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仏教

21世紀は智慧の時代

21世紀は智慧の時代

ニルヴァーナに至る五つの階梯

阿含宗の修行の目的は、ニルヴァーナへの到達である。

ゴータマ・ブッダの究極の教えが、ニルヴァーナにあることは、わたくしたちのよく知るところである。だから、わたくしたちは、仏教徒として、ブッダの忠実な弟子として、ニルヴァーナに到達するための修行をするのである。

そのための修行法として、ゴータマ・ブッダは、「阿含経」に、七科三十七道品の「成仏法」をのこされている。

これを修行すると、高度の智慧が発生する。要するに、段階的に、賢くなってゆくのである。だから、結果的には「頭が良くなる修行」ということになる。 賢人をつくり出すシステムといってもよいだろう。だが、目的はどこまでも二ルヴァーナだ。

五つの階梯がある。

五つの階梯とは、

一、基礎訓練

11 srotāpanna

sakṛdāgāmin

anāgāmin

五、arhat

・シュダオン

シダゴン

アナゴン

アラカン

説明すると、

シュダオン――けがれをすべてとり除いて清められた賢者

シダゴン高められた賢者

アナゴン ―(次元を) 飛躍した聖者

アラカン ――ニルヴァーナを完成した聖者、「ブッダ」ともいう。

一、基礎訓練

まず、賢者となる修行にたえる心身をつくらねばならない。ひと口でい

えば、精神的・肉体的に、マイナスの部分を無くすのである。

ばならない。 現代人は、いろいろなマイナス部分を持っている。これを是正しなけれ第一に完全なる心身の「癒し」である。

現代人は、大なり小なり、心の奥に、葛藤や、精神外傷(Trauma)を持っている。精神外傷は、人間の無意識層にひそみ、思いがけない時にほとばしり出て、思いもよらぬ失錯行為や、神経症的行動となって浮かび出てくる。どんなに頭がよくても、健全な人間としての活動はできない。いングによって、それを発見し、除去しなければいけない。潜在意識、深層意識の分析が必要である。

や、頭がよい人間ほど、その傾向がつよいといえる。徹底的なカウンセリそれに附随して、充分な栄養、睡眠、休息をとらねばならない。

わたくしの考えでは、現代人は、栄養がかたよっている。たんぱく質、脂肪、糖質、ヴィタミン、ミネラル等の適正な配分がなされていない。ぜいたくな食事でなく、適正な食事が必要なのである。

現代人は不眠の傾向があって、充分な休息もとれていない。リラックスしてよく眠り、短時間で充分な休息をとる方法を学ばねばならない。リラックスと充実である。

まう。 修行は、楽しくなくてはなが続きしない。つらいばかりでは萎縮してし修行の楽しさを教えなくてはいけない。

修行は楽しいものである。あたらしい世界のなかでの自分の再発見がある。再確認といってもよい。

魅力だ。 また、自分の能力の向上が、まざまざと自覚できる魅力がある。変身の

を作製する。 基礎訓練をつづけるなかで、本格的修行に入ったときの修行プログラム

人の才能、性格、体力など、千差万別である。一〇〇人の修行者がいれば、一〇〇の修行プログラムが必要なのだ。

忘れたが、入行に際しては、医師の健康診断書が要る。

かくて、次の段階に移る。

二、清められた賢者・須陀洹シュダオン

精神的・肉体的・靈的に清められる。

霊的に清められるというのは、先祖のなかで、非常に不幸な人生を送った人があると、「運命の反覆」現象を起こして、自分もおなじようなた人があると、「運命の反覆」現象を起こして、自分もおなじような不幸な運命をくり返すことがある。これを解消することである。

人は、自分ひとりで生まれてきたのではない。両親を通じて、欲すると欲せざるにかかわらず、先祖からさまざまなものを受けついでいる。つまり、自分の人生は、先祖を無視しては考えられないのである。運命の形成には、大きく先祖が影響しているということである。

