UA-135459055-1

仏教

間脳

 

間脳は自律神経の中枢を担っています。交感神経も、副交感神経も間脳から出発して、延髄を通り全身の末梢神経へと伸びています。

自律神経とは文字通り、自律して動く神経で、心臓や肺臓、胃腸などのすべての臓器を支配しています。ところで、呼吸だけは、自律神経によって働きながら、唯一、横隔膜と肋膜によってある程度自由に制御することが可能です。

呼吸中枢は延髄にありますが、交感神経、副交感神経ともに延髄を通って間脳に通じています。この呼吸を意図的に操作することで、私たちは、間脳にアプローチすることができるのです。

呼吸法により、延髄で結ばれた間脳と全身の神経が一体となり、徐々に覚醒していきます。2,500年も前、この呼吸の秘密に気付いた人間がいました。それが釈尊です。

釈尊の言葉を残した阿含経では安那般那相応やパーリ聖典の入出息念経にみるとおり、呼吸法を中心とした教説として独立した内容を持っています。

また、釈尊がいかに呼吸法を重視したかということも、これらの経典にははっきりと記されています。またこの呼吸法によって得られる効果というものは絶大で、パーリ聖典によれば、いわゆる非想非非想所までの禅定や、四念処をマスターし、随眠(潜在的に存在する貪・瞋・痴・慢・疑・悪見の六大根本煩悩)を永断し、諸漏を尽くすとあります。

禅定と四念処をマスターとありますが、この禅定と四念処はちまたに紹介されているような観念的な気付きの瞑想法にとどまらず、以下のような絶大な果報があるとされています。

 

『沙門果経』
パーリ語経典長部の『沙門果経』においては、釈迦がマガタ国王に仏教の沙門(出家修行者、比丘・比丘尼)の果報を問われ、まず戒律順守によって得られる果報、次に止行(禅定、四禅)によって得られる果報を次々と述べた後に、その先の観行(四念住(四念処))によって得られる果報を、以下のように述べている[2]。

(四禅の次に)「自身の身体が、元素から成り、父母から生まれ、食物の集積に過ぎず、恒常的でない衰退・消耗・分解・崩壊するものであり、意識もその身体に依存している」と悟れる (= 「身念住」(身念処))
(その次に)「思考で成り立つ身体(意生身)を生み出す」ことができる
(その次に)「様々な神通(超能力)を体験する」ことができる (以下、神足通)
「一から多に、多から一となれる」
「姿を現したり、隠したりできる」
「塀や、城壁や、山を通り抜けられる」
「大地に潜ったり、浮かび上がったりできる」
「鳥のように空を飛び歩ける」
「月や太陽をさわったりなでたりできる」
梵天の世界にも到達できる」
(その次に)「神のような耳(天耳通)を獲得する」ことができる
「神と人間の声を、遠近問わず聞くことができる」
(その次に)「他人の心を(自分の心として)洞察する力(他心通)を獲得する」ことができる
「情欲に満ちた心であるか否かを知ることができる」
「憎しみをいだいた心であるか否かを知ることができる」
「迷いのある心であるか否かを知ることができる」
「集中した心であるか否かを知ることができる」
「寛大な心であるか否かを知ることができる」
「平凡な心であるか否かを知ることができる」
「安定した心であるか否かを知ることができる」
「解脱した心であるか否かを知ることができる」
(その次に)「自身の過去の生存の境涯を想起する知(宿住通(宿命通))を獲得する」ことができる
「1つ、2つ…10…100…1000…10000の過去生を想起できる」
「それも、幾多の宇宙の生成(成刧)、壊滅(壊刧)を通して想起できる」
「それも、具体的・詳細な映像・内容と共に想起できる」
(その次に)「生命あるものの死と生に関する知(死生通(天眼通))を獲得する」ことができる
「生命あるものがその行為(業)に応じて、優劣、美醜、幸不幸なものになることを知ることができる」
「生命あるものが(身口意の)業の善悪により、善趣・天界や悪趣・地獄に生まれ変わることを知ることができる」
(その次に)「汚れの滅尽に関する知(漏尽通)を獲得する」ことができる
「苦しみ(汚れ)、苦しみ(汚れ)の原因、苦しみ(汚れ)の消滅、苦しみ(汚れ)の消滅への道(以上、四聖諦)を、ありのままに知ることができる」
「欲望・生存・無知の苦しみ(汚れ)から解放され、解脱が成され、再生の遮断、修行の完遂を、知ることができる」出典 六神通 -Wikipedia

