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仏教

日輪の中心にて――大日如来への旅

日輪の中心にて――大日如来への旅

光を求めて、山へ

 

風が凪(な)ぎ、杉の枝がわずかに揺れていた。
苔むした山道を、一人の青年が登ってゆく。名を**蓮明(れんみょう)**という。まだ二十五の春を迎えたばかり、寺に入って七年目の修行僧だ。

「大日如来……宇宙の中心……か」

その名を初めて耳にしたのは、学寮での講義だった。
密教とは何か、曼荼羅とは何を描いているのか。どの教義にも必ず現れるその名、「大日如来」。だが、どの教本も「すべての仏の根源」「宇宙そのもの」としか書かれていない。

“仏が仏の根源とは、いったいどういうことなのか?”

以来、蓮明の胸にその問いが根を張った。
「言葉では語れない真理」があるならば、自らその“奥”に触れてみたい。そう思った。

導かれるように彼がやってきたのは、深山にひっそりと在る密教寺院、光輪寺(こうりんじ)。人里離れた場所にありながら、代々高僧が隠遁し、厳密な法を護ってきたと伝えられる聖地だった。

山門をくぐると、古びた木造の堂宇が並んでいた。
そして、その奥にひとつだけ、他とは異なる気配を放つ建物があった。

「お前が、蓮明か」

奥から現れたのは、灰色の法衣に身を包んだ老人だった。
背は低いが、眼差しは深い井戸のように澄んでいる。

「はい。大日如来の教えを学びたく、参りました」

「教え……ふむ。ならば、見よ」

老人は、堂の奥へと蓮明を導いた。
足を踏み入れた瞬間、蓮明の息が止まる。

──曼荼羅。

堂内には、巨大な曼荼羅が掲げられていた。色彩は経年で褪せていたが、その気迫は生きていた。中央に坐す金色の仏。宝冠を戴き、装飾を纏い、手には印を結ぶ。

「これが……大日如来……」

「そうだ。これは金剛界の曼荼羅。智慧の世界の中心に、大日が坐しておられる」

老人の声は静かだったが、耳ではなく心に響いた。

「見た目はただの絵。だが、真実に触れた者には、この中に宇宙があるとわかる」

蓮明は息を呑んだ。

「今日から七日、曼荼羅の前に坐り、ただ祈れ。唱えるがよい、オン・バサラ・ダト・バンと」

「それだけで……?」

「それで足りぬと思うか?」

老僧は微笑んだ。
「お前の問いが本物ならば、やがてあの仏が答えてくださる」

そして、そのまま堂を出て行った。

蓮明は曼荼羅の前に坐した。
静かに目を閉じ、手を組む。

──オン・バサラ・ダト・バン
──オン・バサラ・ダト・バン……

風が止み、音が消え、世界が曼荼羅の中に沈んでゆく。
まだ答えは遠い。
だが、彼はすでに光の入口に立っていた。

 

第二章 胎蔵の祈り、金剛の問い

「あなたは、なにを探しているのですか?」

三日目の朝。
蓮明が静かに真言を唱えていた時、背後から聞こえたのは、柔らかい声だった。

振り返ると、白い衣を纏った一人の少女が立っていた。十六、七歳ほどか。だが、年齢では測れない透明さを、その瞳は湛えていた。

「……修行者か?」

「ええ。ここの者ではありませんけれど、時々来るんです。あなた、ずっと座ってますね。曼荼羅に、なにを見ているんですか?」

問われ、蓮明は言葉を失った。
自分は、何を見ている? 何を探している?
曼荼羅の中心に坐す大日如来の像は、ただ静かにこちらを見つめ返すだけだった。

「……“真理”だと思っていた。だけど、わからない。智慧なのか、慈悲なのか……」

少女は微笑んだ。

「それなら、もうひとつの曼荼羅を見てみますか?」

彼女に導かれるまま、蓮明は寺の奥、苔に包まれた小堂に辿り着いた。
中に掛けられていたのは、胎蔵界曼荼羅。
金剛界よりも柔らかく、無数の仏と菩薩たちが、まるで母のようなまなざしで、中央を囲んでいた。

