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仏教

水晶龍神瞑想法の歌 Water Crystal Dragon God Meditation Song

水晶龍神瞑想法の歌
Water Crystal Dragon God Meditation Song

白銀の龍が眠る 胸の奥の静かな海
風も言葉も届かぬ 深奥の光の門
師の瞳から流れ込む 永遠の思念の波
Tapasの炎が 器を満たしてゆく
On mo shutta mani juntei abara jita tani tei sowaka

 

龍よ 舞い上がれ 街の空へ
ひとしずくの光が 人から人へ
やさしさが連なり 都市が息づく
この相承は 終わらぬ旅の始まり
On mo shutta mani juntei abara jita tani tei sowaka

Silver dragon sleeps in the quiet sea within my heart
No wind, no word can reach the gate of deepest light
From the Master’s eyes flows the wave of eternal thought
The flame of Tapas fills the vessel to the brim
On mo shutta mani juntei abara jita tani tei sowaka

Dragon, soar into the sky above the city
A drop of light passes from one heart to another
Kindness weaves together, the city breathes anew
This transmission is the start of an endless journey
On mo shutta mani juntei abara jita tani tei sowaka

 

水晶龍神瞑想法 思念による王者の相承

思念による王者の相承

 

――霊界の深奥。そこは時の流れすら静止した、法の世界であった。
無限に広がる虚空の中央に、白銀の光を放つ存在が坐している。タターガタ――法を完全に成就した者。彼は一言も発しない。ただ、揺らぎなき瞳を通して、相手の心へ直接、自らの心を送り届ける。

その瞬間、言葉も、象徴も、何ひとつ介在しない。光そのものが思念となって、魂の奥底へと流れ込んでくる。それは単なる「考え」ではない。圧倒的な力――パワーが本体であり、受けた者は、たちどころに仏陀として完成する。

これを「思念による王者の相承」と呼ぶ。
王者とは、この至高の法を直接受け取った者を意味する。

だが、この奇跡は誰にでも訪れるわけではない。

私は知っていた。
これを受けるには、ある絶対条件があることを。

――Tapas。
それは炎のような修行、精神を鍛え抜く練行であり、間脳を開発するための鍛錬を含んでいた。

インドのサヘート・マヘートに立ったあの日のことを、私は忘れない。
寺院の遺跡群を覆う蒼穹の下、私の全身を貫く強烈な霊的バイブレーションが走った。
耳には何も聞こえないのに、脳の奥で白銀の波動が轟き、意識が一気に第三の階梯へと押し上げられていく。

――これだ。
これこそがチベット密教のいう「思念による王者の相承」だった。

Tapasを成就していなければ、決して受けられなかったはずだ。内なる器が満ちて初めて、外からの王者の相承が注がれる。

やがて私は確信するに至った。
この相承を受けたからこそ、阿含の境地に達したのだと。
死ぬまでに必ず仏陀となる、その道を歩むことを、自らの内奥で強く誓った。

だが同時に、私は思った。
――四神足法という釈尊最高の成仏法を、誰がやり遂げられるのか。
それは極めて困難であり、わずかな者しか到達できない。多くの人々は、この理想に手を伸ばしながら、一生涯その門前に立ち尽くすだろう。

だからこそ、私は探した。
そしてついに見つけたのだ――いや、創り上げたのだ。

「水晶龍神瞑想法」

それは単なる瞑想ではない。
長い修行の末、私は気づいた。これは釈尊の成仏法の真髄そのものであり、すなわち「四神足法」そのものなのだと。

白銀の波が静かに私を包み込む。
かつてサヘート・マヘートで受けた王者の相承――その光は、今も私の中で生きている。

 

 

