)

ある晩、アーナンダの中に“孤独”の影がよぎった。

「自分だけが、まだ悟っていない。まだ遠い。」

彼はその思いを握りしめそうになりながらも、そっと心の内を見つめた。

──これは焦り。
──これは劣等感。
──これは、欲。

「今の心は乱れている。しかし、その乱れすら観じる心は、静かにある。」

そう気づいたとき、不思議なことに、内側の暗さが少しだけほどけていった。

第四の観──法念処(法の理を観る)

最後に彼は、あらゆる現象──色、受、想、行、識、そして感情、思考、身体、言葉の動き──すべてを貫く「無常・苦・無我」の法則を、ひとつずつ観じていった。

「これは起こり、これが続き、そして滅する。」
「これもまた、法である。」

そのとき、師の言葉がよみがえる。

「法を観る者は、わたしを見る。」

アーナンダは、ひとつの確信を得た。
この四念処の修行は、自らをほどき、解き放つ道であると。

八正道の兆しへ

夜、仏陀の前に立ったアーナンダは、深く合掌した。

「世尊。私はいま、ようやく“観ること”の始まりに立ちました。
けれど、私は“行うこと”──すなわち正しい言葉、正しい行い、正しい精進を、まだ学ばねばなりません。」

仏陀はうなずき、穏やかに言った。

「では、次に八正道に進むがよい。
それは、観(慧)・行(戒)・定(禅)をすべて含む、真なる道である。」

アーナンダは微笑んだ。

「はい。わたしは歩きます。観て、行い、そして坐る道を。」

星のきらめきが、彼の頭上にひとつ、流れていった。

『五蘊の道 第三章──八正道の歩み』

その日、アーナンダは、一本の道を歩いていた。
それは地上の道であり、同時に、心の中に敷かれた道でもあった。仏陀が説いた八正道──それは、ただ知識として学ぶものではない。生き方そのものの中に、仏の智慧を息づかせる歩みだった。