そこに坐す大日如来は、印も姿も異なっていた。
両手の全ての指を、腹の前で穏やかに組み合わせ、法界定印を結ぶ。
慈しみと受容の気配が、空間を満たしていた。

「これが、胎蔵界の大日如来……」

「命を抱く仏さま。すべての生き物を、内から包む存在です」

少女の言葉に、蓮明は息をのんだ。
金剛界の仏が「智慧の光」なら、こちらは「命を育む大地」だ。

「じゃあ、大日如来とは、相反するものの統合なのか……?」

「反対ではありませんよ。父と母が一つであるように、智慧と慈悲は、もともとひとつなんです」

その言葉は、どこか大きな響きを伴って、蓮明の胸に沈んだ。

「あなたの問いは、たぶん正しい。でも、それは“知る”ものじゃなく、“坐して受けとる”ものなんです」

彼女は、小さな鈴を取り出した。

「今夜、密壇で**火の修法(ごまほう)**が行われます。大日如来の智慧と慈悲、その両方に火を捧げる法です」

「密壇……?」

「炎の中で、あなたの問いも燃やしてごらんなさい」

彼女はそう言い残して、風のように去っていった。

その夜。
蓮明は再び大堂に戻り、智拳印を結びながら、火前に坐した。
炉の中に薪がくべられ、師僧が真言を唱えるたび、火は激しく揺れた。

オン・バサラ・ダト・バン
オン・アビラウンケン

両界の真言が重なり合い、炎が曼荼羅の中の大日と、現実の火とを繋ぎ始めた。

そのとき、蓮明の意識がぐらりと傾いた。
火の奥から、ひとつの光が生まれ、やがて声が響いた。

──「汝の問いに、我は答えよう。だがその前に、汝の“我”を捨てよ」

それは、大日如来の声だったのか、火の中の仏の叫びだったのか。
彼には、もう分からなかった。

ただ、蓮明は感じていた。
智慧と慈悲がひとつに重なり、宇宙の中心へと導こうとしていることを。

 

