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仏教

三つの因縁

 

前に解説したところでは三人分の頭蓋骨が登場し、それぞれの性別・死因 死後の行き先につ

いてミガシラバラモンが答えました。 一人目は多くの病を併発して全身が痛んで亡くなった男性 で、死後は三悪に堕ちていました。 ここでは三悪趣と表現されていますが、要するに地獄界・ 餓鬼・畜生界のいずれかに生じたということですね。 二人目は産厄で亡くなった女性で、死後 畜生界に生まれていました。三人目は飲食の過多による下痢で亡くなった男性で、餓鬼界に生

まれていました。いずれも因縁によって良くない亡くなり方をしているので、死後も悪趣の境界 で苦しんでいたわけです。

 

ところで、地獄界・餓鬼・畜生界に生じたという表現には、二通りの解釈が考えられます。 まず、人は、死後に「中有」(死んでから次の生を受けて生まれ変わるまでの中間的在り方)の世界 に入りますが、ほとんどの人は死後、意識が戻ると、そこから阿鼻野街道(死人街道・亡者街道) を通ってサイの広場へと向かいます。そしてサイの広場にある断崖絶壁から三途の川(三瀬川) に堕ちます。 その時、業の重さによって一番手前にある地獄界、中央にある餓鬼界、一番遠くに ある畜生界に通じる三つの瀬のいずれかに堕ちて、生前の罪をつぐなうために、急流によってそ れぞれの世界に運ばれたということです。

もう一つは、それぞれの世界で罪をつぐなってから冥界に到着し、そこからこの世界に転生し た時に、その因縁による環境や運命が、地獄界・餓鬼・畜生界のいずれかの境界であるとい うものです。

これをわたくしの著書『人はどんな因縁を持つか」(阿含宗教学部)と行

出版部)から引用敷衍すると、たとえば地獄界の境界では、次のような因縁によって苦しみま す。

自殺、他殺、事故死のいずれかに遭うという「横変死の因縁」。心がけの善い悪いにかかわら ず、刑事事件を起こして刑務所につながれる「刑獄の因縁」。恩を受けた人(主人、師、上長、取 引先 先輩など)をだましたり、傷つけたり、とにかく相手になにかしら損害を与えるという 「逆恩の因縁」。この逆の因縁の場合、性格としては、恩を仇で返すというようなものと反対に、 心に恩義に報いようとする心がけを持っていて、そのように努力をしながら、かえって結果的 には、その恩義を仇にして返すようなことになってしまうことがよくあります。だいたい、自分 にとって恩義のある人というのは、自分に好意を持ち、あるいは信用して、自分を引き立て、力 になってくれる人です。 こういう相手に、無意識とはいえそういう損害を与えたり、背いたりす るということは、自分で自分の手足をもぐことです。 自分の有力な味方を失うことになります。 そこで孤立無援となって、人生の失敗者となってゆきます。

また、肉親の者同士、血縁者同士が、互いに運気生命力を損ねあい、傷つけあって分散して ゆく「肉親血縁相剋の因縁」。

そういった因縁に苦しみます。

また、餓鬼界の境界では、次のような因縁に苦しみます。

必ず癌になるという「癌の因縁」。家の運気が次第に衰えてきている家系に生まれるという「家運衰退の因縁」。 これは、実力がありながら、妙にめぐり合わせが悪く、ウダツが上がらず、

年を取るほど運気が衰え、生活が悪くなっていくというものです。

そして、この因縁から出てくるのが、なにをやっても、一応、七、八分通りまでは順調に進む が、あともう一、二分というところで必ずダメになる、決して実らないという「中途挫折の因 縁」などです。

畜生界の境界に生まれると、次のような因縁に苦しみます。

目がつぶれて失明したり、手足を断つ、というように、肉体に障害を受ける「肉体障害の因 「縁」。つまり、けがの因縁で苦しみます。 また、精神病や頭部のけが、 または脳溢血、脳軟化症 等の病気で苦しむ、あるいは程度の軽い因縁の人は年中、頭痛、肩こり、不眠症などに悩まされ る「脳障害の因縁」などです。

これらの因縁についての詳細は、『人はどんな因縁を持つか」をお読みください。

地獄界に堕ちた人たちのありさまは、わたくしが霊視した結果の一部を著書 『守護神を持て」 や 『輪廻転生瞑想法I』(ともに平河出版社)などで紹介しましたが、餓鬼界では、飢えや渇きに 苦しみます。 同時に浮浪霊となってこの世をさまよっている餓鬼もおります。

