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仏教

千手千眼観自在菩薩

千手千眼観自在菩薩

 

 

千手観音

千の手と千の目で一切の衆生を救う観音菩薩

千手観音(せんじゅかんのん)は、仏教における観音菩薩(観自在菩薩)の一つの姿で、特に「大慈悲」を象徴する存在です。その正式な名称は「千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)」であり、千の手と千の眼を持つとされています。

特徴

千の手と千の眼
千の手は、すべての苦しむ人々を救うために差し伸べられる慈悲の手を象徴し、手のひらの千の眼は、すべての苦悩を見逃さない智慧を表しています。実際には「千」という数は無限を象徴しており、広大無辺な力と慈悲を表します。

別名

大悲観音(だいひかんのん)
大いなる慈悲の象徴であることからこの名で呼ばれます。

蓮華王(れんげおう)
観音菩薩が観音の王とされることを意味します。

配下の存在
千手観音は、二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)と呼ばれる守護者たちを従えています。これらには、阿修羅(あしゅら)や金剛力士(こんごうりきし)などが含まれます。

信仰と役割

千手観音は、仏教徒にとって苦難や災難から救済をもたらす存在として広く信仰されています。特に、悩みや苦しみから救われたいと願う人々が祈りを捧げる対象です。また、日本の仏教寺院には、千手観音像が多く安置されており、美術的にも非常に重要な存在とされています。

千手観音は、観音菩薩の中でも特に万能で慈悲深い存在とされ、あらゆる方向に救いの手を伸ばす象徴として多くの人々に崇敬されています。

 

 

千手観音(せんじゅかんのん)とは?

別名 千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)とも言い、生きとし生けるものすべてを漏らさず救う、大いなる慈悲を表現する菩薩です。千の手と手のひらの千の眼によって悩み苦しむ衆生を見つけては手を差し伸べる広大無限な功徳と慈悲から「大悲観音」、または観音の王を意味する「蓮華王」とも称されます。阿修羅や金剛力士などが属する二十八部衆を配下とします。

 

観音の中でも功徳が大きく、観音の中の王という意味で「蓮華王」と呼ばれることもあります。阿修羅や金剛力士などの二十八部衆を配下にしています。また六観音の一つに数えられ餓鬼道に迷う人々を救うといわれています。

 

災難除け、延命、病気治癒などあらゆる現世利益を網羅し、特に夫婦円満、恋愛成就に功徳があるとされています。子年の守り本尊でもあり、子年生まれの人の開運、厄除け、祈願成就を助けるとされます。

千手観音(せんじゅかんのん)の像容

十一面四十二臂(ひ)で表されることが多く、四十二本の手のうち四十本それぞれが二十五の世界を救うことを示します。手には宝剣、髑髏杖、水瓶など実に様ざまな持物(じもつ)を持ち、多種多様な徳を表しています。

オン・バザラ・タラマ・キリク

 

薬師如来

その他すべての日本の仏教がお祀りして拝んでいる仏は、観念上の仏

で、実在の仏ではない。

世にある薬師如来もまた架空の仏である。創作経典上に現れるだけ の仏である。何らの救済力もない空想上の仏に過ぎない。

薬師如来を表に立てる釈迦、 秦師、準低、三身即一の如来はそうではない。

この三身即一の薬師如来は、現存の仏陀である釈迦の成仏法とブータン仏教の霊法を綜合した完全仏教の秘法によって開眼され、準胝如 来の救済力を持ち、病苦の衆生を救う。

病に苦しむ者多き現代に、まさに渇仰すべき仏である。

 

この三身即一の薬師如来のお力の偉大なところは、身体の病だけでなく、心の病に苦しむ衆生をも救うというところである。

私は若い頃、結核を思ったが、いちばん苦しかったのは、病気その ものの苦しみより、病気からくる様々な悩みだった。病床に臥したま ま、あと数年で死ぬのか、万一治ったとしても一生廃人で過ごさなけ ればならないのかと妮践する。また、経済的に困る、家族に迷惑をか ける、職場を離れて勤められなくなる、そういった悩みの方がよっぽど苦しい。

この三身即一の薬師如来のお力の偉大なところは、身体の病だけで

 

悩んだ末に、結局、宗教に行きついた。

そして、「病気は仕方がない。しかし病気から生ずる悩み苦しみに、

死ぬまで取り憑かれて問々とするのはかなわない。悩みは一切思わないことにしよう。治らなかったら、治らなかったでいいじゃないか。 生きているうちは、その日その日を楽しく過ごそう」と決意し、お経 を読んだりして、努めて心を平静に保つようにした。すると不思議なことに、身体の方も良くなり、だんだん病気が治っていったのである。

病気や色々な境遇の苦しみから救われようと思ったならば、まず回 心、心の向きを変えるということが大切なのである。

宗教、信仰というものは、心の病を治すところから入ってゆく。心 が変わらずして、身体や境遇が変わることはない。だから、病気が苦 しいから信仰に入ったという人は、まず、心構えから変えてゆくとい うことである。