第三章 密壇の火と夢の中の師

火は、未だに燃えていた。
真夜中、星の光も届かぬ密壇の堂内で、炎は音もなくゆらめいていた。

蓮明は炉の前で膝をつき、額に汗をにじませながら、真言を唱え続けていた。

──オン・アビラウンケン・バザラダトバン
──オン・アビラウンケン・バザラダトバン

いつの間にか、言葉は祈りではなく、光そのものの響きへと変わっていた。
意識は宙に浮き、身体の重さも、時間の流れも、失われていく。

ふと、燃えさしの火が弾けた音が、耳を打った。

そして──闇が訪れた。

夢だった。

だが、夢とも現ともつかぬ、奇妙な明晰さがあった。

彼は、見知らぬ静寂の寺の廊下を歩いていた。
月も星もないはずの夜に、天井からは柔らかな光が差している。

やがて、堂の扉の前にひとりの老僧が現れた。

「……師匠……?」

見覚えがあった。
かつて学寮にいた時、密教の入口を教えてくれた阿闍梨(あじゃり)。
数年前に遷化(せんげ)したはずの、恩師の姿だった。

「よく来たな、蓮明」

老僧は扉を開け、中へ導く。

そこには、曼荼羅ではない曼荼羅が広がっていた。
仏たちは絵ではなく、すべて生きていた。

火を背負った不動、微笑む観音、獅子に乗る文殊、憤怒の明王、そして──
中央に坐す、輝ける存在。

大日如来。

今まで見たどの像よりも、広く、深く、静かで、燃えていた。

「大日はな、仏にあらず、神にあらず、存在ですらない」

老僧は火を見つめながら、言った。

「だが、すべての存在はそこから始まり、そこへ還る。
命も、光も、問いも、お前の“我”さえもだ」

蓮明は、つぶやいた。

「でも……なぜ、語られないのです? なぜ、何も答えてくださらないのですか?」

老僧は、穏やかに目を細めた。

「語れぬものだからだ。智慧は破られぬ刃、慈悲は底なき胎。
どちらも、“知る”ことはできぬ。ただ、“坐して、その身となる”ことだ」

「……その身……」

「そう。祈りも修行も、真言も、印も。すべては、お前が大日となるための道だ」

老僧の輪郭が、徐々に火に溶けていく。

「忘れるな、蓮明。問いを持ち続けよ。
答えは、“汝が消えるとき”にだけ、訪れる」

──オン・アビラウンケン・バザラダトバン

夢の中で、その言葉が再び胸に満ちた。

蓮明が目を覚ましたとき、外はもう白んでいた。
火は消えていた。

だが、胸の奥には、まだ小さな火が灯っていた。
夢か幻か、もうどうでもよかった。

その火は、現実よりも確かだったからだ。

第四章 曼荼羅に入る者

蓮明は、曼荼羅の前に坐していた。
もう何時間が経ったのか分からない。だが、時間という概念そのものが、静かに剥がれ落ちていくのを感じていた。

夢の中で出会った恩師の言葉が、まだ胸の奥で反響している。

「問いを持ち続けよ。答えは、“汝が消えるとき”にだけ、訪れる」

曼荼羅──
それは、ただの絵ではなかった。金剛界、胎蔵界。
無数の仏が秩序の中に並び、中心に大日如来が坐している。

だが今、蓮明はその“外”から曼荼羅を見ていることに気づいた。

「入るのだよ」

突然、声がした。
あの少女──白衣の者が、背後に立っていた。

「曼荼羅の中へ?」

「そう。仏を見つめるのではなく、“仏の視点”で、この世界を見てごらんなさい」

その言葉と同時に、何かが“反転”した。

目を閉じると──
自分の身体が、曼荼羅の内部に溶け込んでいくような感覚に襲われた。

まず、音が消えた。
次に重力が消えた。
最後に「蓮明」という名までもが、風のように遠ざかっていった。

気づくと、そこは光の空間だった。
無数の仏たちが、蓮明を囲んで静かに微笑んでいた。

不動、観音、弥勒、文殊、虚空蔵……
それぞれが、彼の中にある恐れ・慈しみ・希望・問いと共鳴していた。

やがて、中央の玉座に──
大日如来が坐していた。

その御姿は、もはや「像」ではなかった。
光であり、深淵であり、そして沈黙だった。

蓮明は、問いたかった。

**「あなたは誰ですか」**と。

けれど、言葉が生まれない。
“自分”という器が、空になっていた。

そのとき、大日の口が、ゆっくりと動いた。

──「我は、汝なり」──

その声が響いた瞬間、蓮明の胸に広がったのは、言葉では言い尽くせないほどの慈しみだった。
母が子を抱くような、太陽が闇を照らすような、深い“存在の許し”。

そして──すべてが、光に包まれた。

気がつくと、蓮明は、元の堂に坐していた。

変わったものは、何もない。
火は消え、空は青く、木々は風に揺れている。

だが、彼のまなざしだけが変わっていた。

もう、答えを求める必要はなかった。
なぜなら、自分自身が曼荼羅の中に在ると、確かに知ったからだ。

 

第五章 降りてゆく光、守り仏の誓い

「下りなさい」

曼荼羅の光の中で、確かに誰かがそう告げた。

それは命令ではなかった。
慈悲と、静かな覚悟に満ちた“招き”だった。

蓮明の魂は、光の中から、ふたたび現世へと還り始める。
まるで天空から一筋の光が、大地へと“降りていく”ように──。

それは、還俗とも違った。
世を捨てていたのではない。むしろ、今ようやく“この世”を抱けるようになった。

蓮明は山を下りた。
かつて修行のために離れた村の、古びた道を一歩ずつ歩く。

民家の軒先に吊るされた洗濯物、畑を耕す老夫婦、泣きながら歩く子ども。
どれも曼荼羅の仏のように、ひとつの位置にふさわしく「在る」と思えた。

「……ここが、私の道場だったのか」

心の底から、そう思った。

村のはずれ、祠の裏手にある小さな庵に戻ると、懐かしい白衣の少女が待っていた。

「おかえりなさい、蓮明さま。いえ、もう“さま”はいらないですね」

蓮明は微笑んだ。

「君は、誰なのだ?」

少女は、そっと手を胸にあてて言った。

「私は、胎蔵界の観音のひとひら。あなたの“慈悲”が形をとった存在。
あなたが曼荼羅に入る前に、“あなた自身の祈り”としてここに現れたのです」

蓮明は、驚きも恐れもなかった。
すべてが、今は自然だった。

「そして、これからは?」

少女は、彼に一枚の護摩札を手渡した。
そこには、こう書かれていた:

「未・申年の者に、光を」
「願う者に、大日如来の名を届けよ」

「あなたは、守り仏の誓いを継ぎました。
これからは、大日の分身として、人々の願いを預かる者となるのです」

蓮明は、札を胸にしまい、空を仰いだ。

青い空に、見えぬ日輪が輝いていた。

かつて彼が修行に入った理由は「悟り」だった。
だが今、彼がこの世に戻った理由は「ともに在ること」だった。

降りてゆく光──それは、大日如来そのもの。
そして、人の心に灯る小さな祈りに宿るもの。

蓮明は、微笑んだ。
この命が尽きるまで、自分がその光をつなぐ者であると、ただ静かに誓った。

 

第六章 火の仏たち、風の祈り

朝焼けの中、蓮明はふたたび護摩壇に火を灯していた。

かつて修行の象徴だった炎は、今では祈りの入口となっていた。
火は燃える。けれどその熱は、もはや苦行のそれではない。
誰かの願いを宿し、浄め、天へ還す“橋”だった。