阿含宗では、毎年、盂蘭盆会万燈先祖供養を行なっておりますが、 万燈のほかに必ず精霊棚と いうものを境内の暗い一角に設けて供養しています。 これは「施餓鬼供養」 つまり、 餓鬼の供養 のためなのです。餓鬼とは、日本の昔の絵巻物の一つである『餓鬼草子』に描かれているように、 皮膚が骨に張りついたように痩せこけて腹部だけが異様に膨れているという醜い姿で、いつもこ そこそと暗い隅に隠れて、餓えと渇きに苦しんでいる存在です。 わたくしの霊視では背丈は小さ く、三十~四十センチほどです。 彼らは自分の姿の醜さを知っているので、それを恥じて人前に

は出たがりません。 そこで境内の一角に暗い場所を造り、そこに特別に法を修したお供えをして 供養しているのです。 彼らは特別に法を修したお供物でないと口に入れることができません。 また、畜生() に生じるという場合、畜生界に堕ちて罪をつぐなったり、 この世界で畜生界 の境界に生まれ、その因縁に苦しむということのほかに、本当に、犬や豚や鶏に転生してしまう 場合があるのです。わたくしの霊視によると、死後、サイの広場に向かう阿鼻野街道の途中で、 生前自分に恨みを持っていた者に甘言で誘われることがあるのです。その死者は顔が生前とは変 わっているので、自分に恨みを持っていた相手だとは気がつきません。 誘いに乗ると大きな洞窟 に案内されて休むように勧められます。そこでうとうとしたかと思うと、目がさめると豚になっ ていたり、犬になっていたりするのです。

 

 

「準胝尊信仰: 二世にわたる救いの真意

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1. 「輪廻転生の秘密: 幸福な来世への道」
2. 「準胝尊信仰: 二世にわたる救いの真意」
3. 「準胝尊の教え: 幸福な人生を選ぶ三つの道」

 

 

静かな夜、古びた書斎に一人の研究者が座っていた。彼、準胝尊の教えを探求する者であり、輪廻転生に関する古代の文献や経典を熟読し、瞑想の奥深さを垣間見ていた。しかし、彼の心はさらに広く、輪廻転生だけでなく、来世を迎える方法についても関心を寄せていた。

調査の過程で、彼は「準尊はよい境界に輪廻転生することを助けてくださる仏さまである」という啓示を受ける。これは彼の探求の方向を大きく変え、新たなる道を示唆した。

彼は日々、古代の経典を読みふけり、霊視を行いながら、その真理を探求し続けた。そして、ある日、彼は「二世の大願」の真意に気づく。それは、現世だけでなく、来世においても幸福な人生を迎えることを願う誓願であった。

その日から、彼は新たなる道を歩み始めた。準胝尊の教えに基づき、現世と来世の両方で人々を導くことを使命とし、その真理を広めることに生涯を捧げる決意を固めたのだった。

彼の言葉は静かに広がり、彼の教えに触れた人々は心を動かされ、新たなる希望を見出した。そして、彼の教えは時を超えて、人々の心に光を灯し続けた。

「解脱にいたる四つの階梯」 ”Four stairs leading to liberation”

 

 

 

阿合仏教を分析すると、それは二つの部分から成り立つ。

1 教えとして「縁起の教理」
2 修行法として「七科三十七道品」(三十七菩提分法”とも呼ぶ)
である。
これを、後世の分類法で呼ぶと、「縁起の教理」は「顕教」である。
解脱にいたる四つの階梯
「解脱にいたる四つの階梯」
だれでも、解脱にいたるためには、この四つの段階を経なければならない。
そしてこの四つの階梯を、すぐれたる聖師にしたがって歩んで行くならば、だ
れごも解脱に到達できるのである。もちろん、あなたにしてもその通りだ。
四つの階梯とは、
一、シュダオン(須陀垣)
二 シダゴン(斯陀含)
三、アナゴン(阿那含)
四、アルハット(阿羅漢)
である。
説明すると、
シュダオン  けがれをすべてとり除いた聖者
シダゴン   められた聖者
アナゴン   (次元を)飛躍した聖者
アルハット   仏陀
大次元を)超越し、完成した聖者、「ブッダ」ともいう。
は、この四つの階梯を、修行者はどのようにして歩んでゆくのだろうか。
霊性完成の方法と体系
シャカが残した霊性完成の修行法がそれである。これを、「成仏法」とよんでいる。成仏とは霊性を完成したことをいい、それを成就したヒトを「ブッダ」とよぶ。だから、わたくしはその方法を、「成仏法」とよぶのである。
それは七つのシステムと三十七種のカリキュラムから或る成仏のための方法
と体系である。の仏教用語である。