水晶龍神瞑想法

夜明け前、山の稜線がわずかに白むころ、私は岩場に座していた。
吐く息が白く、静寂が肌にまとわりつく。耳を澄ますと、遠く谷底で水が流れる音が微かに響く。

眼前には、掌に収まるほどの水晶球。
その内部には、まるで銀色の龍がとぐろを巻いて眠っているかのような光の筋が漂っていた。

――呼吸を数えよ。
――間脳の奥に光の門を思い描け。

自らに命じ、ゆるやかに意識を沈めていく。
やがて、水晶の奥の龍が目を開く。光が脳の奥へと流れ込み、頭蓋の内側が銀白色に満ちる。

龍が動いた瞬間、私の内と外の境界が溶け、全身がひとつの波動となった。
白銀の波は肉体を越えて広がり、虚空をわたる音もなく遠くへと伸びていく。

ある日、弟子の青年・遼が私を訪ねてきた。
彼は長いあいだ迷いと焦燥に苦しみ、何度も修行を諦めかけたが、それでも諦めずここまで来た。

「師よ……私は、まだ王者の相承を受けるに足る器ではないでしょうか」

私は静かに首を振った。
「遼、お前の器はもう満ちている。ただ、まだ蓋が閉じたままなのだ」

私は水晶球を差し出し、共に座すよう促した。
遼が目を閉じると、私の内で龍が再びうねり始めた。
光は私から遼へと、言葉も象徴も介さず、ただ思念の波として流れ込む。

彼の眉間がわずかに震え、呼吸が深まる。
その瞬間、私は見た――遼の内奥で、白銀の龍が翼を広げ、虚空へ舞い上がる姿を。

「……見えました」
彼は目を開き、涙を流しながら呟いた。
「龍が、私の中から……」

私は頷いた。
「それが“思念による王者の相承”だ。お前はもう、仏陀への道を歩み始めた」

龍の光、街に降る

下山した遼は、雑踏の中に立っていた。
都会の空はくすみ、ビルの谷間を風が抜ける。行き交う人々の表情は疲れを帯び、互いを見ようともしない。

だが遼には、かすかな光が見えていた。
それは人々の胸奥で、まだ目覚めぬ龍のように小さく丸まり、時を待っている。

カフェでアルバイトをしていたある日、同僚の女性がため息をついた。
「もう疲れちゃって……何をやっても空回り」

遼はただ、静かに彼女の話を聞き、カップを洗いながら呼吸を整えた。
――龍よ、目覚めよ。

心の奥でそう祈った瞬間、彼女の眼差しがふっとやわらぎ、微笑みが戻った。
何が起きたのか彼女は分からない。ただ、胸の奥に温かい波が広がったことだけを覚えていた。

それから遼は、街のあちこちで小さな“相承”を繰り返した。
電車で肩を落とす老人に、信号待ちでため息をつく学生に――
言葉を介さず、ただ呼吸とともに龍の波を送る。

やがて、不思議な連鎖が起こり始めた。
龍の光を受けた人々は、自らもまた周囲にやさしさを分け与えるようになり、その相手がさらに別の誰かへと温もりを伝える。

都市の片隅に、目には見えぬ龍の群れが生まれ、ビルの間を舞い始めた。
その光景は、かつて山で見た師の白銀の波動と同じだった。

ある夜、遼は屋上に立ち、星空を仰いだ。
――師よ、あなたが授けてくれた光は、確かに広がっています。
街はまだ眠っているが、その胸奥では龍が息づいている。

そして遼は、次の弟子を探すために歩き出した。
龍の光の連鎖は、ここからさらに遠くへ、そして深くへと続いていく。

 

 

大舶の譬喩  応説経より

大舶の譬喩  応説経より
The Parable of the Great Ship – from the Sutra

藤づる揺れる 岸辺の舟よ
The vine cords sway on the boat by the shore,
金の袈裟に 海光が踊る
Sea-light dances on the golden robe.
胸の奥 結び目ひとつ
A single knot rests deep in the heart;
解けば彼岸の風が吹く
Unbind it, and the wind of the Other Shore will blow.
On mo shutta mani juntei abara jita tani tei sowaka

嵐を越えて 沖へ漕ぎ出す
Beyond the storm, we row into the open sea;
心の綱は もうほどけている
The rope of the heart has already come undone.
水平線の 光を抱き
We embrace the light on the horizon,
今 すべてがひとつになる
And now, all things become as one.
On mo shutta mani juntei abara jita tani tei sowaka

 

『大舶の譬喩』──応説経より

 

『大舶の譬喩』──応説経より

海辺に、ひときわ大きな船があった。
藤づるで岸に結びつけられ、その甲板には幾人もの僧が、潮の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、静かに座していた。

師は、その中央に立っていた。
風に揺れる袈裟が、海光を受けて淡く金色に輝いている。
彼の眼差しは遠く沖を越え、さらにその向こうの果てしない光の彼方を見据えていた。

「弟子たちよ」
師の声は、潮騒をもやさしく押し返すように響いた。

「いくら巧みに方法を尽くして修行したつもりでも、心の根にある結び目を断たねば、解脱は得られぬ。
煩悩の縄は見えぬほどに絡みつき、おまえたちを縛り、自由を奪う。
それを解く鍵は──七科三十七道品の修行にある」

僧たちは深く頭を垂れた。
しかし、師はなお続ける。

「この船を見よ。藤づるは堅固だ。だが──夏の六月、海は荒れる。
嵐が来れば、藤づるは少しずつほつれ、やがて断ち切られる。
そうなれば船は沖へ流され、やがて波に砕かれ、形を失うだろう」

一人の若い僧が、はっと息をのんだ。
師はその瞳をまっすぐに見つめる。

「煩悩も同じだ。どれほど強く、おまえたちを縛るものであろうと、精進を重ね、修行を成就するならば──
やがてその縄も断たれ、心は解き放たれる」

潮風が一瞬止み、ただ波のきらめきが甲板に映った。

「四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道──
これらを修めよ。
これこそが、あらゆる結び目を断つ剣であり、おまえたちを彼岸へ導く大舶の帆だ」