彼は一歩ずつ、八つの柱を胸に刻んでいった。

一、正見──ありのままを見る智慧

「これは“苦”である。」

アーナンダは、自らの内にある“求める心”を見つめた。悟りたい、認められたい、役に立ちたい──それらすべてが、苦の根であると気づく。

「これは“集”である。求める心が、苦を呼ぶ。」

そして仏陀の教えがよぎる。

「苦の原因を知り、苦の終滅を知ること。それが正見である。」

悟りとは、「苦を消すこと」ではなく、「苦のしくみを知ること」──アーナンダは、眼を開くような静かな驚きに包まれた。

二、正思惟──慈悲の思いを持つこと

あるとき、老いた修行者が、托鉢の器を落とした。
周囲の若僧たちは、笑いをこらえた。

アーナンダは静かに器を拾い、老僧に手渡した。
そのとき、彼の心に浮かんだのは、軽蔑でも哀れみでもなかった。

「願わくば、すべての者に安らぎを。」

それが正思惟。すべての命に対して、怒らず、害さず、慈しむ心。

三、正語──真実と調和の言葉

寺院での会話。誰かが僧の欠点をささやいていた。

アーナンダは、それに加わらなかった。ただ、ひとことだけ言った。

「それでも、彼は日々、坐っている。」

言葉は刀にもなり、灯火にもなる。
正語とは、誠実に、やさしく、無益な言葉を慎むこと。

沈黙さえ、慈しみに満ちていることがある。

四、正業──害をなさぬ行い

夜、寺の門の外に、飢えた野良犬がいた。
アーナンダは残っていた飯を布に包み、そっと置いた。

「この行為に、報いを求めぬ。」

それが正業。戒を守るだけではなく、動機に清らかさを込めること。

五、正命──命の支えを清らかに

師のそばで、アーナンダはいつも「聞く」ことを選んだ。
弟子のなかには、名声を得ようと経文を誇る者もいたが、アーナンダは静かだった。

「わたしの命は、法に支えられている。」

それが正命。欲や名誉によってではなく、法(ダルマ)に生きること。

六、正精進──怠らず、ただ一歩

アーナンダは、眠気の襲う夜に、火のような誓いを胸に灯した。

「善を育み、悪をやめ、心を澄ませよ。」

それが正精進。励みは、炎ではなく、灯火のように持続するものだった。

七、正念──今を知る、すべてを観る

托鉢の途中、アーナンダは子どもが泣くのを見た。
足を止め、風の中の草の揺れに目を向け、心をそこに置いた。

「いま、ここにある。」

それが正念。散らばる心を、いまという場に戻すこと。
歩くときは歩き、食べるときは食べる。それが法に生きる姿。

八、正定──澄んだ水のように坐る

夜、坐禅堂でアーナンダは静かに坐していた。
五蘊を観じ、四念処を観じ、やがて呼吸も、時間さえも消えていった。

ただ、「ある」だけ。
それは、渇望も恐れもない、透明な覚醒だった。

「これが、正定──心の静寂、智慧の泉。」

小さな悟りの灯火

アーナンダは、八正道を“歩いた”のではない。
それは、生き方そのものが、道となっていったのだった。

師の言葉が再び胸に蘇る。

「道を歩む者こそ、すでに仏に近づく。」

そしてその夜、彼ははっきりと感じた。
自分の中の“漏(ろう)”が、少しずつ、静かに尽きていくのを。

まだ成仏してはいない。だが、道はまっすぐに、光の方へと続いている。

 

『五蘊の道 第四章──漏尽のとき』

“漏尽”とは、煩悩の尽きた状態を言う。
それはただの「消えること」ではない。
執着が、音もなく剥がれ落ち、
心が本来の静けさに還る――
そのときを、人は「悟り」と呼ぶのかもしれない。

第一節:かつての執着と向き合う

雨の音が、伽藍の軒を打っていた。
アーナンダは一人、古い菩提樹の下に坐していた。

思い出が、静かに胸を過る。
――王舎城にいた若き日。
――釈尊の弟として、人々の期待を背負った日々。
――師のそばにいたいと願った、あの夜。

「わたしは、何を求めてきたのか…?」

それは、仏陀の影のように生きることで得られる安心だった。
“理解されたい”“必要とされたい”“役に立ちたい”──
それらは尊く見えて、実は微かな執着の残り火だった。