シャカがじっさい説かれたのは阿合経だけであるという、歴史的な事実のほ
かに、阿含経以外には、この「成仏法」がないから、わたくしはそう言うので
ある。「成仏法」のない経典など、わたくしは真実の仏教経典とみとめること
はできないのである。もちろん、それなりの存在意義なり存在価値はあろう
が、本流ではない。傍流というべきである。
七科三十七道品とはつぎのようなものである。
四念処法-‐―身念処法 受念処法 心念処法 法念処法
四正断法--断断法
律儀断法
四神足法一-―‐―欲神足法 勤神足法
随護断法
心神足法
修断法
観神足法
五根法ー一信根法 精進根法 念根法 定根法 慧根法
五力法l‐信力法 精進力法 念力法 定力法 慧力法
七覚支法-‐‐‐択法覚支法 精進覚支法 喜覚支法 軽安覚支法
定覚支法 念覚支法
捨覚支法
情賄法
正念法
正定法
以上である。
この七科目、三十七種のカリキュラムは、
―、瞑想
2、実践
3、tapas(練行)
に分類できる。
四念処法・五根法は、瞑想である。
四正断法・五力法・七覚支法・八正道は、実践と瞑想である。
四神足法は、特種なtapasである。
神足とは、神通力(超能力)のことで、この四神足法は、超自然的な神通力
を得るための四種の修行法である。前に述べたわたくしのtapasはこれに属
するものである。
この七つの科目のうち、taPasを中心に、瞑想と実践の科目をとり入れて修
行するのである。
どの科目をどうとり入れて、どのように訓練するかは、聖師が決定する。修
行者それぞれ、みな素質と因縁がちがうので、それをみて、グルがきめるので
ある。
この修行において、グルの果たす役目は大きい。グルについて、少しのべよ
霊性の洗礼
まちがいなく霊性を開顕したグルを見つけて、そのグルに受け入れて
にしへ、力修け八分通り成功したといっていいくらいである。それくらい重要なことであり、かつ、むずかしいということ
である。
グルなくして、ただしい霊性開顕の仏道修行は不可能である。ふつうの仏教
信心とはちがうのである。信心のしかたや、信仰のしかた、経典の講義や解釈
を教わるという程度のものならばとにかく、霊性開顕の仏道修行は、強力な霊
的能力を持つ聖師のたすけなくしては、ぜったいといっていいほど、できない
のである。
たとえば、インド近代の聖者ラーマナーマハリシが、入門者にたいして、
「凝視の方法」で受け入れの儀式を行なったとき、かれの両眼の輝きと力が相
手の心をつらぬいて、その雑念の流れを断ち切ってしまったといわれる。時と
しては、まるで電流が身の内に流れこんだように相手は感じたともいわれる。
こういう霊的体験によって、弟子はまず心をきよめられ、霊的なものにたい
するあこがれ、霊的向上心をいだくようになるのである。

 

 

Analyzing Aai Buddhism, it consists of two parts.

 

1 As a teaching, “the doctrine of auspiciousness”
2 As a training method, “Seven departments and thirty-seven dozens” (also called “37 Bodhipakkhi”)
Is.
If this is called by the classification method of posterity, “the doctrine of auspiciousness” is “religion”.
Four steps leading to liberation
“Four steps leading to liberation”
Anyone must go through these four steps to reach liberation.
And if you follow these four steps according to the excellent Holy Master,
The lever can also reach liberation. Of course, you are right.
What are the four ladders?
One, Shudaon (Sudagaki)
2. Sidagon (including this)
Three, Anagon (including Anagon)
Four, Arhat (Arhat)
Is.
To explain,
Shudaon The saint who removed all his injuries
Sidagon, the saint
Anagon (a dimension) a leap of saint
Alhat Buddha
It is also called “Budda”, a saint who transcends (large dimensions) and is completed.
How will the practitioner walk through these four steps?
Method and system of spiritual completion
That is the practice of spiritual completion left by Shaka. This is called the “Buddhahood Law”. The Buddhahood means the completion of spirituality, and the person who fulfills it is called “Budda”. That is why I call that method the “Buddhahood Law.”
It is a method for a certain Buddhahood from seven systems and thirty-seven curriculums
And system. Is a Buddhist term.
..
The historical fact that Shaka was actually told only by Agama
Since there is no such “Buddhahood method” other than Agama, I say so.
be. I consider it a true Buddhist scripture, such as a scripture without the “Buddhahood Law”.
Cannot be done. Of course, there will be some significance and value of existence.
However, it is not the mainstream. It should be called a sidestream.