また、漢訳経典にも無量種の神通力を得ようと欲するならば、この呼吸法を実践せよととかれています。

この呼吸法が四神足法と深い関係があることは言うまでもありません。もとより、このブッダの説いた呼吸法が、一種の健康法や、観念的な気付きの域にとどまるはずがありません。なぜならそれは大脳を改造し、人間をして、人間を超え、『沙門果経』にあるように、人にカルマを断つ力を与えるからです。

しかしながら、このブッダの説かれた安那般那念の具体的な方法は経典からではつまびらかにされていないのです。ただ、さまざまな種類の呼吸法が存在すると説かれているのみです。おそらく、言葉のみでは伝えきれない高度な技法であったためでしょう。

しかし、阿含経やパーリから、その断片を伺うことはできます。また釈尊の禅定から色濃く影響を受けたと思われる、ヨーガスートラや、仙道も参考にすることができます。

阿含宗開祖桐山靖雄師は、さまざまな実践的体験をもとに、仏陀の呼吸法から、四神足法までの成仏法を完全に復元し、ご著書『仏陀の法』で解き明かしています。

詳細は桐山靖雄師の上記のご著書をぜひご一読願いたいと思います。

四神足法

 

 

彼は、四神足法に深く没頭していた。それは仏陀の成仏修行法の中心であり、彼の修行のすべてがこの四神足法に捧げられていた。教えと法、この二つの柱に支えられた修行法だが、真の力は「法」、すなわち四神足法にあった。五力法や四念柱、四正断、七覚支、八正道といった教えは補助にすぎず、彼の道を照らす光であった、

 

 

シャカの成仏法「七科三十七道品」

シャカの成仏法「七科三十七道品」

ニルヴァーナの智慧を獲得する修行法
「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法(ぼだいぶんぽう)」

神聖なる智慧を獲得するための七種類のシステムと、三十七種類のカリキュラム
ブッダの説かれた阿含の経典群の中には、ニルヴァーナを表現したと思われる経典、仏典を見出すことができるのです。
それどころか、ニルヴァーナの智慧を獲得する修行法までも、発見できるのです。
その修行法とは、「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法」と名づけられた修行法です。これは、七科目・三十七種類にわたる教科目であり、桐山管長は、これを「神聖なる智慧を獲得するための七種のシステムと、三十七種類のカリキュラム」と呼んでいます。世の人々は、大乗仏教だけしか知らないために、仏教にこういう経典のあることをほとんど知りません。
パーリ文「中阿含」第百三の kinti sutta につぎのように述べられています。
ここに比丘らよ、われによりて法は悟られ、汝らに説かれたり。すなわち四念住・四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八正道これなり。それゆえにすべての比丘らは相和し相欣び、争うことなくして、これを学ばざるべからず。
ブッダによってさとられた智慧の獲得の修行法、実践法が、ここに明らかにのべられています。
阿含経に説かれたこの七科目の修行法は、アビダルマ論師によって「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法」と名づけられました。さとりにいたる三十七の修行法という意味です。

四念住法(しねんじゅうほう)
旧訳では四念処(しねんじょ)といいます。四念処観ともいいます。さとりを得るための四種の内観・瞑想法です。身念住(しんねんじゅう)・受念住(じゅねんじゅう)・心念住(しんねんじゅう)・法念住(ほうねんじゅう)の四つです。

四正断法(ししょうだんほう)
旧訳では四正勤といいます。断断(だんだん)・律儀断(りつぎだん)・随護断(ずいごだん)・修断(しゅだん)の4つの修行。

四神足法(しじんそくほう)
四如意足とも訳す。
四つの自在力を得るための根拠となるもの。超自然的な神通力を得るための4種『欲神足(よくじんそく)・勤神足(ごんじんそく)・心神足(しんじんそく)・観神足(かんじんそく)』の修行法。

五根法(ごこんほう)
信根(しんこん)・精進根(しょうじんこん)・念根(ねんこん)・定根(じょうこん)・慧根(えこん)の五つ。根とは自由にはたらく能力をいう。仏法僧の三宝にたいする信と、精進・念・禅定(瞑想)・智慧が、ニルヴァーナに向かって高い能力を発揮する修行。