「アーナンダよ。執着とは、たとえ法であっても捨てねばならぬ。」
かつて師がそう語ったのを、彼は今ようやく理解した。

第二節:「空」を見つめる瞑想

その夜、アーナンダは深く坐した。

呼吸が静まり、思考がほどけていく。
五蘊を観る。色・受・想・行・識。
すべてが起こり、滅し、つかの間に漂う。

「これはわたしではない。
これはわたしのものではない。
これは、わたしそのものではない。」

その観照のなか、彼の心に浮かんだのは――「空」。

空とは、実体のなさではない。
空とは、すべてが依り合っているという、真の連関の姿。

「わたし」という固定された実体もなければ、
「悟るべき者」としての自己も、すでにない。

ただ、流れがあり、明らかさがある。
アーナンダは、自我の重みが、ふと、ほどけていくのを感じた。

第三節:師との最後の対話

夜明け前。
仏陀は最後の旅を終え、涅槃へと向かわんとしていた。
アーナンダは、傍らに跪き、そっと問いを投げた。

「世尊…。わたしは、ずっとあなたのそばにおりました。
けれど、最後まで、“真に悟った者”にはなれませんでした。」

仏陀は、微笑んで彼を見つめた。

「アーナンダよ。そなたは、わたしの法に心を浸した。
その清らかさは、もはや仏に等しい。
たとえ“悟った”と呼ばれぬとも──
すでに漏は尽きつつある。」

「漏は……尽きつつある……」

それは評価でもなく、慰めでもない。
ただ、事実の静けさとして語られた言葉だった。

アーナンダは、深く礼をし、涙をこらえた。
それは哀しみではない。
恩を知り、道を受け取った者の、静かな誓いだった。

第四節:漏尽のとき

その夜、アーナンダは再び坐した。
過去も未来も、彼の瞑想にはもう影を落とさなかった。

呼吸とともに、すべての執着が解けていく。
「我」と名づけていた、透明な繭のような何かが――
音もなく崩れていった。

そのとき、心の奥深くから、ひとつの光が差し込んだ。
それは燃え上がる炎ではない。
仄かな、**“明け方の光”**のような、静かな輝き。

アーナンダは知った。
いま、まさに「漏尽」が成ったのだと。

終章の手前で

それは悟りと呼ばれるものかもしれない。
だが、アーナンダにとって、それは「終わり」ではなかった。

彼は静かに立ち上がり、朝の光の中、托鉢の道を歩き出した。

今ここに在る。
この一歩こそが、仏の道である。

 

 

 

 

 

 

『観音の名を呼ぶ時』

『観音の名を呼ぶ時』

東京のビル街、ビジネスホテルの一室。
夜中の2時、無尽意と名乗る男はベッドの上に正座していた。
薄暗い部屋の中、ただ一つの灯だけが彼の瞳を照らしている。
彼の手には、一冊の古い仏典が開かれていた。

「世尊、観世音菩薩は何の因縁で観世音と名づけられたのでしょうか…」

彼は自らに問うように、そっと呟く。

外では、誰かが叫んでいた。
暴走族か、誰かが喧嘩しているのか。
この都市はいつも、苦と恐れで満ちている。

彼は目を閉じた。

「観音菩薩…観じて音を聞く者よ。あなたは本当に、我らの声を聞いてくださるのですか」

**

そのころ、海の向こう、インド洋を渡る貨物船の中。

ひとりの青年、スバンは小さな仏像を首にかけていた。
それは彼の祖母が「守り仏」として渡してくれたものだった。
夜、突然の嵐が船を襲い、コンテナが倒れ、甲板では怒号が響いた。

「羅刹の国にたどり着くぞ!」
誰かが冗談めかして叫んだ。

その言葉に、彼の背筋が凍る。
小さいころ、祖母が話してくれた“人を喰らう鬼の国”の伝承が脳裏をよぎった。

咄嗟に彼は、祖母に教えられた真言を唱え始めた。

「ナム カンゼオン ボサツ…ナム カンゼオン…」

その瞬間、船の揺れが不思議と静まり、突風はおさまった。
目を開けたスバンは、空に浮かぶ月と、どこか遠くから響く鈴の音を聞いた気がした。

**

東京の無尽意は、その瞬間、何かを感じた。
心の中に、無数の声が響いてくる。

「火に焼かれようとも、名を唱えれば火は触れない」
「水に流されようとも、名を唱えれば岸に至る」
「罪に縛られても、名を唱えれば解き放たれる」
「悪鬼に囲まれても、名を唱えれば害されない」

それは祈りでもあり、誓いでもあった。
仏は確かに、こう告げたのだ。

――「その音を観じて、彼は来る。観世音菩薩は、必ず来る。」

**

三日後、無尽意はある拘置所を訪れていた。
彼のかつての教え子が、無実の罪で捕まっていたのだ。
警備の目を盗んで、彼はそっと仏典の一節を書き写した紙を渡した。

「怖れるな。観音の名を唱えよ」

数週間後、裁判は一転した。
監視カメラの映像が発見され、無罪が証明された。

彼の教え子は泣きながら言った。

「牢の中で、ずっと観音様の名を唱えてました。そうしたら、夢に光の女性が現れて…」

**

その夜、無尽意はまた仏典を開いた。
そして、そっと呟いた。

「観世音とは――世の声を観じて救う者。
誰かが名を呼ぶ限り、その力は尽きることがないのだ…」

灯火のような静けさが、彼の部屋を包んだ。
都市の騒音の向こう、確かにどこかで、誰かがその名を呼んでいる。

觀世音菩薩普門品偈 

 

