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仏教

仏舎利宝珠尊和讃

 

 

仏舎利宝珠尊和讃  1

帰命頂礼 仏舎利尊

功徳のほどを伝うべし 仏の慈悲のかぎりなく 世の衆生救わんと 变化法身仏舍利尊 霊処かずあるその中に 法身駄都如意宝珠尊 化導利生はてしなし 悪業一切断ち切りて この塔安置のところには 人みなすべて安穏に 疫病苦厄のうれいなし 日々の供養を忘るるな 法身如来あらわれて つくるといえど宝塔の ちりばめ輝くさまとなり 十方世界を照らすなり 微妙の法を説き拾う 凡夫の法性たちまちに 衆生の胸にしみ透る さてまた過去世に貪りの 衣類さえなき貧しさに 至心に宝生いのるなら 三宝味と変化し

宝生解脱のその力

そもそも祀る宝塔は 大悲方便止まずして 舎利をとどめ置き拾う 納め祀れる霊祠なり 仏舎利尊の宝塔は 大神変妙にして

供養の積めば 福徳果報かぎりなし 諸難のせまる恐れなく 牛馬の末に至るまで されば行者は宝塔の 至心に礼拝供養せば たとえ瓦石や木ぎれにて 忽ち変じて七宝の 紫黄金の光明 光の中に声あって 法身如来の声なれば ひらきて悉地を成ずなり 声なき声尊とけれ 罪にむくわれ身にまとう なげく貧窮の人にても 法身如来たちまちに 宝の雨を降らすなり

珍宝名衣上服や

日々に富貴の身とならん 苦患にもだゆる身なりとも 重き病いもその日より 功徳ほとほとのべがたし 供養の徳を積むことぞ 人のうらやむ財産も 悪因ひとつあるならば 家系の因縁断ち切りて 父母祖父や祖母どちの 肉を通して子や孫の 我れに犯せし罪とがの 父母先祖の因縁ぞつぎにはわが身の因縁を 業障ふかき祖父祖母を 犯せし罪の果報ぞや わが身の不徳かえりみて 八十億劫積もり来し 消えて菩提の道ひらく 畜生界に生きる身も 抜苦与楽の門に入る まず第一は事の供養 香華をととのえて 供養の種をまかざれば

百味の飲食かぎりなし また業病や難病の 至心に礼拝供養せば 癒えて天寿を全うす 先づは信心あつくして とりわけ解脱をねがうべし 巨万の富も権勢も すべて苦の種泣きの種 先祖の業障除くべし おかせし悪因悪業は 悪しき運命のもととなる

因縁悪しき父母や 持つはこれが前の世に 先祖うらむな身を悔め 至心に解脱の供養せよ 生死輪廻の罪障も 無間地獄や鬼地獄 大光明を身にうけて 三種供養尊とけれ 身供養とも申すなり 力のかぎり供養せよ 福徳宝生のぞみなし

種一升まきおけば

五升や一斗はみのるぞや

とれたるためしなし

種を惜しみてまかずして 功徳の種をまかずして

果報の徳は得ぬものぞ

まけばまくほどみのるもの 骨身惜しまずまくことぞ

解脱宝生ねがうなら

行功徳の種をまけ

 

 

阿含  阿含経・三供品

聞如是一時仏在舎衛国樹給孤独 園爾時世尊阿難。有三善根。 不 可窮尽。 至涅槃界。 何為三所 謂於如来所而種功德。此善根不可窮 尽於正法 而種功徳。 此善根不可 尽於聖衆而種功徳。 此善根不可 窮尽是謂阿難。此三善根不可窮尽 得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲 此不可窮尽之福。如是阿難。当作是 学爾時阿難関仏所説。 喜奉行

聞くことの歌 舎衛国祇給孤独園に在 しきの時世尊、阿難に告げたまわく、「三善根(三 福道)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。

何が三とすや。所謂如来の所に於て功徳を使う。 此 善 善根尽す可からず。 聖に於て功徳を種う。此の善此の す可からず。正法に於て功徳を種う。

尽す可からず。 是れを阿難、此の三善根は窮尽す可 からず、涅槃界に至ることを得と謂うなり。是故に 難当に方便を求めて、此の窮す可からずの福を獲べ 是の如く阿難当に是の学を作すべし」と。雨の時 阿難、仏の所説を聞きて喜奉行しぬ。

このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世尊は、阿難にこのようにお告げになられました。

「三善根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができ るものです。 なにをもって三つの善根 (福)とするのでしょうか。 (第一に) いわゆる如来の所に おいて功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。 (第二に) 正法において功徳を種える、 この根(福)の功徳は無限です。(第三に) 聖衆において功徳を種える、この善根 (福)の功徳 は無限です。 阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるの です。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように 阿難よ、この三善根 (三福道)を学びなさい」

この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。

冒頭でも触れたように、 阿含宗では三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し

『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、

【三善根】さんぜんごん 無善根・無瞋善根・無癡善根の三根。 一切の善法がこの三つか ら生まれるからである。 それらは具体的には施・・慧となって現われる。 三毒の対

と書かれています。 しかし、この「三供養品」に説かれる三善根は、その内容がまったく異な ります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生 むもとだとわたくしは考えました。

それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?

「此の窮尽す可からざるの福を獲べし」

とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。 したがって、わたくしはこれを 「三福道」と命名しました。 この名称ならば無貪善根・無瞋善根・無癡善根の三善根と混同する ことはありません。

そこで、阿含宗では、三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。

さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根 (三福道)が必要なのだ、という ことをお釈迦さまが説かれているのが分かると思います。

涅槃界とはなんでしょうか?

阿含経・三供品

普通は涅槃の境地境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それ については後述します)。 『五戒品』 でも触れたように(本書三七頁参照)、涅槃とはサンスクリット 語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解脱の境地です。 完全解脱とは業と 因縁から完全に解放された状態です。

めんね てんしよう

わたくしたちは業と因縁の塊です。 業と因縁によって輪廻転生を続けています。 輪廻転生とは 生死の流転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪が廻るように絶え

〇九三

薬師如来

薬師如来

 

 

オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ

東方浄瑠璃世界の教主で、正式名を薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)といいます。

 

病気を治して衣食住を満たすという「十二の大願」を立て、生きている間に願いを叶えてくれます。阿弥陀如来のように死んだ後にやすらぎを与えるのではなく、現世にやすらぎを与えてくれるのが特徴です。昔の作例はとくに病気平癒を願ったものが多数存在します。

 

日光菩薩と月光菩薩を脇侍として三尊として並ぶことが多いです。さらに、7体の薬師如来で息災・増益を祈願する修法の本尊である七仏薬師というものも存在します。また、眷属として十二神将を従えています。

オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ

三つの因縁

 

前に解説したところでは三人分の頭蓋骨が登場し、それぞれの性別・死因 死後の行き先につ

いてミガシラバラモンが答えました。 一人目は多くの病を併発して全身が痛んで亡くなった男性 で、死後は三悪に堕ちていました。 ここでは三悪趣と表現されていますが、要するに地獄界・ 餓鬼・畜生界のいずれかに生じたということですね。 二人目は産厄で亡くなった女性で、死後 畜生界に生まれていました。三人目は飲食の過多による下痢で亡くなった男性で、餓鬼界に生

まれていました。いずれも因縁によって良くない亡くなり方をしているので、死後も悪趣の境界 で苦しんでいたわけです。

 

ところで、地獄界・餓鬼・畜生界に生じたという表現には、二通りの解釈が考えられます。 まず、人は、死後に「中有」(死んでから次の生を受けて生まれ変わるまでの中間的在り方)の世界 に入りますが、ほとんどの人は死後、意識が戻ると、そこから阿鼻野街道(死人街道・亡者街道) を通ってサイの広場へと向かいます。そしてサイの広場にある断崖絶壁から三途の川(三瀬川) に堕ちます。 その時、業の重さによって一番手前にある地獄界、中央にある餓鬼界、一番遠くに ある畜生界に通じる三つの瀬のいずれかに堕ちて、生前の罪をつぐなうために、急流によってそ れぞれの世界に運ばれたということです。

もう一つは、それぞれの世界で罪をつぐなってから冥界に到着し、そこからこの世界に転生し た時に、その因縁による環境や運命が、地獄界・餓鬼・畜生界のいずれかの境界であるとい うものです。