五力法(ごりきほう)
信力(しんりき)・精進力(しょうじんりき)・念力(ねんりき)・定力(じょうりき)・慧力(えりき)(または智力)。ニルヴァーナに至る高度な力を得る修行。

七覚支法(しちかくしほう)
択法覚支(ちゃくほうかくし)・精進覚支(しょうじんかくし)・喜覚支(きかくし)・軽安覚支(きょうあんかくし)・捨覚支(しゃかくし)・定覚支(じょうかくし)・念覚支(ねんかくし)の七つをいう。ニルヴァーナへみちびく七つの修行。

八正道法(はっしょうどうほう)(八聖道とも書く)
理想の境地に達するための八つの道『正見(しょうけん)・正思惟(しょうしゆい)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)』

以上が、「七科三十七道品」です。
四念住法・五根法、これは、瞑想です。
四正断法・五力法・七覚支法・八正道法は、実践と瞑想です。
四神足法は、特殊な tapas( 練行)です。神足とは、神通力(超人的能力)のことで、この四神足法は、超自然的な神通力を得るための四種の修行法です。

 

「四念処」というのは、心を清らかにし、解脱するための冥想です。これも身・受・心・法の四つにまとめてありますから覚えやすいですし、実践しやすいでしょう。身体(身)の冥想から始めて、感覚(受)の冥想に入り、心の冥想にも入って、なんのことなく真理(法)の冥想に進んでいきます。見事な組み立てになっているのです。

 

 

阿含宗開祖である、桐山靖雄師は、たびたびご著書のなかで、大脳の働きを自在にコントロールする技術が阿含経の成仏法である四神足法のなかにあったと指摘されています。

 

倶舎論記における四神足
欲三摩地断行成就神足(梵: Chanda-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3][4]、よくさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) – 意欲によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
勤三摩地断行成就神足(梵: Vīrya-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、ごんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) – 精進によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
心三摩地断行成就神足(梵: Citta-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、しんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) – 心によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
観三摩地断行成就神足(梵: Mīmāṃsā-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、かんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) – 観によって様々な神通力を起こす三昧[2]。

アビダンマッタサンガハにおける四神足
欲神足 (巴: chandiddhipāda[1]) – 禅・道・果の成就のための、意欲という基礎[1]。
勤神足 (巴: viriyiddhipāda[1]) – 禅・道・果の成就のための、精進という基礎[1]。
心神足 (巴: cittiddhipāda[1]) – 禅・道・果の成就のための(二十一種の善心である)心という基礎[1]。
観神足 (巴: vīmaṃsiddhipāda[1]) – 禅・道・果の成就のための、観という基礎[1]。

 

中村元における四神足
欲神足 – すぐれた瞑想を得ようと願うこと[5]。
勤神足 – すぐれた瞑想を得ようと努力すること[5]。
心神足 – 心をおさめて、すぐれた瞑想を得ようとすること[5]。
観神足 – 智慧をもって思惟観察して、すぐれた瞑想を得ること[5]。

 

大脳、とりわけ間脳を自在にコントロールする技術にしては、上記の言葉の羅列に拍子抜けしますが、なにやら神秘的な力を起こす基礎であることは間違いないようです。

しかしながら四神足と間脳を結びつける論拠は何でしょうか?

いくつかの証拠を挙げることができます。

 

 

 

倶舎論記における四神足
欲三摩地断行成就神足(梵: Chanda-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3][4]、よくさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) – 意欲によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
勤三摩地断行成就神足(梵: Vīrya-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、ごんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) – 精進によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
心三摩地断行成就神足(梵: Citta-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、しんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) – 心によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
観三摩地断行成就神足(梵: Mīmāṃsā-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、かんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) – 観によって様々な神通力を起こす三昧[2]。

アビダンマッタサンガハにおける四神足
欲神足 (巴: chandiddhipāda[1]) – 禅・道・果の成就のための、意欲という基礎[1]。
勤神足 (巴: viriyiddhipāda[1]) – 禅・道・果の成就のための、精進という基礎[1]。
心神足 (巴: cittiddhipāda[1]) – 禅・道・果の成就のための(二十一種の善心である)心という基礎[1]。
観神足 (巴: vīmaṃsiddhipāda[1]) – 禅・道・果の成就のための、観という基礎[1]。