The seven departments and thirty-seven dozens are as follows.
Satipatthana method — Satipatthana method, Satipatthana method, Satipatthana method, Satipatthana method
Four Right Exertions — Cutting Method
Law
Iddhipada Iddhipada ——– Iddhipada Iddhipada
Defensive law
Shinshin foot method
Cutting method
Kanjin foot method
Indriya method-Ichishinne method, Seishin root method, Nene method, Samadhi method, Keine method
Five-strength method l-credit method, devotion method, psychokinesis method, definite power method, morality method
Seven Factors of Awakening — Selective Factors of Awakening
Jokaku support method
Seven Factors of Awakening
Compensation law
Mindfulness
Orthodox method
That is all.
These seven subjects, thirty-seven kinds of curriculum,
-,meditation
2, practice
3, tapas (training)
Can be classified into.
The Satipatthana method and the Indriya method are meditations.
The Four Right Exertions, the Five Strengths, the Seven Factors of Awakening, and the Noble Eightfold Path are practices and meditations.
Iddhipada is a special tapas.
Iddhipada is a mythical power (supernatural power), and this Iddhipada method is a supernatural mythical power.
There are four types of training to obtain. My tapas mentioned earlier belongs to this
To do.
Of these seven subjects, meditation and practice subjects are taken into consideration, centering on tapas.
Do it.
The priest decides which subjects to take and how to train. Osamu
Each person has different qualities and ties, so when you look at it, the guru decides.
be.
Guru plays a major role in this training. A little about Guru
Spiritual baptism
Undoubtedly find a guru that reveals spirituality and accept it
It can be said that he was successful as he was able to improve his skills. It ’s that important and it ’s difficult.
Is.
Without a guru, proper spiritual manifestation of Buddhist training is impossible. Ordinary Buddhism
It is different from devotion. How to believe, how to believe, lectures and interpretations of scriptures
Anyway, the Buddhist training of spirituality is a powerful spirit.
You can’t do it without the help of a doctor of the church
It is.
For example, the modern Indian saint Ramana Maharishi, to his introductory
When performing the acceptance ritual in the “method of staring”, he combined the brilliance and power of his eyes.
It is said that he broke the heart of his hand and cut off the flow of thoughts. With time
It is said that the other party felt as if an electric current had flowed into his body.
This kind of spiritual experience first cleanses the disciple and wants to be spiritual.
You will have a longing to do it, and you will have a spiritual aspiration.

 

 

 

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大日如来の智慧を表現した「金剛界」 .一印会 “Kongokai” expressing the wisdom of Dainichi Nyorai.Ichiinkai

 

胎蔵界曼荼羅 たいぞうかい Womb Realm Mandala Taizokai

 

 

 

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凖諦観音の因縁

 

 

 


仏像の作例
経典や儀軌には二臂、四臂、六臂、十八臂、五十四臂、八十四臂を説くが、日本では『七倶胝仏母所説准提陀羅尼経』(唐・不空 訳)が広まり、そこで詳述された像容・一面三目十八臂とするものが最も多い。『仏説持明蔵瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(宋・法賢 訳)には、四臂は赤色(蓮華部)、六臂は黄色(宝生部)、十八臂は白色(仏部)と述べられている。また、その手の本数が多いことから、その尊像は時に千手観音と混同される場合もあるが、正面の左右の二手が「説法印」 を結んでいるのが准胝観音で、「合掌」をしているのが千手観音である。なお、醍醐寺准胝観音坐像のように、蓮華座の下に難陀・跋難陀の眷属二大龍王がいる造例が多い。

 

 