その言葉が終わると、沈黙の中、六十の僧の胸に灯がともった。
長く暗かった心の海に、ひとすじの道が開けるのを、誰もが確かに感じたのだ。

師は穏やかに頷き、再び遠い光の方角を見た。
弟子たちは立ち上がり、波の音を背に、修行の道を歩み始めた──。

夜。
海は凪ぎ、星々が甲板に降り注いでいた。
若い僧は眠れず、一人で船の舷に立っていた。
潮の香が鼻をくすぐり、遠くの波が暗闇の中で白く泡立つ。

──藤づるが切れる時、船は沖へ。
師の言葉が、何度も心の奥で反響する。

彼は自分の中の藤づるを思った。
慢心、怒り、欲望、そして幼い頃から背負ってきた孤独。
それらが自分を岸に縛りつけ、動けなくしている。

「四念処……」
彼は小さくつぶやいた。
息をゆっくり整え、今ここにある身を観じる。
潮風の冷たさ、胸の鼓動、足裏に伝わる船のかすかな揺れ──
それらをただ、ありのままに見つめた。

やがて夜が明け、朝の修行が始まった。
彼は師のもとで座し、四正勤を心に刻む。

その言葉を繰り返すたび、心に一本の道が描かれていくようだった。

日々は静かに流れた。
彼は歩くときも、食べるときも、座るときも、八正道の一歩一歩を踏みしめた。
ある夕暮れ、ふと気づく。
胸を締めつけていた藤づるが、わずかに緩んでいる。
それは嵐による断絶ではなく、自らの手で少しずつ解きほぐした手応えだった。

師はそんな彼を見て、静かに頷いた。
「よい。
大舶はもう沖へ漕ぎ出せるだろう。
だが沖はまだ遠い。
帆を揚げるのは、これからだ」

若い僧は深く礼をし、海の果てを見た。
その先に、解き放たれた魂の光が、確かに輝いていた。

その夜、海は急に荒れた。
黒い雲が月を覆い、波は船の舷を打ち、潮が甲板に吹き上がる。
船は軋み、藤づるは悲鳴をあげるようにきしんだ。

僧たちは甲板に集まり、必死に船を押さえた。
若い僧も両手で藤づるを握りしめたが、そのとき師の声が、嵐の轟きの中でふと耳に届いた。

「藤づるを切るのは嵐ではない。
おまえ自身の心だ」

彼ははっとした。
嵐の中、目を閉じた。
そこには別の嵐があった──欲の風、怒りの雷、愚痴の波。
それらが何度も何度も彼を打ちつける。

「四念処……四正勤……八正道……」
心の中で唱えるたび、呼吸が整い、嵐が少しずつ遠のく。
波間に、一筋の光が差した。

その瞬間、彼は内なる藤づるがすでに解けていることに気づいた。
握っていた手を放すと、海風が船を沖へ押し出す。
甲板の上、師がゆっくりと頷いた。

嵐は次第におさまり、東の空が白んでいく。
沖合には、朝日を受けて輝く水平線が広がっていた。

若い僧はその光をまっすぐに見つめた。
もはや彼を縛るものはなかった。
大舶は、静かに、しかし確かに、彼岸へ向けて進みはじめていた。

嵐が過ぎた海は、鏡のように静まっていた。
波は穏やかに船底を撫で、陽は水面に金の道を敷く。

若い僧は甲板に座し、ただその光を見つめていた。
胸の奥にあった重みはもうない。
風も波も、己の心も、すべてが同じひとつの流れに溶けている。

師が隣に歩み寄る。
何も言わない。ただ、その沈黙がすべてを語っていた。

遠くで海鳥が一声鳴き、白い翼が朝日に溶けていく。
若い僧は静かに合掌し、心の中で一言だけつぶやいた。

──もう、着いた。

船は進み続ける。
だが、その行き先はもはや、彼の内にも外にも、隔てなく広がっていた。

 

阿含経応説 五蘊の瞑想法

阿含経応説

五蘊の瞑想法

『雑阿含経・応説経』(以下、『応説経』の講義を行います。 まずは経文を読み、現代語に訳し ながら解説します。

如是我聞。一時仏住拘留国雜色牧牛 聚落。爾時仏告諸比丘。 我以知見故。 得諸漏尽。非不知見。 何以知見故。 得諸漏尽。非不知見。謂此色此色集 此色滅。此受想行識。 此識集此識滅。

 

是の如く現れ聞きぬ。一時、仏、拘留国の雑色牧牛

落に住まりたまえり。雨の時、仏、諸比丘に告げたまわ

く、「我れ知恵をての故に諸の尽きることを得たり。

不知見に非ざるなり。何が知見を以ての故に諸漏の尽 きることを得、不知見に非ざるや。ゆる此れは色なり、

 

此れは色の集なり、此れは色の減なり、此れは愛想・ 行・識なり、此れは識の集なり、此れはの減なりと」

ヒムは聞きました。ある時、仏さまはクル(拘留) 国の雑色牧牛聚落におとどまりに ある。 しされました。 それはどういうことかというと、これは色である、これは色の集である、これは色の滅である、 ったのでしょうか? 不知見ではないからで これは受想行識である、(これは受の集である、これは受の滅である、これは想の集であるこ れは想の滅である、これは行の集である、これは行の滅である) これは識の集である、これは鎌の滅 である」