 

中村元における四神足
欲神足 – すぐれた瞑想を得ようと願うこと[5]。
勤神足 – すぐれた瞑想を得ようと努力すること[5]。
心神足 – 心をおさめて、すぐれた瞑想を得ようとすること[5]。
観神足 – 智慧をもって思惟観察して、すぐれた瞑想を得ること[5]。

 

大脳、とりわけ間脳を自在にコントロールする技術にしては、上記の言葉の羅列に拍子抜けしますが、なにやら神秘的な力を起こす基礎であることは間違いないようです。

しかしながら四神足と間脳を結びつける論拠は何でしょうか?

いくつかの証拠を挙げることができます。

 

間脳は自律神経の中枢を担っています。交感神経も、副交感神経も間脳から出発して、延髄を通り全身の末梢神経へと伸びています。

自律神経とは文字通り、自律して動く神経で、心臓や肺臓、胃腸などのすべての臓器を支配しています。ところで、呼吸だけは、自律神経によって働きながら、唯一、横隔膜と肋膜によってある程度自由に制御することが可能です。

呼吸中枢は延髄にありますが、交感神経、副交感神経ともに延髄を通って間脳に通じています。この呼吸を意図的に操作することで、私たちは、間脳にアプローチすることができるのです。

呼吸法により、延髄で結ばれた間脳と全身の神経が一体となり、徐々に覚醒していきます。2,500年も前、この呼吸の秘密に気付いた人間がいました。それが釈尊です。

釈尊の言葉を残した阿含経では安那般那相応やパーリ聖典の入出息念経にみるとおり、呼吸法を中心とした教説として独立した内容を持っています。

また、釈尊がいかに呼吸法を重視したかということも、これらの経典にははっきりと記されています。またこの呼吸法によって得られる効果というものは絶大で、パーリ聖典によれば、いわゆる非想非非想所までの禅定や、四念処をマスターし、随眠(潜在的に存在する貪・瞋・痴・慢・疑・悪見の六大根本煩悩)を永断し、諸漏を尽くすとあります。

禅定と四念処をマスターとありますが、この禅定と四念処はちまたに紹介されているような観念的な気付きの瞑想法にとどまらず、以下のような絶大な果報があるとされています。

 

『沙門果経』
パーリ語経典長部の『沙門果経』においては、釈迦がマガタ国王に仏教の沙門(出家修行者、比丘・比丘尼)の果報を問われ、まず戒律順守によって得られる果報、次に止行(禅定、四禅)によって得られる果報を次々と述べた後に、その先の観行(四念住(四念処))によって得られる果報を、以下のように述べている[2]。

(四禅の次に)「自身の身体が、元素から成り、父母から生まれ、食物の集積に過ぎず、恒常的でない衰退・消耗・分解・崩壊するものであり、意識もその身体に依存している」と悟れる (= 「身念住」(身念処))
(その次に)「思考で成り立つ身体(意生身)を生み出す」ことができる
(その次に)「様々な神通(超能力)を体験する」ことができる (以下、神足通)
「一から多に、多から一となれる」
「姿を現したり、隠したりできる」
「塀や、城壁や、山を通り抜けられる」
「大地に潜ったり、浮かび上がったりできる」
「鳥のように空を飛び歩ける」
「月や太陽をさわったりなでたりできる」
梵天の世界にも到達できる」
(その次に)「神のような耳(天耳通)を獲得する」ことができる
「神と人間の声を、遠近問わず聞くことができる」
(その次に)「他人の心を(自分の心として)洞察する力(他心通)を獲得する」ことができる
「情欲に満ちた心であるか否かを知ることができる」
「憎しみをいだいた心であるか否かを知ることができる」
「迷いのある心であるか否かを知ることができる」
「集中した心であるか否かを知ることができる」
「寛大な心であるか否かを知ることができる」
「平凡な心であるか否かを知ることができる」
「安定した心であるか否かを知ることができる」
「解脱した心であるか否かを知ることができる」
(その次に)「自身の過去の生存の境涯を想起する知(宿住通(宿命通))を獲得する」ことができる
「1つ、2つ…10…100…1000…10000の過去生を想起できる」
「それも、幾多の宇宙の生成(成刧)、壊滅(壊刧)を通して想起できる」
「それも、具体的・詳細な映像・内容と共に想起できる」
(その次に)「生命あるものの死と生に関する知(死生通(天眼通))を獲得する」ことができる
「生命あるものがその行為(業)に応じて、優劣、美醜、幸不幸なものになることを知ることができる」
「生命あるものが(身口意の)業の善悪により、善趣・天界や悪趣・地獄に生まれ変わることを知ることができる」
(その次に)「汚れの滅尽に関する知(漏尽通)を獲得する」ことができる
「苦しみ(汚れ)、苦しみ(汚れ)の原因、苦しみ(汚れ)の消滅、苦しみ(汚れ)の消滅への道(以上、四聖諦)を、ありのままに知ることができる」
「欲望・生存・無知の苦しみ(汚れ)から解放され、解脱が成され、再生の遮断、修行の完遂を、知ることができる」出典 六神通 -Wikipedia