爾時無盡意菩薩。即從座起。偏袒右肩。合掌向佛。而作是言。世尊。觀世音菩薩以何因緣。名觀世音。佛告無盡意菩薩。善男子。若有無量百千萬億眾生。受諸苦惱。聞是觀世音菩薩。一心稱名。觀世音菩薩即時觀其音聲。皆得解脫。若有持是觀世音菩薩名者。設入大火。火不能燒。由是菩薩威神力故。若為大水所漂。稱其名號。即得淺處。若有百千萬億眾生。為求金銀琉璃。硨磲碼瑙。珊瑚琥珀。真珠等寶。入於大海。假使黑風吹其船舫。飄墮羅剎鬼國。其中若有乃至一人。稱觀世音菩薩名者。是諸人等。皆得解脫羅剎之難。以是因緣。名觀世音。若復有人臨當被害。稱觀世音菩薩名者。彼所執刀杖。尋段段壞。而得解脫。若三千大千國土。滿中夜叉羅剎欲來惱人。聞其稱觀世音菩薩名者。是諸惡鬼。尚不能以惡眼視之。況復加害。設復有人。若有罪若無罪。杻械枷鎖檢繫其身。稱觀世音菩薩名者。皆悉斷壞。即得解脫。若三千大千國土。滿中怨賊。有一商主將諸商人。齎持重寶。經過險路。其中一人作是唱言。諸善男子。勿得恐怖。汝等應當一心稱觀世音菩薩名號。是菩薩能以無畏施於眾生。汝等若稱名者。於此怨賊。當得解脫。眾商人聞。俱發聲言。南無觀世音菩薩。稱其名故。即得解脫。無盡意。觀世音菩薩摩訶薩威神之力。巍巍如是。若有眾生多於淫欲。常念恭敬觀世音菩薩。便得離欲。若多瞋恚。常念恭敬觀世音菩薩。便得離瞋。若多愚癡。常念恭敬觀世音菩薩。便得離癡。無盡意。觀世音菩薩有如是等大威神力。多所饒益。是故眾生。常應心念。若有女人。設欲求男。禮拜供養觀世音菩薩。便生福德智慧之男。設欲求女。便生端正有相之女。宿植德本。眾人愛敬。無盡意。觀世音菩薩有如是力。若有眾生。恭敬禮拜觀世音菩薩。福不唐捐。是故眾生。皆應受持觀世音菩薩名號。無盡意。若有人受持六十二億恆河沙菩薩名字。復盡形供養飲食衣服臥具醫藥。於汝意云何。是善男子善女人。功德多不。無盡意言。甚多。世尊。佛言。若復有人。受持觀世音菩薩名號。乃至一時禮拜供養。是二人福。正等無異。於百千萬億劫不可窮盡。無盡意。受持觀世音菩薩名號。得如是無量無邊福德之利。無盡意菩薩白佛言。世尊。觀世音菩薩云何遊此娑婆世界。云何而為眾生說法。方便之力。其事云何。佛告無盡意菩薩。善男子。若有國土眾生。應以佛身得度者。觀世音菩薩即現佛身而為說法。應以辟支佛身得度者。即現辟支佛身而為說法。應以聲聞身得度者。即現聲聞身而為說法。應以梵王身得度者。即現梵王身而為說法。應以帝釋身得度者。即現帝釋身而為說法。應以自在天身得度者。即現自在天身而為說法。應以大自在天身得度者。即現大自在天身而為說法。應以天大將軍身得度者。即現天大將軍身而為說法。應以毗沙門身得度者。即現毗沙門身而為說法。應以小王身得度者。即現小王身而為說法。應以長者身得度者。即現長者身而為說法。應以居士身得度者。即現居士身而為說法。應以宰官身得度者。即現宰官身而為說法。應以婆羅門身得度者。即現婆羅門身而為說法。應以比丘比丘尼。優婆塞優婆夷身得度者。即現比丘比丘尼。優婆塞優婆夷身而為說法。應以長者居士宰官婆羅門婦女身得度者。即現婦女身而為說法。應以童男童女身得度者。即現童男童女身而為說法。應以天龍。夜叉。乾闥婆。阿修羅。迦樓羅。緊那羅。摩睺羅伽。人非人等身得度者。即皆現之而為說法。應以執金剛神得度者。即現執金剛神而為說法。無盡意。是觀世音菩薩成就如是功德。以種種形遊諸國土。度脫眾生。是故汝等。應當一心供養觀世音菩薩。是觀世音菩薩摩訶薩。於怖畏急難之中。能施無畏。是故此娑婆世界。皆號之為施無畏者。無盡意菩薩白佛言。世尊。我今當供養觀世音菩薩。即解頸眾寶珠瓔珞。價值百千兩金。而以與之。作是言。仁者受此法施珍寶瓔珞。時觀世音菩薩不肯受之。無盡意復白觀世音菩薩言。仁者。愍我等故。受此瓔珞。爾時佛告觀世音菩薩。當愍此無盡意菩薩。及四眾。天龍。夜叉。乾闥婆。阿修羅。迦樓羅。緊那羅。摩睺羅伽。人非人等故。受是瓔珞。即時觀世音菩薩愍諸四眾。及於天龍人非人等。受其瓔珞。分作二分。一分奉釋迦牟尼佛。一分奉多寶佛塔。無盡意。觀世音菩薩有如是自在神力。遊於娑婆世界。爾時無盡意菩薩。以偈問曰。