これをわたくしの著書『人はどんな因縁を持つか」(阿含宗教学部)と行

出版部)から引用敷衍すると、たとえば地獄界の境界では、次のような因縁によって苦しみま す。

自殺、他殺、事故死のいずれかに遭うという「横変死の因縁」。心がけの善い悪いにかかわら ず、刑事事件を起こして刑務所につながれる「刑獄の因縁」。恩を受けた人(主人、師、上長、取 引先 先輩など)をだましたり、傷つけたり、とにかく相手になにかしら損害を与えるという 「逆恩の因縁」。この逆の因縁の場合、性格としては、恩を仇で返すというようなものと反対に、 心に恩義に報いようとする心がけを持っていて、そのように努力をしながら、かえって結果的 には、その恩義を仇にして返すようなことになってしまうことがよくあります。だいたい、自分 にとって恩義のある人というのは、自分に好意を持ち、あるいは信用して、自分を引き立て、力 になってくれる人です。 こういう相手に、無意識とはいえそういう損害を与えたり、背いたりす るということは、自分で自分の手足をもぐことです。 自分の有力な味方を失うことになります。 そこで孤立無援となって、人生の失敗者となってゆきます。

また、肉親の者同士、血縁者同士が、互いに運気生命力を損ねあい、傷つけあって分散して ゆく「肉親血縁相剋の因縁」。

そういった因縁に苦しみます。

また、餓鬼界の境界では、次のような因縁に苦しみます。

必ず癌になるという「癌の因縁」。家の運気が次第に衰えてきている家系に生まれるという「家運衰退の因縁」。 これは、実力がありながら、妙にめぐり合わせが悪く、ウダツが上がらず、

年を取るほど運気が衰え、生活が悪くなっていくというものです。

そして、この因縁から出てくるのが、なにをやっても、一応、七、八分通りまでは順調に進む が、あともう一、二分というところで必ずダメになる、決して実らないという「中途挫折の因 縁」などです。

畜生界の境界に生まれると、次のような因縁に苦しみます。

目がつぶれて失明したり、手足を断つ、というように、肉体に障害を受ける「肉体障害の因 「縁」。つまり、けがの因縁で苦しみます。 また、精神病や頭部のけが、 または脳溢血、脳軟化症 等の病気で苦しむ、あるいは程度の軽い因縁の人は年中、頭痛、肩こり、不眠症などに悩まされ る「脳障害の因縁」などです。

これらの因縁についての詳細は、『人はどんな因縁を持つか」をお読みください。

地獄界に堕ちた人たちのありさまは、わたくしが霊視した結果の一部を著書 『守護神を持て」 や 『輪廻転生瞑想法I』(ともに平河出版社)などで紹介しましたが、餓鬼界では、飢えや渇きに 苦しみます。 同時に浮浪霊となってこの世をさまよっている餓鬼もおります。

阿含宗では、毎年、盂蘭盆会万燈先祖供養を行なっておりますが、 万燈のほかに必ず精霊棚と いうものを境内の暗い一角に設けて供養しています。 これは「施餓鬼供養」 つまり、 餓鬼の供養 のためなのです。餓鬼とは、日本の昔の絵巻物の一つである『餓鬼草子』に描かれているように、 皮膚が骨に張りついたように痩せこけて腹部だけが異様に膨れているという醜い姿で、いつもこ そこそと暗い隅に隠れて、餓えと渇きに苦しんでいる存在です。 わたくしの霊視では背丈は小さ く、三十~四十センチほどです。 彼らは自分の姿の醜さを知っているので、それを恥じて人前に

は出たがりません。 そこで境内の一角に暗い場所を造り、そこに特別に法を修したお供えをして 供養しているのです。 彼らは特別に法を修したお供物でないと口に入れることができません。 また、畜生() に生じるという場合、畜生界に堕ちて罪をつぐなったり、 この世界で畜生界 の境界に生まれ、その因縁に苦しむということのほかに、本当に、犬や豚や鶏に転生してしまう 場合があるのです。わたくしの霊視によると、死後、サイの広場に向かう阿鼻野街道の途中で、 生前自分に恨みを持っていた者に甘言で誘われることがあるのです。その死者は顔が生前とは変 わっているので、自分に恨みを持っていた相手だとは気がつきません。 誘いに乗ると大きな洞窟 に案内されて休むように勧められます。そこでうとうとしたかと思うと、目がさめると豚になっ ていたり、犬になっていたりするのです。