知見とは、真の智慧によって物事を見ることで、換言すれば悟りを得たということです。この 悟りの力によってすべての煩悩をなくすことができた、とお釈迦さまはここでおっしゃっておら れます。とは煩悩の異名です。煩悩は心の中にいつの間にか漏れ出てきますから、漏と呼びま す。

「此れは色なり、此れは色の集なり、此れは色の滅なり、此れは受想行識なり、此れは (受想行識の集なり、此れは(受想行識の滅なり」は、五蔵法という瞑想です。 人間は色物質的現象)・受(感覚)・想(表象)・行(意志・識(意識)の五つの構成要素からでき ていると仏教では考えますが、この五つの構成要素のことを五蘊(五歳)と呼びます。五蘊観 〇六五

 

現代語

阿含経・説

「法とは、この五蘊のそれぞれが無常・空・無我であると観想していく瞑想法のことです。

お釈迦さまはここで、自分は五蘊観法を修行して悟りを得、完全解脱したのだとおっしゃって おられます。

続きを見ましょう。

成仏できない僧侶たち

不修方便随順成就。而用心求令我諸 漏尽心得解脱。当知彼比丘終不能得 漏尽解脱。所以者何。不修習故。 不 修習何等。謂不修習念处正勤如意足 根力覚道。

「方便を 成就せずして而も心を用いて、我れ をして諸尽き、心に解説するを得せしめんと求むるも 当に知るべし、彼の七まとろじゅうを得ること能わ

ず。所以は何ん。修習せざるが故なり。何等か修習せざ

る。正動・如意足・根・カ・覚・道を修

 

「習せざるなり」

現代語訳

「いろいろな方法を駆使して修行を行っても成就しない者が、もろもろの煩悩が尽き、心に解脱 を得たいと思っても、あの僧侶(修行者)たちは、ついに漏解脱を得ることはできません。

それはなぜでしょうか?

修行していないからです。

なにを修行していないのでしょうか?

それは、いわゆる四念処法 (四念処観)・四正法(西)・四如意足法(四神足法)・五根 五法 覚法・八正道を修行していないのです」

ここは、『応説経』の中でも特に重要なことが、説かれているところです。

解脱とは、 編 (煩悩がすべて尽きた状態ですから、完全解脱、つまり成仏したというこ とです。その完全成仏を心から願って修行しているのに、それができない僧侶たちがいる、とお 釈迦さまがおっしゃっておられるわけです。これは大問題です。

なぜ、その僧侶たちは成仏できないのか? それは、四念処法・四正動法・四如意足法・五根 法・五力法・七覚支法・八正道を修行しないからだ、とお釈迦さまは説かれているわけです。

この四念処法四正動法・四如意足法・五根法・五方法・七覚支法・八正道というのが、わた くしがいつもお話ししているお釈迦さまの成仏法、「七科三十七道品」です。わたくしはこれを、 成仏のための七つの科目(システム)、三十七の修行法 (カリキュラム)であると申し上げており ます。 念処・正勤・如意足・根・力・覚・道で七科目。そして、それぞれが四・四・四・五・ 五・七・八からなる修行によって成り立っておりますから、全部を合わせて三十七になるわけで す。

お釈迦さまは、この修行を行わない者はたとえそれが僧侶であっても、その人がどのように成 仏を望んでも、絶対に成仏することはできない、とおっしゃっています。

わたくしは法話でしばしば、

「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは、誰一人として成仏していない」

と、お話ししています。 みなさんの中には、

「管長はずいぶん思い切ったことをいうなあ」

と考えている人がいるでしょう。 しかし、それはわたくしの独断や偏見ではありません。 仏教 の開祖のお釈迦さまご自身が、七科三十七道品を修行しない者はいくら他の修行をしても、絶対 に成仏しないと説かれているわけです。

日本にも数々の名僧知識が登場しましたが、 この七科三十七道品を修行した人は皆無といって もよいでしょう。

しかし、お釈迦さまは、

彼の比丘はついに成仏することができない」

と、おっしゃっておられます。「彼比丘」というこの三文字の中に、日本の大乗仏教の僧侶が 全部入っているわけです。きっと、「阿含経」以外のお経を信仰し、それを広める僧侶たちが出 現することを予見しておられたのでしょう。

ですから、わたくしはこのお釈迦さまのお言葉に基づいて、

「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは誰一人として、成仏していない」

と説いているのです。

 

ただし、わたくしは、曹洞禅の祖である道元禅師(一二〇〇一二五三)と真言宗の開祖弘法大 師空海(七七四一八三五)だけは、ひょっとするとこの成仏法をご存知だったのかもしれない、 と考えております。 と申しますのは、道元禅師は『正法眼蔵』の第七十三で、

 