この日、蓮明の庵をひとりの若者が訪れた。
痩せた顔に深い疲労をたたえ、肩には亡き父の位牌を抱えていた。

「父は、ずっと戦争の記憶に苦しんでいました。
最後の言葉も、何かに怯えながら……。
せめて魂が安らぐよう、祈っていただけませんか」

蓮明は、そっとうなずいた。

位牌を壇に置き、火を焚く。
炎は、静かに立ちのぼる。

そして蓮明は、両手で印を結んだ。胎蔵の慈しみの印。

「オン・アビラウンケン・バザラダトバン……」
「オン・アビラウンケン・バザラダトバン……」

若者の目から、涙がひとすじ落ちた。
その涙は、風に運ばれるようにして、炎へと溶けていった。

「……風が、吹いていますね……」

蓮明は小さく頷いた。

「それは、祈りを運ぶ風。仏たちの言葉なき答えです」

夜、蓮明はひとりで密壇に坐していた。

火は消えていたが、堂内には風の音だけが、確かに在った。

それは、仏たちの語らぬ語り。
かつて燃えた明王たちの怒りが、慈悲に変わって吹きぬけている音。

「怒りも、悲しみも、すべては転じる。
火も、風も、仏の身体の一部なのだな……」

瞑目する蓮明の耳に、どこからか微かな声が届いた。

──「この世に祈る者がいる限り、我らは灯を絶やさぬ」

彼はそっと目を開けた。
風が、彼の衣をやさしく揺らしていた。

それは、大日如来から贈られた**「在る」という約束の風**だった。

第七章 月の水輪、影に咲く蓮

夜。
山の庵は静まりかえり、すべてが深く、淡く、やわらかく包まれていた。

蓮明は、ひとつの池のほとりに立っていた。
月がのぼり、水面にまるく光の輪を描いている。

「水輪(すいりん)か……」

池に浮かぶ一輪の蓮──
それは昼に咲くもののはずだった。だが、今ここに咲いている花は**“夜蓮”**だった。
月の光だけを受け、静かに、けれど確かに咲いている。

「まるで、影の中の慈悲だな……」

蓮明は独りごちた。
そのとき、背後から声がした。

「影に咲くものほど、強いのです」

振り返ると、そこにいたのは再び白衣の少女だった。
彼女の姿は、今や少し大人びていた。かつては“観音のひとひら”と名乗った存在──

「あなたは……」

「私は、あなたの慈悲が成熟した姿。
月のように、太陽の光を受けてなお、自らの静けさを放つ存在です」

少女の手が池の水に触れると、水輪がもうひとつ生まれた。

それはまるで、ひとつの祈りが、世界に広がる波紋のようだった。

「かつて、あなたは“光”を求めました」
「次に、光を“届ける者”となりました」
「いま、あなたは“影の中にも在る光”に目覚めようとしています」

蓮明は、ゆっくりとうなずいた。

「悲しみ、喪失、罪──
人がもっとも仏から遠いと思い込んでいる場所にこそ、
実は一輪の蓮が咲いている」

少女は微笑んだ。

「そうです。
密教は、世界の“すべて”を仏と見なす教え。
だから、あなた自身の闇も、光も、影も──
“如来の中”に含まれているのです」

池の水輪が、風に溶ける。

静かに咲く夜の蓮──
それは、かつての蓮明の姿だったのかもしれない。

そして今──
それを見つめている自分は、もう別の存在となっていた。

「……ありがとう」

蓮明は少女に向けて手を合わせた。

「私はこれからも、
光を求める人に、
影の中で泣いている人に、
この月の輪のように、
そっと寄り添える者でありたい」

少女は、ゆっくりとその姿を薄めながら、最後に一言だけ残した。

「それが、大日の“もうひとつの姿”です」

終章 すべての命に光を

春。
山の庵には、雪解けの水がせせらぎとなって流れていた。
風はやわらかく、樹々は小さく芽吹き、野の花は名もなく咲いている。

蓮明は、ひとりの子どもを背負って山道を歩いていた。
足が悪く、村では「災いの子」と呼ばれていた子だった。

その子が、ぽつりと尋ねた。

「ぼく……神さまに嫌われてるの?」

蓮明は足を止め、風の吹く方へ顔を向けた。

「いいや。
神さま、仏さまは、嫌うことなんてできないんだよ。
どんな命も、最初から光の中にある」

「でも、ぼくは走れないし、みんなにいじめられる」

蓮明はそっと子の背をなでた。

「それでも、君の中にも蓮がある。
まだ咲いてないだけ。
蓮はね、泥の中でしか咲けないんだ。
苦しいところにいるからこそ、咲ける花なんだよ」

その言葉に、子どもは静かにうなずいた。

庵に戻ると、村の者たちが数人、蓮明を待っていた。
かつて、仏の名を口にすることすら遠ざけていた人々だった。

その手には、小さな願いが書かれた布の札があった。

「蓮明さま……いや、蓮明さん。
この祈りを、仏に届けてくれませんか?」

蓮明は深く頭を下げ、布札を一枚一枚、丁寧に手に取った。

「届けましょう。仏にではなく──
“仏であるあなた自身”に、ね」

驚く人々に、蓮明は微笑んだ。

夜。
火が灯され、護摩の煙が昇ってゆく。

蓮明は静かに、両手を組み、祈りを唱える。

オン アビラウンケン バザラダトバン
オン アビラウンケン バザラダトバン……

その声は、山を越え、風に乗り、空へと響く。
どこかで泣いている者に、
どこかで祈りを忘れた者に、
どこかで命を終えようとしている者に──

届いてほしいと願いながら。

すべての命は、最初から光の中にある。

それは教義ではなく、蓮明が旅を通して、魂で掴んだ真理だった。

人が生まれる場所、
苦しむ場所、
歩き続ける場所──
すべてに、大日如来の光は、等しく降りていた。

それに気づいた者は、もはや仏を“外に”探すことはない。

光は、今ここに。