世界的な心理学者で、フロイト、ユングのあとをうけてあらわれたあたらしい心理学「運命心理分析学,家族的深層心理学」(Schicksalsanalyse) の創始者リポート・ソンディ博士は、「家族的無意識」により、「個人のなかに抑圧されている祖先の欲求が子孫の恋愛、友情、職業、疾病、および死亡における無意識的選択行動となって、個人の運命を決定する」と説いた。これが「運命の反覆」である。

不幸で、悲惨な人生を送った先祖の抑圧意識が、子孫におなじような人

生を送らせようとするのだ。これが、リポート・ソンディのいう「運命の反覆」現象で、そういう先祖がいた場合、その先祖の抑圧意識を解消しなければならない。先祖の抑圧意識による「強制運命」が、修行の成果を妨げるのである。(くわしくは拙著『チャンネルをまわせ』その他を参照せられたい)

賢者須陀洹は、また、「預流」の賢者、「逆流」の賢者ともよばれる。

「預流」とは、あたらしく賢者の流れに入った(預)という意味であり、 「逆流」とは、生死・因縁の流れに逆う賢者という意味で、つまり、凡夫であるかぎり生死・因縁の流れのまま、運命のままに生きてゆくよりほかなく、その流れに逆うことはできない。須陀洹は、その流れに逆う。つまり、生死・因縁の法則から超越する賢者である、という意味である。

まよいそれは、精神的には煩悩・迷妄を制御し、肉体的には病弱を克服し、霊

内には先祖の悪しき影響い

それは、精神的には煩悩・迷妄を制御し、肉体的には病弱を克服し、霊的には先祖の悪しき影響から脱却しているため、生まれつきの因縁を変え、運命を変えてしまうことによると思われる。

三、高められた賢者・斯陀含

清められて須陀洹となった修行者は、つづいて、智慧と徳を高める斯陀含の修行に入る。

高められるとはなにが高められるのか?

智慧と徳と力が高められるのである。完成した賢者としての智慧と徳と力がそなわることである。

ちなみに、ここで智慧というのは、なんでもかんでも知っている物知り博士というような智慧ではなく、人生を成立させている真理・原則を体得

している智慧である。

中村元先生によると、智慧を意味する語は多数あるが、もっともふつうな原語は、prajñā(パーリ語ではpaññā)で、それは、jñā(知る)という語根に pra という接頭辞のついたものであって、jñāという語根はギリシア語の gnosis、英語のknow (知る)とおなじ語源に由来するという。漢訳仏典では「智慧」と訳されるのがふつうである。

仏教語として、「決断を智といい、簡択を慧という」また、「分別妄想を

「照見名」智、解了称」慧」(照見するを智と名づけ、解了するを慧と称す)

離れるはたらき」として、『大乗義章』九に、つぎのように説いている。 要するに、智慧を意味する語が多数あるということは、智慧には、多く

の段階と種類があるということであろう。

その最も高度のものは、それを持つ者以外には、想像もつかないものと

思われる。

ほんとうの賢者の智慧とは、そういう種類のものであろう。

思われる。

ほんとうの賢者の智慧とは、そういう種類のものであろう。

徳とは力である。ほんとうの力は徳から生じたものである。ほんとうの力とは、自分を高め、他人を高め、社会を高めるものである。徳から生じたのではない力もあることはある。しかしそれは、究極的に自分をほろぼし、他人を傷つけ、社会を毒する。そういうものは真の力ではなく、権の力である。だからそういう力を、権力とよぶ。徳をともなわない力である。ほんとうの力は徳から生ずる。だから、徳をたくわえることは力をたくわえることである。 りんりよく