この三十七菩提分法(七科三十七道品の別名=著者注)、すなわち仏祖の鼻孔、皮

骨髄、手足面目なり。仏祖一枚、これを三十七品菩提分法と参学しきたれり」

成仏法を讃嘆しておられます。また、弘法大師空海は『弁顕密二教論』で、

「第一法宝とは即ち是れ摩訶般若解脱法身なり。 第二の法宝とは調く定 智慧の諸の妙、

功徳なり。 いわゆる三十七菩提分法なり」

と記しておられます。 ですから、このお二人が成仏法を知識として知っているだけでなく、実

際にそれを修行しておられたとしたならば、このお二人だけは、ひょっとすると成仏しているか もしれません。しかし、それ以外の僧侶は絶対に成仏していない。僧侶が成仏していなかったな らば、それに導かれる弟子も在家信者も成仏していないのは当然でしょう。また、自分を成仏さ せることができないのだから、先祖のお霊たちも成仏するはずはありません。

仏教を信仰する人は皆、その宗旨の教えや修行で成仏できると思うから、そこで一生懸命に信 修行に励むわけです。 成仏できると信じればこそ、布教して歩きます。

昔の日本の僧侶たちは、お釈迦さまの教法を知ることができるのは「阿含経」だけだ、という 真実を知りませんでした。しかし、今の僧侶たちは、みな知っているのです。

しかし、伝統的仏教は従来の教説の上に立ったままです。

わたくしは、少なくとも宗教家だけはこの世の中がどんなに悪くなっても、真実をいわなけれ ばいけないと考えます。 だからこそ、宗教家は尊敬に値する存在なのです。もちろん、宗教家と いえども、たまには方便を使うこともあるでしょう。 しかし、ここ一番、これこそ大切なことな のだということについては、たとえ八つ裂きにされても、本当のことをいわなければならないと わたくしは思うのです。 その宗教家が嘘であることを重々承知の上で、信者に真実ではないこと 真実であるかのように説教をする。 これは絶対に許されないことです。 続きを説明いたしましょう。

成仏法と伏鶏

譬如伏鷄生子衆多。不能随時蔭餾消 息冷暖。而欲令子以觜以爪啄卵自生 安穩出殼。当知彼子無有自力堪能方 便以背以爪安穩出殼。所以者何。以 彼鶏母不能随時蔭餾冷暖長養子故。 如是比丘。不勤修習随順成就。而欲 令得漏尽解脱。無有是処。所以者何。 不修習故。不修何等。謂不修念处正 勤如意足根力觉道。

現代語訳

 

「譬えば伏の生める子多にして、随時に 消息 冷暖すること能わずして、而も子をして背を以て爪を 以て卵を除き、自ら生まれ安穏に殻を出てしめんと欲す も当に知るべし、彼の子自力も能く方便して背を以 爪を以て安穏に殻を出づるに堪ゆること有ること無き が如し。所以は何ん。彼の母時に冷暖して子を 長 養することわざるを以ての故なり。是の如く比丘 勤めて習順成就せずして、而も漏尽解脱を得せし めんと欲するも是の有ること無し。所以は何ん。 修 せざるが故なり。何等をせざる。 謂ゆる念処・正 ・如意足・根・力・覚・道を修せざるなり」

ことわり

「たとえば鶏が卵を産みすぎて、親鶏が随時に温めたり、風を送って冷やしたりする、というよ

うな世話が十分にできなかった卵があれば、その世話が十分に行き届かなかった) 卵の中のヒナ が孵化をしようと、くちばしや爪で卵の殻を内側からつついたとしても、そのヒナは自力で殻を 破って孵化することができません。

なぜでしょうか?

親鶏が随時に卵を温めたり、風を送って冷やしたりするというような世話が、十分にできなか ったからです。

それと同じように、仏道修行者が(七科三十七道品以外の) さまざまな修行に励んだとしても、 仏道修行は成就しませんし、漏尽解脱は得られません。

なぜでしょうか?

解説

修行しないからです。

なにを修行しないのでしょうか?

続きを読みます。

いわゆる、四念処法 四正動法 四如意足法 五根法 五力法、 七覚支法、八正道を修行しな いのです」

ここでお釈迦さまは、成仏法と修行の関係を、鶏のヒナが孵化することにたとえておられます。 親鶏がいくつかの卵を産んだ後、親鶏は藤餾冷暖、つまり温めたり、冷ましたり、あるいは空気 の流通をよくしたりというような努力を一生懸命に行います。一方、ヒナの方を見てみると、ヒ

自身もくちばしや爪で一生懸命に殻を破ろうとする努力を行います。 親鶏の努力とヒナの努力 が相まって初めて、ヒナは殻を破って生まれることができるのです。

お釈迦さまは、この親鶏の努力とヒナの努力の関係は、ちょうど成仏法と修行者の関係と同じ である、とおっしゃっているわけです。

たとえば、親鶏があまりにも卵を多く産み過ぎると、当然のことながら全部の卵に目が行き届 きません。 そうすると、風を送ってもらったり、温めてもらったりできない卵も出てきます。 そ のように十分に面倒を見てもらえない卵は、中でヒナがいくら外に出ようとくちばしでつついた 足の爪で引っ掻いたりしても、絶対に生まれることはできません。