あなたの中に。

🌸 ──了── 🌸

 

祠の声 ―水子供養に捧ぐ詩 慈母観音真言 The Voice of the Shrine — A Poem for the Souls of Unborn Children

祠の声 ―水子供養に捧ぐ詩
慈母観音真言
The Voice of the Shrine — A Poem for the Souls of Unborn Children

おん あろりきや そわか
「おお、慈しみの母よ、願わくばこの祈りが成就しますように」
または
「すべての子を守る慈悲の母よ、その力をもって私をお守りください」

おん あろりきや そわか
「おお、慈しみの母よ、願わくばこの祈りが成就しますように」
または
「すべての子を守る慈悲の母よ、その力をもって私をお守りください」

静かな風が 胸を撫でてく
名前のない 祈りが揺れる
ひとりきりでも 忘れたわけじゃない
あの日の光が 今もここにある

おん あろりきや そわか
「おお、慈しみの母よ、願わくばこの祈りが成就しますように」
または
「すべての子を守る慈悲の母よ、その力をもって私をお守りください」

ごめんね 言えなかった言葉を
風にのせて いま届けたい
あなたがいた証(あかし)を胸に
そっと手を合わせる 祠の前で

The Voice of the Shrine — A Poem for the Souls of Unborn Children

Dedicated to the Mercy of Jibo Kannon

Mantra of the Compassionate Mother
On Arolikya Svaha

“O Compassionate Mother, may this prayer be fulfilled.”
or
“O Mother who protects all children, I ask for your merciful power to shelter me.”

On Arolikya Svaha

“O Compassionate Mother, may this prayer be fulfilled.”
or
“O Mother who protects all children, I ask for your merciful power to shelter me.”

A gentle breeze brushes across my chest,
A nameless prayer begins to stir.
Even alone, I have never forgotten—
The light of that day still lingers here.

On Arolikya Svaha

“O Compassionate Mother, may this prayer be fulfilled.”
or
“O Mother who protects all children, I ask for your merciful power to shelter me.”

The words I couldn’t say—
I send them now upon the wind.
With the proof of your brief existence held close,
I place my hands together in silence,
before the shrine.

祠の声 ―水子供養に捧ぐ光の章

祠の声 ―水子供養に捧ぐ光の章

第一章 祈りの声を聴く日

その日、風はやけに静かだった。
八月の終わり、湿った熱気がようやく引き始めた午後、沙織は駅前の古本屋で一冊の雑誌を手に取った。表紙には小さく「特集・仏のある暮らし」とあり、なかでも彼女の目を引いたのは、ページの隅に書かれた短いタイトルだった。

「祠で祈る母たち――水子供養というかたち」

なぜその言葉に惹かれたのか、彼女自身わからなかった。ただ、その小さな文字に、何か心の奥をそっと揺らすような響きがあった。

カフェに入り、アイスコーヒーを前にそのページを開く。文章は簡素で短く、「命を失った子どもに祈る場」として、地方の古い寺が紹介されていた。写真には、小さな祠の前でそっと手を合わせる女性の背中が写っていた。

不意に、胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。
心のどこかで閉じ込めていた記憶が、ゆっくりと顔を出してきた。

流産だった。
妊娠がわかったときには、すでに身体が不安定で、医者にも「難しいかもしれない」と告げられていた。
相手との関係も微妙な時期で、沙織はすべてを一人で抱え込み、そのまま……失った。

以来、そのことを口にしたことはない。
誰にも、言わなかった。
言えなかった。

雑誌を閉じ、沙織は立ち上がった。
まるで何かに導かれるように、足が向かったのは、町のはずれ――かつて祖母と何度か訪れた小さな寺だった。

夕暮れ前、寺の山門には誰の姿もなかった。
蝉の声がかすかに遠くなり、風が木々をくぐっていく。

境内の奥に、ひっそりとそれはあった。
背の低い石の祠。小さな赤いよだれかけ。
そこには、優しく微笑む水子地蔵が祀られていた。

胸の奥が、かすかに疼いた。
沙織は、足元にしゃがみこむと、ゆっくりと手を合わせた。

だが、祈ろうとしても、言葉が出てこない。
ただ、心が波立っていた。

――私が、あの子のために祈ることなんて、許されるの?