また、漢訳経典にも無量種の神通力を得ようと欲するならば、この呼吸法を実践せよととかれています。

この呼吸法が四神足法と深い関係があることは言うまでもありません。もとより、このブッダの説いた呼吸法が、一種の健康法や、観念的な気付きの域にとどまるはずがありません。なぜならそれは大脳を改造し、人間をして、人間を超え、『沙門果経』にあるように、人にカルマを断つ力を与えるからです。

しかしながら、このブッダの説かれた安那般那念の具体的な方法は経典からではつまびらかにされていないのです。ただ、さまざまな種類の呼吸法が存在すると説かれているのみです。おそらく、言葉のみでは伝えきれない高度な技法であったためでしょう。

しかし、阿含経やパーリから、その断片を伺うことはできます。また釈尊の禅定から色濃く影響を受けたと思われる、ヨーガスートラや、仙道も参考にすることができます。

阿含宗開祖桐山靖雄師は、さまざまな実践的体験をもとに、仏陀の呼吸法から、四神足法までの成仏法を完全に復元し、ご著書『仏陀の法』で解き明かしています。

詳細は桐山靖雄師の上記のご著書をぜひご一読願いたいと思います。

 

 

 

 

如来の福音の歌 The Gospel of the Tathagata 2

 

如来の福音の歌 The Gospel of the Tathagata

静寂の夜に経典開き
覚慧の祈り、胸に秘める
三福の道が光を放つ
涅槃を目指す旅の始まり

ああ、如来の福音よ
迷える心を癒し導く
須陀洹への飛躍の力
希望を抱き歩み出そう

The Gospel of the Tathagata

In the still of the night, a scripture unfolds,
Kakuye’s prayer, a secret he holds.
The path of three virtues shines so bright,
A journey to Nirvana begins tonight.

Ah, the gospel of the Tathagata’s light,
Healing hearts lost in the night.
The leap to Sotāpanna, a guiding star,
With hope embraced, we walk afar.

 

如来の福音

月明かりが静かに山寺を照らす夜、一人の修行僧が古い経典を手にしていた。その顔には厳粛な表情が浮かび、時折深い溜息をつく。僧の名は覚慧(かくえ)、この地で修行に励む一人の求道者である。彼が手にしているのは、「三福道」と呼ばれる教えを記した経典だった。

経典には、聖者となるための三つの方法が説かれていた。

第一に、如来のもとで功徳を積むこと。

第二に、正法の中において功徳を積むこと。

第三に、聖なる師や弟子たちとのつながりを通じて功徳を積むこと。

これらを実践することで、須陀洹(しゅだおん)、斯陀含(しだごん)、阿那含(あなごん)の三段階を経て、最終的に涅槃界に至るというのだ。

覚慧はその言葉に深い魅力を感じると同時に、一抹の落胆を覚えていた。

「果たしてこれほどの道を歩むことが、凡夫である私に可能なのだろうか?」

彼は静かに経典を閉じ、目を閉じて瞑想に入った。そこに浮かび上がるのは、修行を始めたばかりのころの自分だった。悩み、迷い、何度も挫けそうになった記憶がよみがえる。それでも彼は、師の教えに従い、一歩一歩進んできたのだ。