凡夫が不運なのは、不徳だからである。徳を積めば福を得る。徳によって生じた力は、なにをしてもよい結果を生む。それを福というのである。

不徳の者は力がないから、なにをやっても中途半端になり、また、まわり合わせの悪い状況を直すこともできず、失敗する。それを不運といってあきらめるわけである。

ひと口でいえば、運気を増強する。運をよくするのだ。

運が悪かったらなんにもできない。修行を成就することもできない。

斯陀含の賢者は、完全な徳と力と智慧を身につける。かれには不可能が無くなる。

四、次元を飛躍した聖者・阿那含

る。 この段階に入ると、賢者は、聖者の域に入る。次元を飛躍した智慧を獲得し、霊性開題をして、霊界と交流する力を持つようになった聖者であ

五、次元を超越した聖者・可置

五、次元を超越した聖者・阿羅漢

ニルヴァーナに到達したブッダのことである。

以上、七科三十七道品の智慧の修行について説明したが、やや抽象的と思われるので、わかりやすく、図表にしてみた。(口絵参照)

阿含宗の修行の特徴として、護摩行と滝行がある。

護摩行は、「火の瞑想」、火界定の行である。

滝行は、「水の瞑想」、水想観の行である。

ともに、わたくしの修行体験から加えたもので、火と水によって心身をきよめ、たかめる「練行」である。
あろうと思っている。 この二つの行だけで、わたくしは、だれでも、斯陀含にまでは到達できるで

わざニルヴァーナにまで到達するのは、至難の業である。わたくしといえども、 そこまで修行者を導く自信はない。しかし、準・ニルヴァーナにまで到達させる自信はあるのだ。すべては、修行者の努力と熱意次第だ

愛染明王 Aizen Myoo – The Buddha of Love Appearing in the Flames

 

愛染明王
Aizen Myoo – The Buddha of Love Appearing

in the Flames

赤き炎よ 胸に燃えよ
恐れを焼き 執着を照らせ
三つの眼は わが影を射抜き
六つの腕は わが命を抱く

On Makaragya Bazaroushunisha

BazarasatbaJakuun Bangkok

मकरग्य बजरौशुनिषा बजरसत्बा जकुन बैंकॉक पर

オン・マカラギャ バザロウシュニシャ
バザラサトバ ジャクウン・バンコク
煩悩は光へ 炎は命へ
愛染明王よ 我を照らしたまえ

On Makaragya Bazaroushunisha Bazarasatba Jakuun Bangkok

मकरग्य बजरौशुनिषा बजरसत्बा जकुन बैंकॉक पर

O crimson flame, burn within my chest
Burn away my fear, illuminate attachment
Three eyes pierce the shadows I hide
Six arms embrace the life I hold

On Makaragya Bazaroushunisha
Bazarasatba Jakuun Bangkok
Desire turns to light, the fire into life
O Aizen Myo-o, shine upon me

On Makaragya Bazaroushunisha

BazarasatbaJakuun Bangkok

मकरग्य बजरौशुनिषा बजरसत्बा जकुन बैंकॉक पर

 

 

愛染明王 ――炎の中に現れる愛の仏

 

愛染明王 ――炎の中に現れる愛の仏

東洋にて、恋と欲望を司る神といえば、しばしば愛染明王の名が挙がる。だが、その姿は西洋のキューピッドのような愛らしい少年ではない。全身は紅蓮に染まり、三つの眼で世界を射抜き、六本の腕に弓と矢を携える。燃えさかる炎の中に現れるその姿は、恐ろしさと美しさが同居する、まさに「欲望の化身」であった。

古より仏教は「愛欲」を煩悩のひとつとして教え、人が悟りを得るにはそれを捨て去らねばならぬと説いてきた。だが密教は異なる道を示した。――煩悩を滅ぼすのではなく、そのまま菩提へと転ずる。「煩悩即菩提」。人が欲望に苦しむからこそ、求め、祈り、真実を欲する心が生まれるのだ。

愛染明王はその象徴として顕れる。人の愛欲を、悟りを求める原動力へと変えるために。だからこそ彼は、人々の悩みを救い、災厄を退け、命を延ばし、福を増し、戦いの勝利すら授けると信じられてきた。

戦国の世には、直江兼継という武将がその加護を求めた。彼の兜の前立てには「愛」の一字が掲げられていたという。その「愛」は、恋慕の愛ではなく、愛染明王の力を象徴する、炎のごとき愛だった。