それと同じで、七科三十七道品の成仏法が得られなかったならば、どれほど他の修行を死にも のぐるいで行ったとしても、決して成仏することはできないのだ、とお釈迦さまはおっしゃって おられるわけです。

成仏するには、正しい成仏法と修行者の努力、この二つが絶対に必要なのです。

わたくしはいつも思うのですが、お釈迦さまという方は、本当に比喩が巧みです。 誰にでも分 かるようにお話をされる希有の名説法家だといえるでしょう。

若比丘修習随順成就者。雖不欲令漏 尽解脱。而彼比丘自然漏尽。心得解 脱。所以者何。以修習故。何所修習。 謂修念処正勤如意足根力觉道。如彼 伏鶏善養其子。随時蔭餾。 冷暖得所。 正復不欲令子方便自啄卵出。然其諸 子自能方便安穩出殼。所以者何。以 彼伏鷄随時蔭餾冷暖得所故。如是比 丘善修方便。正復不欲漏尽解脱。 而彼比丘自然漏尽。心得解脱。所以 者何。 以勤修習故。 何所修習。謂修 念如正勤如意足根力觉道。

現代語訳

比丘、修習し随順成就する者は漏尽解脱せしめん

とせずとも而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解説を 得ん。所以は何ん。 修習するを以ての故なり。何をか修 習する所なる。謂ゆる念処・正勤・如意足・根・カ・ 覚・道を修すること、彼の伏鶏の善く其の子を養い、随 時に冷暖所を得、正しく復た子をして方便して自ら 卵をきて出てしめんと欲せざるも、然かも其の諸の子 自ら能く方便して安穏に殻を出づるが如し。所以は何ん、 彼の伏随時に冷暖所を得るを以ての故なり。是の 如く比丘、善く方便を修すれば正しく復た漏尽解説を 欲せざるも而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解説を得ん。 所以は何ん。勤めて修習するを以ての故なり。何をか修 習する所なる。謂ゆる念処正動・如意足・根・カ・ 覚・道を修するなり」

「弟子たちよ、(七科三十七道品の成仏法を) 修行し、成就する者がいたならば、その修行者が漏解脱をしたいと思っていなくても、自然に心に解説を得て漏尽解脱を得るのです。

それは、なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

いわゆる、四念処法 四正勤法 四如意足法、 五根法、 五力法 七覚支法、八正道を修行した からです。それはちょうど、親鶏が卵を温めたり冷やしたりと十分に世話をしたならば、そのヒ ナが卵の外に出たいと思っていなくても、自然に殻を破り孵化してしまうのと同じです。

なぜ孵化することができたのでしょうか?

親鶏の世話が十分で、温冷の温度調節がうまくいったからです。

弟子たちよ、同様に(成仏法に則った) 正しい修行をするならば、漏尽解脱を願っていなくて も、自然に心に解脱を得て、 漏尽解脱を得るのです。

なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

いわゆる、四念処法 四正動法 四如意足法 五根法、五力法、 七覚支法、八正道を修行した からです」

お釈迦さまはここで、非常におもしろい表現を取っておられます。

親鶏がきちんと卵の面倒を見ていれば、たとえ卵の中のヒナが卵の外に出たいと思っていなく も自然に殻を破って出てきてしまうというわけです。それと同様に、成仏を願っていない僧 侶であっても、この成仏法を修行するならば成仏してしまうのです。じつにおもしろいたとえ話 です。

おもしろいお話ですが、それと同時に、お釈迦さまはとても大切なことをここでおっしゃって おられます。それは、なにか?

-三証そろった阿含宗

もんしょう

『応説経』のこの部分が、 成仏できるという「文証」なのです。「文証」について、ここで詳し く説明します。

仏教では、「文証」「理話」「現証」の三証がそろわなければ、その教団の教法は正法ではない とします。文証とは、お経に文字として書かれている「成仏の証」です。 要するに、仏さまがお 経の中で成仏できるとおっしゃっているかどうか、ということです。

『応説経』の「若し比丘、修習し随順成就する者は漏尽解脱せしめんと欲せずと雖も而も彼の比 自然に漏尽し心に解脱を得ん。所以は何ん。修習するを以ての故なり。 何をか修習する所な る。謂ゆる念処・正動・如意足・根・力・覚・道を修する」という部分、これが「文証」なので す。たったこれだけの文章ですが、本当に大切なことが説かれています。 この部分が 『応説経』 いや「阿含経」全部の中心になるとわたくしは思います。

よい機会ですから、「理証」と「現証」についても、お話ししておきましょう。

まず、「理証」。これは、その「文証」が理論的に正しいという裏付けです。

しばしば『法華経』の信者が、「四十余年未真実(<初転法輪より〉四十余年の間、いまだ真実

さず)」という「文証」を振りかざします。 「四十余年未顕真実」という言葉は、『法華経』

 