経典に戻ると、そこには「須陀洹」への道が記されていた。

「凡夫が聖者になる第一歩――須陀洹に至ることが、最も難しいとされる。しかし、この三福道を実践すれば、必ず聖者への道が開ける。」

その一文に、覚慧の心は揺れた。

「確かに、凡夫である自分が聖者の領域に足を踏み入れるのは、大きな飛躍だ。しかし、この経典に説かれているのは、如来への功徳による道。それは末法の時代に生きる私たちにとって、救いとなる福音なのではないか?」

彼の中で希望が湧き上がり始めた。それは単なる夢想ではなく、師や聖者たちの教えを通じて確かに感じられるものだった。

覚慧は経典の最後の言葉を目で追った。「末法の時代において、この三福道を学ぶことは如来からの福音であり、同時に警告である。」

その言葉に背筋が伸びる思いがした。彼は決意を新たに、静かに呟いた。

「私はこの三福道を修め、まず須陀洹に至ろう。そして、すべての人々がこの道を歩む助けになりたい。それが私の誓願だ。」

夜の静けさの中、覚慧の決意はまるで月の光に包まれるように、澄み渡っていた。

如来の福音の歌 The Gospel of the Tathagata

如来の福音の歌 The Gospel of the Tathagata

静寂の夜に経典開き
覚慧の祈り、胸に秘める
三福の道が光を放つ
涅槃を目指す旅の始まり

ああ、如来の福音よ
迷える心を癒し導く
須陀洹への飛躍の力
希望を抱き歩み出そう

The Gospel of the Tathagata

In the still of the night, a scripture unfolds,
Kakuye’s prayer, a secret he holds.
The path of three virtues shines so bright,
A journey to Nirvana begins tonight.

Ah, the gospel of the Tathagata’s light,
Healing hearts lost in the night.
The leap to Sotāpanna, a guiding star,
With hope embraced, we walk afar.

 

如来の福音

月明かりが静かに山寺を照らす夜、一人の修行僧が古い経典を手にしていた。その顔には厳粛な表情が浮かび、時折深い溜息をつく。僧の名は覚慧(かくえ)、この地で修行に励む一人の求道者である。彼が手にしているのは、「三福道」と呼ばれる教えを記した経典だった。

経典には、聖者となるための三つの方法が説かれていた。

第一に、如来のもとで功徳を積むこと。

第二に、正法の中において功徳を積むこと。

第三に、聖なる師や弟子たちとのつながりを通じて功徳を積むこと。

これらを実践することで、須陀洹(しゅだおん)、斯陀含(しだごん)、阿那含(あなごん)の三段階を経て、最終的に涅槃界に至るというのだ。

覚慧はその言葉に深い魅力を感じると同時に、一抹の落胆を覚えていた。

「果たしてこれほどの道を歩むことが、凡夫である私に可能なのだろうか?」

彼は静かに経典を閉じ、目を閉じて瞑想に入った。そこに浮かび上がるのは、修行を始めたばかりのころの自分だった。悩み、迷い、何度も挫けそうになった記憶がよみがえる。それでも彼は、師の教えに従い、一歩一歩進んできたのだ。

経典に戻ると、そこには「須陀洹」への道が記されていた。

「凡夫が聖者になる第一歩――須陀洹に至ることが、最も難しいとされる。しかし、この三福道を実践すれば、必ず聖者への道が開ける。」

その一文に、覚慧の心は揺れた。

「確かに、凡夫である自分が聖者の領域に足を踏み入れるのは、大きな飛躍だ。しかし、この経典に説かれているのは、如来への功徳による道。それは末法の時代に生きる私たちにとって、救いとなる福音なのではないか?」

彼の中で希望が湧き上がり始めた。それは単なる夢想ではなく、師や聖者たちの教えを通じて確かに感じられるものだった。

覚慧は経典の最後の言葉を目で追った。「末法の時代において、この三福道を学ぶことは如来からの福音であり、同時に警告である。」

その言葉に背筋が伸びる思いがした。彼は決意を新たに、静かに呟いた。

「私はこの三福道を修め、まず須陀洹に至ろう。そして、すべての人々がこの道を歩む助けになりたい。それが私の誓願だ。」

夜の静けさの中、覚慧の決意はまるで月の光に包まれるように、澄み渡っていた。

この文章をの作詩ください。
歌詞はイントロ4行、サビ4行してください

 

 

 

 

 

准胝観音 3Juntei Kannon

准胝観音 七倶胝仏母Juntei Kannon

 