その名を唱える者は多かった。

――オン・マカラギャ・バザロウシュニシャ・バザラサトバ・ジャクウン・バンコク。

真言が響くたび、赤き炎は胸の奥に灯り、欲望は光に変わる。愛染明王は、恐怖をも愛に、愛をも智慧に変える仏として、今もなお人々の心に息づいている。

 

赤き炎に包まれて

山深き寺の一隅。苔むした石段を登り切ると、小さなお堂が静かに佇んでいた。病に伏し、痩せ細った身を引きずるようにして、一人の男がそこへ辿り着いた。

「……どうか、この命を……」

堂内に入ると、正面には紅蓮の姿をした愛染明王の像が鎮座していた。三つの眼は怒りと慈悲をあわせ持ち、六本の腕が弓矢を携えて宙を切っている。その眼差しに射抜かれると、男の胸の奥に潜んでいた恐れと執着が暴き出されるようだった。

男は震える手を合わせ、唇を震わせながら真言を唱えた。

――オン・マカラギャ・バザロウシュニシャ・バザラサトバ・ジャクウン・バンコク。

幾度も幾度も、声は掠れながらも続いた。やがて堂内の灯明が揺らぎ、赤き炎が虚空から降り立つ。愛染明王の幻影が、燃えさかる火焔に包まれて姿を現したのだ。

「汝の恐れは、愛欲の影。
その欲は滅すべきものではなく、力へと変じるものなり」

声が胸奥に直接響いた。男は己の中に潜む執念――生きたいという渇望が、苦しみでありながらも確かに生の力であることを悟る。

炎は男の体を包み、その苦悩を焼き尽くすかのように熱を与えた。すると不思議なことに、胸の痛みが和らぎ、呼吸が少しずつ深くなっていくのを感じた。

男は涙を流しながら、ひたすらに真言を唱え続けた。

――オン・マカラギャ・バザロウシュニシャ・バザラサトバ・ジャクウン・バンコク。

赤き炎はやがて心の奥底に灯り、彼の眼には静かな光が宿った。病が完全に癒えたわけではない。だが、恐れは消え、力が胸に満ちていた。

愛染明王は再び像へと戻り、堂内は静寂を取り戻す。

男は深く一礼し、痩せた体をまっすぐに伸ばして石段を下りていった。
その心には、炎のように燃え続ける「生きる力」が宿っていた。

 

普賢の道 The Way of Samantabhadra

普賢の道
The Way of Samantabhadra

深山幽谷にひとり座す
経巻に閉ざす心の迷い
夢に響く白象の嘶き
光の背に菩薩の微笑み

Om Samantha Bhasara

Dhan Sendhamakaroshadaya Sohataya

Untarata Kamman Om Samantha Bhadra Bodhisattva Svaha

ॐ सामन्थ भसर धन सेन्धमकरोषदाय सोहताय उन्तरता कामं

ॐ सामन्थ भद्र बोधिसत्त्व स्वाहा

 

知は行に変わりて照らす
衆生の涙に光宿る
小さき手が差し伸べる先に
永遠の慈悲の道ひらく

Om Samantha Bhasara

Dhan Sendhamakaroshadaya Sohataya

Untarata Kamman Om Samantha Bhadra Bodhisattva Svaha

ॐ सामन्थ भसर धन सेन्धमकरोषदाय सोहताय उन्तरता कामं

ॐ सामन्थ भद्र बोधिसत्त्व स्वाहा

Alone, seated in the deep mountain valleys,
A heart enclosed within the scriptures’ maze,
The roar of a white elephant echoes in dreams,
Upon its back, the Bodhisattva smiles with light.

Om Samantha Bhasara

Dhan Sendhamakaroshadaya Sohataya

Untarata Kamman Om Samantha Bhadra Bodhisattva Svaha

ॐ सामन्थ भसर धन सेन्धमकरोषदाय सोहताय उन्तरता कामं

ॐ सामन्थ भद्र बोधिसत्त्व स्वाहा

Wisdom transforms into action and illuminates,
Light dwells in the tears of all beings,
Where a small hand is extended to help another,
The eternal path of compassion unfolds.