開経とされる『無量義経』の一文です。 したがって「四十余年未顕真実」とは、あくまでも 『無量義経』に基づいての「文証」です。しかし、『法華経』は、お釈迦さまが入滅されて数百年 も経ってから創作された経典です。また、現代の経典研究では、 『無量義経』は『法華経』の権 威を確固たるものにするために、中国で撰述されたいわゆる偽経であろうとされております。 要 するに、『無量義経」の「四十余年未顕真実」という経文は、正しい「文証」にはならないわけ です。

ですから、「文証」「文証」といくら叫んだところで、それを記す経典が仏さまの説いたもので なければ、まったくお話になりません。 「理証」があって初めて、「文証」が生きてくるわけです。 しかし、「文証」と「理証」の二つがそろっても、まだ完全とはいえません。 最後に「現証」 が必要です。「現証」とは、仏さまがその教団の正統性を認められ、擁護してくださっていると ●阿含経・応説

いう証です。 ですから、

「この信仰で病気が治った。商売がうまくいった」

などという程度では、本当の「現証」ではない。仏さまのお力でなければ、決して起きないよ うなことでないと、「現証」とはいえません。

阿含宗には、最高の「現証」が起きております。その一つが、証明擁護仏の現形です。 証明 しょうみようようご よつば ぎょう 擁護仏とは、その教団が持つ法の正統性を証明されるために、また、その正しい教団を擁護され るために、ご出現される仏さまのことです。

阿含宗には、お釈迦さまを筆頭に数々の仏さまが、毎年二月に京都の阿含宗本山総本殿境内地 で奉修される、「星まつり大柴燈護摩供」の浄火を借りて、ご出現されておられます。しかも、 その現形の様子は、はっきりと写真に収められております。 人の手で造られた仏像や仏画ではな く、自然真実のお姿の仏さまのことを「法爾無作の仏」とお呼びいたしますが、この「法爾無作 仏」が護摩にご出現されたのです。これは、とうてい人間では起こせない奇蹟です。 まさに、 これこそ「現証」です。

ですから、阿含宗は三証がことごとくそろった、本当に正しい仏教教団なのです。

因縁の鎖を断ち切る成仏法

中略 -譬如大舶在於海边。经 夏六月風飄日暴。藤綴漸断。如是比 丘。精勤修習。随順成就。一切結縛 使煩悩纏。漸得解脱。所以者何。善 修習故。何所修習。 謂修習念処正勤 如意足根力党道。説是法時六十比丘。 不起諸漏。心得解脱仏説此経已。諸 丘聞仏所説。歓喜奉行。

現代語訳

 

「中略譬えば大舶の海辺に在り夏六月を経て風 とうてつようゃせん

日に暴れなば藤漸く断ずるが如く、是の如く比丘 精勤して修習し、随順成就せば一切の結蝶・使

悩纏より漸く解脱することを得ん。所以は何ん。善く 修習するが故なり。何をか修習する所なる。謂ゆる念 ・正動・如意足・根・力・覚・道を修習するなり」と。 是の法を説きたまえる時、六十の比丘、諸漏を起こさず 心に解説を得たり。仏、此の経を説きりたまえるに諸の 比丘、仏の説かせたまえる所を聞きて、喜し奉行しき。

「たとえば夏の六月ごろ、海辺に浮かぶ大きな船が嵐に遭ううちに、船を結んでいる藤夢がやが 断ち切られるように、弟子たちよ、精進して修行し、その修行を成就するならば、一切の結 使煩悩纏から解脱することができるのです。

なぜでしょうか? 正しく修行するからです。

なにを修行するのでしょうか?

いわゆる四念処法 四正勤法 四如意足法 五根法、五力法 七覚支法、八正道を修行するの

と、仏さまはお説きになられました。 この説法を受けて、六十人の僧侶がもろもろの煩悩を起 こさず、心に解脱を得ることができました。仏さまがこのお経を説き終えられると、聴聞してい 弟子たちは心から喜び、修行に励みました。

ここに説かれているたとえ話は、「大舶の譬喩」として有名です。原文では、この「大舶の譬 「」の前に「巧師の斧祠の譬喩」がありますが、その意味するところは「大舶の譬喩」とほとん ど変わりませんので、ここでは割愛いたします。

河合・応説

まず、大きな船が海辺に停泊しているわけです。その船は藤綴、つまり藤夢のようなもので係 留されていました。 二千数百年も昔のインドのことですから、ロープなどはなかったのでしょう。 しかし、藤夢はたいへん堅固です。

ところが夏の六月になると海が荒れます。したがって、台風のような嵐が起きるのでしょう。 そうすると、波に揉まれているうちにその藤が切れて船は沖に流され、やがて船そのものも強

風や波によってこなごなになってしまうわけです。

それと同じように、どのような煩悩でも、どのように強い悪因縁でも、何度も何度も成仏法を 繰り返して修行しているならば、最後にはわたくしたちを縛りつけている因縁の糸も断ち切れ、 ついに成仏するぞ、とお釈迦さまはおっしゃっているのです。