准胝仏母(じゅんていぶつも)・七倶胝仏母(しちくていぶつも)ともいいます。もとはヒンドゥー教の女神であるドゥルガーで、シヴァ神の妃とされています。とても美しい姿ですが、神々の武器を持って魔族を倒した戦いの女神です。そのため本来は女尊であり、観音ではないという指摘もあります。しかし、ここでは観音として紹介しますね。

 

仏教に取り入れられてからは慈悲深い清浄をもたらす神とされ、七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)ともいわれています。これは遙か過去より多くの仏を誕生させた仏の母という意味です。そのため、真言宗系では人道を救済する六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音)に数えられますが、天台宗系では准胝仏母といわれ如来に分類されています。不空羂索観音と合わせて七観音と呼ばれることもありま

修道者守護、無病息災、延命のご利益があり、安産や子供が授かるなどの功徳があります。

 

空海の孫弟子にあたる理源大師(りげんだいし)聖宝は修験の僧として知られ、自ら霊木を刻んで祀ったのが准胝観音と如意輪観音でした。経典には、修験者が准胝陀羅尼を唱えれば身が清浄となり成仏できると説かれています。また聖宝は醍醐天皇の皇子誕生を准胝観音に祈願し、のちの朱雀、村上両天皇が誕生したといいます。そのため一般的には子授け、安産としての功徳が知られています。

手は18本で3つ目の姿であることが多いです。中央の手は説法印と施無畏印をとります。また持ち物は武器や数珠、蓮華などを持っています。

オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ

 

 

准胝観音の物語

遥か昔、世界のあらゆる存在が調和を求めていた時代。山奥の秘境にて、母なる慈悲と戦いの力を宿した女神が降り立った。名を准胝観音(じゅんていかんのん)という。彼女はヒンドゥーの女神ドゥルガーとして知られ、無数の魔族と戦い、多くの生命を救った。その美しさは神々をも魅了し、持つ武器は闇を一掃するほどの力を秘めていた。

しかし、彼女の物語はそこで終わらない。仏教の地にその姿が伝わると、准胝観音は慈愛に満ちた母性の象徴として人々に崇められるようになる。「仏の母」として、無数の仏を生み出し、清浄なる心と安らぎをもたらす存在へと変容したのだ。七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)とも呼ばれ、修行者や人々を守護する役割を担うこととなった。

山中の修験者の祈り

時は移り、山深い霊地に一人の修験僧が住んでいた。その名は理源大師(りげんだいし)聖宝。彼はある夜、夢で准胝観音の啓示を受ける。霊木を削り、その姿を彫り上げれば、天の加護が授けられるというのだ。聖宝は日夜木を削り、心を込めて准胝観音像を作り上げた。

ある日、醍醐天皇の后が皇子を授かるための祈願を行うことになった。聖宝は准胝観音に祈りを捧げた。「母なる観音よ、この願いを叶えたまえ。」その祈りは天に届き、やがて朱雀天皇、そして村上天皇が生まれることとなる。准胝観音の力は、子授けと安産の功徳として広く知られるようになった。

十八本の手と三つの目

准胝観音の像容は、見る者を畏怖させる。十八本の手はそれぞれ武器、数珠、蓮華を持ち、慈悲と力を表している。その中央の手は説法印と施無畏印を示し、恐れや迷いを取り除く。その三つの目は過去、現在、未来を見通す力を持ち、すべての存在を導く。

静かに佇む准胝観音の姿は、祈る者の心を癒し、希望を灯す。彼女は戦いの神でありながら、母としての愛と慈悲を抱き、人々を救う。山中の風が吹き渡る中、その神秘的な姿は今もなお語り継がれている。

 

准胝観音の歌

遥か彼方の山の奥
母なる慈悲が降り立つ時
戦いの炎を抱きしめて
闇を祓うその手のひら

ああ、准胝の光よ
未来を照らし、夢を繋げ
十八の手が救う命
母の愛がここに宿る

The Song of Juntei Kannon

Far away in the mountain’s embrace,
A mother’s mercy descends with grace.
Embracing flames of battle untold,
Her hands dispel the darkness cold.

Oh, light of Juntei shining bright,
Guiding dreams and futures alight.
Eighteen hands that save and heal,
A mother’s love, eternal and real.