そう問いかけた瞬間、不思議な感覚がした。
耳をすませば、風のなかに、かすかな声が聞こえたような気がした。

「ママ……そこにいるの?」

沙織は、はっとして顔を上げた。
もちろん誰もいない。
けれど、確かに胸の奥で、その声が響いていた。

小さな祠の前で、沙織はしばらく動けなかった。
頬には、知らぬ間に涙が伝っていた。

――この場所は、ただの石ではない。
誰にも言えなかった祈りを、言葉にならなかった想いを、
受け止めてくれる場所なのかもしれない。

日は暮れ始め、境内は薄い朱に染まっていた。
沙織はもう一度だけ、地蔵の前に手を合わせ、
小さく声に出してみた。

「……ごめんね。」

その一言は、風に乗って、木々の間へと消えていった。

第二章 名もなき命に会いにゆく

それから数日、沙織は妙な感覚を抱えながら過ごしていた。
仕事の帰り道、電車の窓に映る自分の顔が、ふと見知らぬ人のように感じられる瞬間があった。
家に帰っても、テレビの音は遠く、食事の味もしなかった。

何かが、心の奥でずっと揺れている――
けれど、それが何なのか、はっきりとは言葉にできない。
それでもひとつだけわかっていた。

あの祠に、もう一度行かなければならない。

週末、朝の光が優しく部屋に差し込んでいた。
沙織は、押し入れの中にしまいこんでいた箱を引っぱり出した。
その箱は、祖母が亡くなったときに引き取った遺品のひとつで、まだ開ける気になれずにいたものだ。

蓋を開けると、古いアルバムと、古紙の束、そして一枚の手紙が入っていた。
手紙の筆跡は達筆で、しかしどこか震えていた。

「わたしにも、産めなかった子がいました――
あの祠には、何度も足を運びました。
祈ることを、やめないでね。
その子は、ちゃんと聞いてくれているから。」

沙織の手が止まる。
祖母は何も語らなかった。いつも穏やかに笑っていた。
けれどその背後には、沙織と同じ痛みがあったのだ。

封筒の奥から、もう一枚の紙片が出てきた。
墨で書かれた、静かな言葉。

「水子の祈り詞(ことば)」

慈しみ深き観音さま
母のよう包み、守りたまえ――

沙織は、その紙を両手で抱くように胸にあてた。
その日、祠へと向かう決意が、迷いのないものになった。

丘を登る道は、前よりも明るく見えた。
草の匂い、鳥の声、風の音――すべてがどこかやさしい。

祠の前に立つと、前回とは違って、言葉がすっと胸に浮かんできた。
紙片に書かれた詞(ことば)をそっと唱えてみる。

慈しみ深き観音さま
母のよう包み、守りたまえ
わたしの願いを聞き届け
光の手をもって導きたまえ

言葉のひとつひとつが、空気に溶けていくようだった。
どこか遠い場所で、小さな魂が耳を傾けてくれているような気がした。

「……あなたの名前は、わからない。
だけど、わたしの心のなかには、ちゃんといる。
ここに、生きてる。」

沙織は、目を閉じ、数珠を両手にかけた。

おん ばざら さだこくこく
煩悩の鎖を解き あなたの心に安らぎあれ

なうまく さんまんだ ぼだなん ばんばく そわか
すべての仏、すべての慈悲に守られて
あなたが迷いなく光へと還りますように

声はかすれていた。
けれどその祈りは、彼女が初めて、自分の罪と痛みを越えて
誰かのために捧げた言葉だった。

風が吹いた。
小さな花が、祠の前で揺れた。

沙織は微笑んだ。
その笑みには、悲しみと優しさが混ざっていた。
まだ赦されたわけではない。
けれど、きっと、その道の入口に立ったのだ。

名もなき命と、初めて向き合えた、そんな日だった。

 

第三章 祈りを紡ぐ

夜になると、沙織は静かに灯りを落とし、机の前に座るようになった。
祖母の遺した「祈りの詞」を紙に書き写す。墨の香りが、心の奥にまで沁み込んでいく。

字がうまく書けない日もあった。
涙でにじんだ紙を、何枚も捨てた日もあった。
けれど、手を動かし、言葉をなぞっていくたびに、自分が少しずつ“母”になっていくような感覚があった。