Om Samantha Bhasara

Dhan Sendhamakaroshadaya Sohataya

Untarata Kamman Om Samantha Bhadra Bodhisattva Svaha

ॐ सामन्थ भसर धन सेन्धमकरोषदाय सोहताय उन्तरता कामं

ॐ सामन्थ भद्र बोधिसत्त्व स्वाहा

 

普賢菩薩と修行僧

 

普賢菩薩と修行僧

深山幽谷の寺に、一人の若き修行僧がいた。
彼は毎日、経典を読み解き、仏の教えを頭に刻みつけていた。
だが、彼の心は晴れなかった。

「私はこれほど多くの経を学んだのに、なぜ人々を救えぬのだろう……。」

ある晩、星の冴える夜、僧は夢の中で白象の嘶きを聞いた。
目を開けると、堂内の奥に六牙の象が佇み、その背に普賢菩薩が静かに座していた。

菩薩の声は、風のように柔らかく響いた。
「修行僧よ、お前の学びは確かに尊い。だが、知ることと行うことは異なる。智慧は頭の中に閉じ込めれば枯れる。流れ出してこそ、慈悲となる。」

僧は震える声で答えた。
「では、私はどうすればよいのでしょうか。」

普賢は白象の背から降り立ち、手にした蓮華を差し出した。
「明日、山を下りよ。道端の人に一言、励ましをかけるがよい。困窮する者に一片の食を分けよ。それが小さくとも、行いは心に光を宿す。仏道は経巻にあるのではなく、衆生の涙の中にある。」

その言葉は僧の胸を貫いた。
経の一文字よりも重い真理が、そこにあった。

翌朝、僧は村に下り、道で倒れていた老人に水を与えた。
ただそれだけのことなのに、老人は涙を流して合掌した。
その時、僧は悟った。

――これこそが普賢菩薩の道、智慧を行いに変える慈悲の実践。

以後、彼は経典を胸に抱きつつも、人々の中に身を置いた。
その姿は、普賢菩薩の誓願に導かれた修行僧の、真の仏道の歩みであった。

その後…

かつて若き修行僧であった男は、今や白髪を交えた尊き師となっていた。
彼の名は世に広く知られることはなかった。だが、山里の小さな庵には、日ごと弟子や旅人が訪れ、導きを求めて集まった。

庵の前には、あの日夢で見た普賢菩薩を象徴するかのように、一頭の白き馬が静かに草を食んでいた。人々はそれを「普賢の白象の化身」と信じ、師の庵を訪れるたびに深い安心を覚えた。

ある日、弟子のひとりが師に尋ねた。
「師よ、私たちはいくら経を読み、坐禅を重ねても、悟りに近づけているのか分かりません。何をもって仏道を歩んでいると言えるのでしょうか。」

師は微笑み、静かに答えた。
「弟子よ、仏道とは遠い山の頂にあるのではない。お前が道で倒れている者に手を差し伸べる時、母の涙をぬぐう時、すでにそこに仏道はある。知ることと行うことがひとつになった瞬間、菩薩の道が開かれるのだ。」

その言葉を聞いた弟子は、涙をこぼしながら深く合掌した。

やがて弟子たちは村へ出て、人々に米を分け与え、病を癒すために薬草を学び、孤独な老人の話に耳を傾けた。
行いは小さな灯のように村に広がり、やがて多くの心を照らしていった。

ある夜、師は夢を見る。
白象の背に再び普賢菩薩が現れ、こう告げた。
「汝は知を行いに変え、多くの弟子を導いた。だが忘れるな、行いはまた新たな知を生む。知と行は果てしなく循環し、それが衆生を救う道となるのだ。」

目覚めた師は静かに合掌し、灯火の揺らめきを見つめた。
その炎は弟子たちへ、そしてさらにその先の世代へと受け継がれていく――。

それは普賢菩薩の誓願そのもの、慈悲と行いによって世界を照らす光であった。