觀世音菩薩普門品偈 現代語訳

 

その時に,無尽意菩薩は、すぐに座から立ち上って、右の肩をあらわにして,

ひたすら合掌して、仏に向かって、このように言った。

世尊、観世音菩薩は何の因縁によって、観世音と名づけるのですか。

仏は、無尽意菩薩にお告げになった。

仏法に帰依した男子よ。もしも、無量百千万億の生命のあるものすべてが、諸々の苦悩を受けているならば、

この観世音菩薩の名を聞いて、一心に名を唱えれば、観世音菩産は、即時にその音声を観じて、

皆、悩みや迷いなど煩悩の束縛から解き放ち自由の境地に到達することを得させるであろう。

この観世音菩薩の名を銘記して忘れない者は、たとえ大火に入ったとしても、火も焼くことは出来ない。

この悟りを求める修行者の霊妙不可思議な力による故に、

もしも、大水に流され漂わされても、その名号を唱えたならば、すぐに浅い所を得るであろう。

もしも、百千万億の生命のあるものすべてが、金・銀・ラピスラズリ・シャコガイ・メノウ・珊瑚・琥珀・真珠等の宝を求めて大海に乗り出し、

たとえば、暴風がその船を吹いて、大力で足が速く人を食うといわれる羅刹鬼の国に標着したとしよう。

その中で、もしも、一人でも観世音菩薩の名を唱えたならば、この諸々の人々は皆、羅刹鬼の難から逃れることを得るだろう。

この因縁によって、観世音と名づけるのである。

もしも、また人が、当然害を及ぼされるであろう時に直面して、観世音菩薩の名を唱えたならば、

彼の振られた刀や杖が、ずたずたに折れて、難から逃れることを得るだろう。

もしも、三千大千国土の中に充満している夜叉や羅刹がやって来て、人を苦しめようとするときに、

その観世音菩薩の名を唱えるのを聞いたら、

この諸々の悪鬼は、凶悪な目によってこれを見る事ができなくなるであろう。まして害を加えることなどできない。

もしも、また人が、若しくは罪があり、若しくは罪がないのに、鎖、手かせ、罪人をつなぐのに用いる刑具にその身をつながれたとしよう。

観世音菩薩の名を唱えたなら、全てことごとく断たれ壊れて、そして、難から逃れることを得るだろう。

もしも、三千大千国土の中に、他人に危害を加えたり他人の財物を奪ったりする者が充満していて、一人の商主が、諸々の商人達を率いて、重宝を持ってけわしい道を通り過ぎるとしよう。

その中の一人が、この唱える言葉を唱えた。

「諸々の仏法に帰依した男子よ。怖れる事はない。

おまえたちは、当然一心に観世音菩薩の名を唱えるべきである。