「病気が治る」と一言でいうが、病気が治るということは因縁が切 れる、因縁が変わるということである。因縁のもとは自分の心なのだ から、自分の心を変えてゆかなければならない。

この病気の因縁のもととなる心を変え、身体の因縁を断ち切るお力 を授けてくださるのが三身即一の薬師如来なのである。

 

正像末三時正法経

夜明け前の牧牛村には、冷たく澄んだ空気が漂っていた。この小さな村は拘留国の辺境に位置し、あらゆる色の牛がのんびりと草を食む平和な光景が広がっていた。だが、この静寂の中、ひときわ輝く存在がそこにいた。

仏は、村外れの木陰に佇み、目を閉じて深い思索にふけっていた。その前には数十人の比丘たちが静かに座り、仏の一言一言に耳を傾けている。彼らの目には、学びへの渇望と敬意が映し出されていた。

仏は静かに目を開き、優しい微笑みを浮かべながら語り始めた。

「比丘たちよ、我は知見を以て、諸漏を尽きることができた。それは無知によるものではない。汝らは知見とは何かを知りたいと思うだろう。ならば聞きなさい。この色、この色の集まり、この色の滅び――受、想、行、識もまた同じである。それらが集まり、そして消えていく。この道理を理解しなければ、どれほど努力しても漏尽解脱を得ることはできないのだ。」

比丘たちは息を飲んだ。その言葉の中には、人生の本質が込められているように感じられた。

仏は続けた。「方便を修め、随順に成就しなければならない。もしもそれを怠れば、真理に到達することはできない。まるで鶏が卵を温めずに雛が自ら生まれることを願うようなものだ。それは不可能だろう。」

仏の言葉に、比丘たちは深く頷いた。真理は厳しく、しかし慈悲深い。仏の語る智慧は、彼らの心を浄化し、さらなる修行への道を照らしていた。

この日、六十人の比丘が仏の教えに心を開き、漏尽解脱を果たしたという。仏の言葉は終わり、静寂が戻った。だが、比丘たちの心には新たな光が灯っていた。それは、真理への渇望と決意の輝きだった。

そして仏は、再び微笑みを浮かべ、遠くの空を見上げた。その眼差しは、さらに多くの迷える人々を救う未来を見据えているようだった。

 

阿含経

五の下分結とは?

成仏への道は、まず、悩を断ち切るところからはじまる。

その煩悩は、「根本煩悩」といういちばん基本的な煩悩と、そこから流れ出てくる十種類の「臨煩悩」という煩悩から成り立っている。

根本煩悩を「渇愛」という。はげしい渇きにたとえられるつよい煩悩である。そこか ら十種類の煩悩―――随煩悩が出てくるのであるが、この十随煩悩を「十結」という。な ぜ、「結」というかというと、これが、人間のこころと体と魂をかたく結束し、束縛し て、自由にさせない。そこで「結」というのである。

この十結をすべて断ち切る道品法の修行を進めていくと、こころがしだいに浄化・高 揚しはじめる。さきの章の表現でいうと、大脳辺縁系と新皮質系が変化しはじめる。さ らに進むと、開脳系が震動しはじめる。それはまさに、震動ということばより適切な表現はみあたらない。

煩悩を断つ、というが、これはただたんに道徳的なこころの持ちぬしになる、という ようなものではないのである。信教や倫理や道徳と、釈尊の成仏法のちがいはそこにあ る。雪教や道徳や倫理の教えで、たんに欲望をなくすというようなものではないのであ る。それは異質なものへの変化である。変化というより、飛躍である。

これまでの仏教が考えていたような、煩悩(欲)をなくして道徳的に完成する、とい った程度のものではないのである。釈尊の成仏法によって煩悩をなくす修行をしている と、異質なものへの飛躍・変化がはじまるのである。すこしオーバーにいうと、煩悩を なくすのが目的ではなくて(それも目的だが)それは手段なのである。文字やことばで は表現しきれないのが残念であるが、さいごの瞬間に、飛翔がある。ニルヴァーナとい う異次元世界への飛翔である。これから「十結煩悩」の説明をするが、成仏とはただた んにこういう煩悩(欲)をなくした道徳的な変化というだけのものではないことを知っ ておいていただきたいのである。

十結をのべると、つぎの通りである。

予告された如来の復活

阿含経  和訳

れている。 それでは、釈尊が、成仏法をもって、どのように弟子たちを修行させ、成仏させてい たか、それについてみてみよう。雑阿含経の『出家経』というお経に、くわしくのべら

仏界はすべての霊界の上にある。ニルヴァーナがそれである。成仏法がないと、どん なに修行しても、完全解脱してニルヴァーナに到達することができないのである。はじ めから縁が生じないのだから、どうしようもないのだ。だからこそ、釈尊が、口をきわ めて、成仏法の大切なことを教えておられるのである。

成仏法を持つと、ただちに仏界に縁が生じ、仏界の加護をうけて、わが身、わが家が 霊的にきよめられ、高められて、やがて必ず仏界に到達するのである。成仏法がない と、これができない。このことについては、また、あとでのべよう。