それは、誰の目にも見えないかもしれない。
でも、祈るという行為のなかに、沙織はようやく「赦し」というものの輪郭を感じ始めていた。

週に一度、彼女は祠へ通った。
静かな風の吹く山の上、木々に囲まれたその場所は、沙織にとって“心の居場所”になっていった。

ある日、ふと思い立って、小さな風車を持っていった。
桃色と水色の優しい色合い。子どもが喜びそうな、あの風車。

地蔵の足元にそっと立てて、彼女は呟く。

「あなたに似合う色か、わからないけど……。
でも、これを見るたび、あなたのことを思い出せる気がして。」

風が吹いた。
風車が小さく回り出す。
その音は、どこか懐かしく、遠い昔に聞いた子守唄のようだった。

沙織は、祖母の遺品から写した祈りの詞を、ゆっくりと唱えはじめる。

おん はたさ はたく さだだ かん
痛みも、悔いも、恐れも
すべてを手放し 仏の懐に包まれますように

言葉の重なりが、音となり、空気の中に溶けていく。
それは誰のためでもなく、自分と、そこにいる小さな魂との間にだけ存在する、深い静けさだった。

祈ることに、意味があるのか――
かつての沙織なら、きっとそう思っただろう。
過ぎたことは戻らない。失った命は還ってこない。
それでも今の彼女は、**「だからこそ祈るのだ」**と知っていた。

祈りとは、時間に抗うものではない。
過去にしがみつくことでもない。
それは、今をどう生きるかを見つめ直す行為だった。

祈るたびに、沙織の中にあった“怒り”や“自責”は、
ゆっくりと、薄紙をはがすように解けていった。

「名前がなくても、声が聞こえなくても……
私のなかに、あなたはいる。
祈ることで、私はあなたに近づける。」

夜の祠で、風車がまたひとつ、回った。

第四章 手放すための涙

祈りを重ねるうちに、沙織の生活は少しずつ変わっていった。
朝の目覚めがやわらかくなり、出勤前には仏間の祖母の遺影に一礼する習慣ができた。
けれど、心の奥底にはまだ、ひとつだけ、触れられずにいた“黒い塊”が残っていた。

――あのとき、本当に望んでいたのか。
――もし、あの命を喜びとして迎えられていたら、何か変わっていたのか。

問いはいつも、答えではなく沈黙を連れてくる。
沙織はそれでも、問い続けることをやめられなかった。

ある雨の夜、祠を訪れると、山の空気は重く、湿っていた。
誰もいない境内。石段は滑りやすくなっていたが、沙織は迷わず奥へ進んだ。

祠の前に立ち、傘を閉じると、雨が髪を濡らした。
赤い風車は濡れながらも、かすかに揺れていた。
沙織はその場に膝をつき、ゆっくりと語りかける。

「……あなたに、“いないこと”を望んでしまった日があった。
あの時の私は、怖くて、追い詰められていて……
どうしていいかわからなかった。」

雨音のなかで、自分の声が震えているのがわかる。

「産んであげられなかったこと、
あなたの名前を呼ぶことすらできなかったこと、
この手で抱けなかったこと、
ずっとずっと、許されるわけがないって思ってた。」

頬を伝うのは、雨なのか涙なのか。
沙織は自分でももう分からなかった。

おん さのう のうてい ばいきや ばく そわか
すべての願い、すべての祈りは
あなたの安らのためにあります

祈りの詞を唱えながら、ついに沙織の嗚咽がこぼれる。
声にならない叫びが、胸の奥から絞り出される。

「ごめんね……
ごめんね……
どうしても、あなたに会いたかった――」

それは祈りではなかった。
赦しを求める言葉でも、慰めでもない。
ただ、真実だった。
心の奥の最もやわらかい場所から出た、魂の声だった。

そして――
不意に、あたりの雨音が止んだように感じた。

沙織は顔を上げる。
空にはまだ雲がかかっていたが、木々の隙間から、
一筋の光が差し込んでいた。

その光が、まるで祠の上にだけ落ちているように見えた。

風車が、やさしく回る。

まるで答えるように。
まるで「大丈夫だよ」と言うように。

その瞬間、沙織は思った。

――あの子は、もう迷っていない。
迷っているのは、私のほうだったんだ。

大粒の涙が、頬を伝って落ちていく。
けれどそれは、これまでの涙とは違っていた。

重みを手放すための涙。
後悔を赦すための涙。
そして、前を向くための涙だった。

「……ありがとう」

その言葉をようやく口にしたとき、
雨はすっかり上がっていた。

第五章 光のなかで、もう一度

春の風が、街の空気をやわらかく撫でていた。
花屋の店先には色とりどり

沙織は、いつもの通勤路を歩いていた。
変わったのは周囲の景色ではなかった。
彼女の中の、見えない風景だった。

会社では相変わらず忙しさに追われ、同僚の愚痴も絶えない。
けれど、彼女はもう、その喧騒に巻き込まれることはなかった。
それよりも、一日の終わりに、仏前に手を合わせる時間のほうが、
ずっと大切になっていた。