禅と准胝観音

『無門関』第三則 【倶胝竪指】(ぐていじゅし)より
  • 倶胝和尚(ぐていおしょう)は禅における馬祖の法嗣の大梅禅法常三世の法孫にあたる。この人の正確な名前は伝わっていないが、准胝観音を一心に信仰し修行前も、修行をなし終えてからも准胝観音の真言を口ずさむのが常であったため、准胝観音の別名である「七倶胝仏母」から名前を取り、倶胝和尚と呼ばれた。この人が寺を構えてそこの住職をしていたところ、尼僧が旅姿のまま土足で上がり込んで来て問答を挑み、「あなたが悟りにかなった言葉を言えば笠を取りましょう」と迫ったが、倶胝和尚が何も答えられずにいると、尼僧は吐き捨てるようにして袖を払って出て行ってしまった。倶胝和尚は一山の住職がこれではと情けなくなり悔しさのあまり涙して寝たところ、「准胝法」の特徴の一つでもある夢告によって夢に神人が現れて、もうすぐこの寺に生きた菩薩が現れると告げられた。その十日後に天龍老師という人が現れて、その人にわけを話して教えを請うたところ、天龍老師はただ黙って指を一本立てられた。その指を見たとたんに、倶胝和尚は落雷に打たれたようになってしまい、瞬時に執着に固まっていた心の底が抜け、無上の覚りを得ることが出来た。
  • それ以来、倶胝和尚は生涯にわたって准胝観音の真言を唱えるかたわら、ただ指を立てるだけで弟子や信徒らを教化したとされている。この第三則の物語を編集者の無門慧開は、「覚りは指先のことではない、しかし、そこが分かれば皆が釈迦牟尼仏となることができる」と批評している。いわゆる中国では、説法印を正面で結んで指を立てる姿の准胝観音の仏像が好まれる理由の一つでもある。

また、明代には浙江省嘉善镸の出身である袁黄(1533-1606)という人物が、当時、占いの名人とされた孔先生に「三式」という運命学を学び、師の孔先生より科挙を受けることを勧められて合格すると共に、その番号までを言い当てられた。その後の占いも一字一句が孔先生の言う通りであり、すっかり宿命論者となっていた。自身の一生を占ってもらったところ相応の出世はするが前世の(カルマ)により壽命は53歳で、結婚はするが子供は無く、薄徳少福の身で失意のうちにその一生を終えると予言されていた。やがて、仏縁により禅密双修の禅僧の雲谷禅師に出会い自身の運命を語ったところ、『七佛倶胝佛母心准提陀羅尼法』の呪法を授かり、正しく戒律を守り善行を積むための『功過格』による指導を受けたことによって運命の呪縛を脱した。壽命が尽きるとされた53歳の時に袁了凡(えんりょうぼん)と改名し、更に出世して高官となって交易と漁民に被害をなす倭寇を平定し、豊臣秀吉による朝鮮出兵の軍を退けた。准胝観音への信仰により願わずして子供にも恵まれ、その寿命も准提観音の延命の功徳と、『功過格』の積善の効果により74歳まで長生きすることができた。

 

准胝観音

仏の母といわれ母性を象徴する安産・子授けの観音菩薩

准胝観音(じゅんていかんのん)とは?

准胝仏母(じゅんていぶつも)・七倶胝仏母(しちくていぶつも)ともいいます。もとはヒンドゥー教の女神であるドゥルガーで、シヴァ神の妃とされています。とても美しい姿ですが、神々の武器を持って魔族を倒した戦いの女神です。そのため本来は女尊であり、観音ではないという指摘もあります。しかし、ここでは観音として紹介しますね。

 

仏教に取り入れられてからは慈悲深い清浄をもたらす神とされ、七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)ともいわれています。これは遙か過去より多くの仏を誕生させた仏の母という意味です。そのため、真言宗系では人道を救済する六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音)に数えられますが、天台宗系では准胝仏母といわれ如来に分類されています。不空羂索観音と合わせて七観音と呼ばれることもあります。

ご利益

修道者守護、無病息災、延命のご利益があり、安産や子供が授かるなどの功徳があります。

 

空海の孫弟子にあたる理源大師(りげんだいし)聖宝は修験の僧として知られ、自ら霊木を刻んで祀ったのが准胝観音と如意輪観音でした。経典には、修験者が准胝陀羅尼を唱えれば身が清浄となり成仏できると説かれています。また聖宝は醍醐天皇の皇子誕生を准胝観音に祈願し、のちの朱雀、村上両天皇が誕生したといいます。そのため一般的には子授け、安産としての功徳が知られています。

准胝観音(じゅんていかんのん)の像容

手は18本で3つ目の姿であることが多いです。中央の手は説法印と施無畏印をとります。また持ち物は武器や数珠、蓮華などを持っています。

 

仏の説法: 執着から解放される道

 

 

1. 「仏の説法: 執着から解放される道」
2. 「断見と常見: 真理への探求」
3. 「霊魂と身体: 仏教の視点での考察」

時は、お釈迦さまが説法を行っていた時代。ある日、沙門ゴータマさんが所用があると言いながら、お釈迦さまに別れを告げました。仏さまは静かに微笑みながら応えました。その後、ヴァッチャ姓の出家者がやって来て、お釈迦さまの教えを聞き、大いに喜んで立ち去りました。