結縛・・これらはすべて煩悩の異名です。煩悩は、人間に纏いついて離れません。 です からと呼びます。また、煩悩は人間を結んで縛り、自由にさせませんから結縛といいます。 さ らに、人間は煩悩の思うままに使われてしまいますから、煩悩を使というわけです。

ところが、この成仏法を一生懸命に修行していると、どのような強い悪因縁でも、煩悩でも、 ばらばらにしてしまって、最後は成仏するわけです。ですから、ここもやはり「文証」になりま す。

この短いお経の中で、お釈迦さまは何回も繰り返し繰り返し、七科三十七道品の成仏法を説い ていらっしゃいます。これを修行しなければ成仏できない、と繰り返し、繰り返し、懇切丁寧に、 わたくしたちに教えてくださっているのです。

それなのに、日本の仏教はこの成仏法を取り入れませんでした。 そして成仏法のない、創作さ れたお経を、なにも知らない純真な信者たちに押しつけてきたのです。

その結果、自分も信者も弟子も、みな成仏しないで苦しんでいます。 ある有名な霊能者が以前、 「宗祖といわれる偉い高僧、名僧たちが、みな地獄に落ちて、火の車に乗せられて苦しんでいる ところを霊視した。あまりの恐ろしさと、あまりの意外さにびっくりした。 これはどういうわけ だろうか?」

と語っておりました。日本の仏教界の人たちは、そんなバカなことがあるかと一笑に付したよ うですが、わたくしは、

「そうかもしれないなあ」

と思いました。

にちれんしょうにん

日蓮上人(一二二ニー一二八二)などはなにもしらず、『法華経』を、「これが最高のお経だ」 と一心不乱に、命がけで広めたわけです。日蓮上人の布教に対する信念は、本当にわたくしたち のお手本とすべきところであると、わたくしは尊敬しております。 しかし、広めたのがほんとう の経典ではなかった。真実を知らなかったことは、じつにお気の毒ですが、 それを信じて帰依し た信者からすれば、お気の毒ではすみません。 そのために、成仏ができないのですから。

世界を救う唯一の仏法

わたくしは今、日本がこれほど悪い状態になってきたのは、カルマを断つという正しい仏教を 信仰しなかったからだと考えております。 成仏法のない仏教を信仰してきたために、先祖を成仏 させることができず、不成仏霊・霊障のホトケが急増してしまったのです。

不成仏霊や霊障のホトケが急増したため、多くの人が「横変死の因縁」 「刑獄の因縁」肉親血 緑相剋の因縁をともなう家運衰退の因縁」の三大悪因縁をはじめとした、さまざまな悪因縁で苦

しんでいます。だからこそ、急速度でこの世の中は、これほど悪くなってきているのです。 三大悪因縁の中でも、「横変死の因縁」を持つ人が近年急増しております。 四十年ほど前は、 この因縁を持つ人は百人中二、三人でしたが、現在はその比率ははるかに高くなっております。 このまま増えていくと、いったいどういうことになってしまうのでしょうか?

たとえば四、五十パーセントの人が「横変死の因縁」を持ったならば、大変な惨事が起きると 思います。人口の半数近くが横変死するのですから、大きな戦争が起きるかもしれませんし、原 子力発電所で大事故が起きるかもしれません。あるいは、大地震が発生する可能性もあります。 この危機を救うには、お釈迦さまの成仏法しかありません。 一人一人がお釈迦さまの成仏法を 実践して、自分および家庭の悪因縁を断ち切り、不成仏霊・霊障のホトケを成仏させなければな らないのです。

わたくしたちは、この日本列島、いや、この地球上を覆っている破滅のカルマを断ち切るため に、お釈迦さまの成仏法を一人でも多くの人に伝えなければいけません。 この世を救うことがで きるのは、お釈迦さまの成仏法・七科三十七道品しかありません。

お釈迦さまがインドで説法を開始された時も、お釈迦さまお一人だけでしたが、ご自身の悟ら れた内容を五人の比丘に伝えられて、仏教教団の原型ができました。 さらに、そこから少しずつ 法の輪は広がっていき、ついにはインド社会を動かす大きな力になったのです。 それから考えれ ば、阿含宗は決して小さな動きではありません。人数は少なくても、実に巨大な燃え上がるよう なエネルギーで世界に働きかけています。

このエネルギーをもっと大きく育て上げて、どうしてもこの世界を変えなければいけません。 三一分一秒といえどもうかうかしていられないぞ、という思いにわたくしは駆り立てられます。 みなさんも、毎日の勤行の際、このことを考えながら勤行しなさい。 お釈迦さまはどれほどた いへんなことを、わたくしたちに呼びかけていらっしゃるのか? どれほど重要なことを、わた くしたちに説いてくださっているのか? それを考えて修行に励みなさい。

このお経を読めば、お釈迦さまのお心が分かるはずです。