「今日もありがとう」と、
そう静かに口にするたび、心が整っていくのを感じる。

自分のなかに“誰か”がいてくれる感覚。
それは悲しみではなく、光となって胸の奥に灯っていた。

ある日、久しぶりに訪れた祠には、風車が何本も立っていた。
近所の誰かが、同じように訪れているのかもしれない。
あるいは、気持ちのある誰かが、名もなき命のために風を届けてくれているのか。

それを見て沙織は思った。
この祠は、祈りの場所であると同時に、
“名もなき命たち”が眠る、静かな交差点なのだと。

この場所で、人は傷を手放し、誰かに赦され、そして再び歩き出す。

祈りの詞を、今では覚えて口ずさめるようになっていた。
沙織は、そっと唱える。

なうまく さんまんだ ぼだなん あみりてい だはん
無量の光の中で、どうか安らかに
この祈りが届くならば――
今ここに、あなたが成仏されんことを

言葉のあと、長い静寂が流れる。
鳥の声が聞こえる。
風車が、今日もゆっくりと回る。

沙織は、祠の前で手を合わせながら、
ふと思った。

私も、もう一度、生きてみよう。
あの命の分も、やさしく、強く。

それは“やり直す”という意味ではなかった。
過去を否定せず、未来を恐れず、今を生きるということ。
あの子の存在をなかったことにするのではなく、
**「共に生きる」**という選択。

祈りは終わった。
けれど、人生は終わっていない。

沙織は立ち上がり、空を見上げた。
雲が晴れ、あたたかな陽が降りてくる。

光のなかで、彼女は微笑んだ。

終章に寄せて:あとがきのようなもの

この物語は、すべての“名もなき命”と、
その命を想う“まだ名付けきれぬ祈り”に捧げられています。

祈りとは、声に出すだけのものではなく、
手を合わせる仕草、何気ない日々の優しさの中に宿るもの。

あなたの中にも、
“誰にも言えなかった痛み”や“名前のない祈り”があるのなら、
どうかそれを、そっと抱いて、生きていってください。

それが、供養というものの、ほんとうの姿なのかもしれません。

合掌。

 

三界に勝て ─降三世明王の歌─ Conquer the Three Realms – Song of Trailokyavijaya –

 

 

三界に勝て

─降三世明王の歌─
Conquer the Three Realms

– Song of Trailokyavijaya –

 

トライローキヤ・ヴィジャヤ

オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ
Ong somba nisomba un bazala un patta

アスファルトの祈りに 足音が沈む
画面の光に 怒りが揺れる
真実を見失った この街に
誰かが今 炎を灯す

 

トライローキヤ・ヴィジャヤ

オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ
Ong somba nisomba un bazala un patta
燃えろ、煩悩を斬る八つの刃で
吼えろ、四面の声で三界に告げよ
誰の中にも宿る 明王の影
迷うな、汝の中に 勝利はある

Trailokyavijaya
Oṁ somba nisomba ūṁ vajra ūṁ patta

Footsteps sink into prayers on asphalt
Screens flicker, stirring the flames of rage
In a city that’s lost all truth and light
Someone now kindles a fire of might

Trailokyavijaya
Oṁ somba nisomba ūṁ vajra ūṁ patta

Burn—eight blades to cut through desire
Roar—four faces declare to the realms entire
The wrathful god dwells in every soul
Do not stray—victory lies in your core

 

 

現代に現れる降三世の姿 The Modern Form of Gozanze Myo-o

 

現代に現れる降三世の姿
The Modern Form of Gozanze Myo-o

オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ
Ong somba nisomba un bazala un patta
交差点にこぼれ落ちた ひとしずくの嘆き
アスファルトが焼くのは 心の奥の声
誰にも届かない 怒りが疼いて
今日もまた 世界は何も言わずに回る

オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ
Ong somba nisomba un bazala un patta
燃えろ、この胸の煩悩を 断ち切る刃に変えて
叫べ、誰かの孤独ごと この掌で抱きしめろ
怒りは罪じゃない 願いが形を変えただけ
明王は今 僕の中に目を覚ました

 

オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ
Ong somba nisomba un bazala un patta

A drop of sorrow spills at the crossing,
The asphalt burns with the voice deep inside,
Anger aches, unheard by anyone,
And once again, the world silently turns.

オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ
Ong somba nisomba un bazala un patta

Burn, restless passions within my chest,
Transform them into a blade that severs through,
Cry out, embrace another’s loneliness,
Anger is no sin—just a wish taking new form.
The Myo-o now awakens within me.