その後、外道の指導者たちが唱える「断見」と「常見」についての辞書の説明があります。断見は世間や自己の断滅を主張し、因果の理法を否定し、死後の運命を否定する誤った考えを指します。常見は常住を主張し、世界や人の不滅を信じる誤った見解です。

そして、霊魂と身体の関係についての質問に対して、お釈迦さまは「無記である」と答えました。なぜなら、彼らが考える霊魂は、かつての聖者たちが説いたアートマンに基づいており、仏教の理解とは異なるからです。アートマンは生命の本体として解釈され、常に不変であるとされてきましたが、仏教ではこの概念を否定しています。

このように、仏教の教えは常に執着を離れ、真理を求める姿勢を示しています。

「人間は願い求めるものごとに執着するという依りどころがあります。自分を取り巻くものごと に染まって心が囚われて)執着するという依りどころがあります。 ただ世尊(先生・尊い師)に おいてはそのような依りどころはなく、正しい悟りを得ておられます。

それでは) 沙門ゴータマさん、なにかと所用もありますので、これにて失礼したいと存じます」 と申し上げました。 仏さまは、

と答えられました。ヴァッチャ姓の出家は以上の仏の説法を聞き、大いに喜んで立ち去りまし

先にご説明した、お釈迦さまご在世当時の外道(仏教以外の宗教者)の指導者たちが唱えていた 「断見」と「常見」が、辞書にはどう説明されているのかをご紹介します。 引用は「佛教語大辞 典』によります。

【断見】だんけん 1世間および自己の断滅を主張して、因果の理法を認めず また人は 度死ねば断して再度生まれることがないとする誤った考え。断無にとらわれる考え。 断 論生はこの世限りのものとし、死後の運命を否定して善悪とその果報を無視する見解。 常 見の対

【常見】じょうけん 常住を主張する見解。断見の対。 世界は常住不滅であるとともに、 人は死んでも我(アートマン)が永久不滅であると執着する誤った見解。

「意生身」というのは、「心だけの身体」あるいは「死後、次の生命を受けるまでの中身 のこと」で、分かりやすくいえば霊体になります。

「余」とは、本来は残りという意味で、業が残っていることを意味しますが、このお経では

「依りどころ」という意味にも使われております。

「愛」 (tapha、タンハー)とは、砂漠で喉の渇きに苦しむ者がひたすら水を求めてやまな いような激しい欲望をいいますが、漢訳ではたんに「愛」としてしまったので、お釈迦さま 表現しようとしたイメージがまったく変えられてしまいました。 この愛がもとになって 執着が生じ、執着によって、輪廻転生 (迷いの生存)が生じるのです。

「世尊」 とは、 Bhagavat (バガヴァット)の漢訳であり、福徳を具えた者の意です。ヴェー ダ聖典においても、叙事詩においても、弟子が師に対して「先生」と呼びかける時の言葉で すが、仏教ではこれを採用して仏陀の尊称のひとつにしました。

さて、先に、ヴァッチャ姓の出家の「霊魂と身体は同じものか」「霊魂と身体は別々のも

のなのか」という質問に対して、お釈迦さまは、いずれの質問にも「無記である」と答えら れました。「無記」は「無記答」ともいいます。 記すべき答え無し。つまり、その質問には 答えるべき内容がない、あるいは適切な答え方が存在しない、ということでしょう。

それはなぜでしょうか?

ヴァッチャ姓の出家が考えている霊魂(命)とは、仏教の起きる二、三百年前に、ウパニ シャッドとバラモンの聖者たちが考えた「アートマン (ātman)」を下敷きにしたものだから です。このアートマンは、元来は、「気息」を意味しましたが、転じて、生命の本体として 「生気」「生命原理」「霊魂」「自己」「自我」の意味に用いられ、さらに、「万物に内在する霊 「妙な力」を意味するに至ったといいます。 要するに、個々の本体を表す術語と考えたらよい でしょう。 バラモンの聖者たちは、このアートマンを常恒不変の存在であると説いたのです。 そして、絶対者ブラフマンとアートマンの本質を悟り、梵我一如の真理を直観して、このプ ラフマンと合一する時、業は消滅し、アートマンは完全に自由になって、業に束縛されてい 輪廻から解脱するというのです。

 

上の文章を
親しみやすいタイトルを3つ考えてください。