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仏教

千手観音—千の手を持つもの

千手観音—千の手を持つもの

第一章 蓮華の王

深い霧が立ち込める山奥の寺院。そこには、千の手と千の目を持つ観音菩薩——千手観音が鎮座していた。彼の眼は慈悲に満ち、手は常に衆生を救うために広げられている。

老僧が静かに祈りを捧げる中、一人の旅人がその堂へと足を踏み入れた。彼の名は修真(しゅうしん)、長年にわたり心の迷いを抱え、真の救いを求めていた。

「千手観音……本当にすべての者を救ってくださるのでしょうか?」

修真は、仏像を見上げながら静かに問う。答える者はない。ただ、堂内に灯された灯明がゆらゆらと揺れ、仏の影を床に映し出すばかりだった。

「観音菩薩は、どんな者も漏らさず救うお方だ。」

老僧がそう告げると、修真はさらに問うた。

「では、私のような者でも救われるのでしょうか?」

「観音は千の手を持つ。だが、そのすべての手が、誰かを救うためにあるのではない。千の目が、すべての衆生を見つめるが、すぐに手を差し伸べるわけではない。大切なのは、お前自身がどう生きるかだ。」

修真はその言葉を胸に刻み、再び観音を見上げた。その目に映る千の手は、まるで夜空に広がる星々のように、果てしない慈悲をたたえていた。

第二章 千の手と千の目

千手観音の姿は、十一の顔と四十二の腕を持つとされる。四十二の腕のうち、四十本はそれぞれが二十五の世界を救うという。つまり、無数の世界に手を差し伸べる存在なのだ。その手には、宝剣、髑髏杖、水瓶……さまざまな持ち物が握られている。それは、観音の持つ無限の徳の象徴だった。

ある夜、修真は夢を見た。

闇の中、彼はひとりぼっちだった。寒さに震え、どこへ行けばいいのかもわからない。だが、その時、どこからともなく温かい光が差し込んだ。

「オン・バザラ・タラマ・キリク……」

どこかで聞いたことのある声が響く。修真が顔を上げると、そこには無数の手が差し伸べられていた。その手のひらには、一つ一つに目があり、彼を優しく見つめている。

「迷うことはない。お前の行くべき道を見つけなさい。」

気がつくと、修真は寺の床の上に座っていた。夜明けの光が差し込み、千手観音の像が輝いて見える。

「観音菩薩……私は、まだ何も知りません。しかし、進むべき道を探します。」

そう誓うと、彼は再び旅立った。千の手を持つものが見守る中で。

千手観音

千手観音(せんじゅかんのん、सहस्रभुज、[sahasrabhuja]、サハスラブジャ)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。

「サハスラブジャ」とは「千の手」あるいは「千の手を持つもの」の意味である。この名はヒンドゥー教ヴィシュヌ神やシヴァ神、女神ドゥルガーといった神々の異名でもあり、インドでヒンドゥー教の影響を受けて成立した観音菩薩の変化身(へんげしん)と考えられている。六観音の一尊でもある。

三昧耶形は開蓮華(満開のハスの花。聖観音の初割蓮華と対をなす)、蓮華上宝珠種字はキリーク(ह्रीः hrīḥ)[1]

眷属として二十八部衆を従える。

 

千手観音

千の手と千の目で一切の衆生を救う観音菩薩

千手観音(せんじゅかんのん)とは?

別名 千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)とも言い、生きとし生けるものすべてを漏らさず救う、大いなる慈悲を表現する菩薩です。千の手と手のひらの千の眼によって悩み苦しむ衆生を見つけては手を差し伸べる広大無限な功徳と慈悲から「大悲観音」、または観音の王を意味する「蓮華王」とも称されます。阿修羅や金剛力士などが属する二十八部衆を配下とします。

 

観音の中でも功徳が大きく、観音の中の王という意味で「蓮華王」と呼ばれることもあります。阿修羅や金剛力士などの二十八部衆を配下にしています。また六観音の一つに数えられ餓鬼道に迷う人々を救うといわれています。

ご利益

災難除け、延命、病気治癒などあらゆる現世利益を網羅し、特に夫婦円満、恋愛成就に功徳があるとされています。子年の守り本尊でもあり、子年生まれの人の開運、厄除け、祈願成就を助けるとされます。

千手観音(せんじゅかんのん)の像容

十一面四十二臂(ひ)で表されることが多く、四十二本の手のうち四十本それぞれが二十五の世界を救うことを示します。手には宝剣、髑髏杖、水瓶など実に様ざまな持物(じもつ)を持ち、多種多様な徳を表しています。

有名寺院と像

・奈良:唐招提寺
・京都:三十三間堂

千手観音(せんじゅかんのん)の真言

オン・バザラ・タラマ・キリク

オン・バザラ・タラマ・キリク

人は生まれた年の干支にしたがって、守護してくれる仏様が定まっており、その仏様が各人の守り本尊になります。

梵字(ぼんじ)にも各干支によって神様や文字が存在し十二支は方位に基づいて定められており、時を正確に捉えることができ守り本尊もそれに準じます。

千手観世音菩薩を守り本尊とする子年生まれの人の梵字は「キリーク」になります。



正式名は「千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)」といい、千の手とその手のそれぞれに千の眼をそなえています。

千という数は、人々を救う働きが無限であることを象徴していますが、実際に千の手を描かず、四十二の手を描くことが多いようです。

そのほかにも、手の数は二、四、十二、十八など様々な像が存在しています。

一般的な四十二の場合、一つの手が二十五の救いの働きを持つと考えて、四十の手で千の救いをするため、千手と同じと解釈されています。

それに胸のところで合掌する手が加わり、合計で四十二の手になっています。

四十の手には、救いの働きを象徴するそれぞれの持ち物が描かれています。

千手観音 銅造鍍金 彫金仕上げ【仏像の天竺堂 仏教美術 中】私たちには二つの眼があるだけですが、千手観音は心に備わる智慧の眼で物事をつぶさに見届けます。

そして、救おうとする人々のそれぞれの苦悩を事細かに見届けます。そのため、救いをもたらす手にはそれぞれ眼がついているのです。

また、冠についている顔は十一面観音と同じになっているものが一般的ですが、二十七面のものや一面のものもあります。

顔がいくつもあるのは、救う相手により一番効果的な接し方をすることを表しています。

千手観音像といえば、なんといっても東山区の三十三間堂が有名です。後白河上皇の勅願により、平清盛が寄進したとされるのがこの寺院で、正式名称は千手観音の別名にちなみ、蓮華王院(れんげおういん)といいます。

そもそも三十三間というお堂の広さは、観音が三十三に姿を変えるという説によるものですし、中には千一体にも及ぶ木造千手観音立像(重要文化財)が一堂に並んでいます。

中央の大きな千手観音は、運慶の息子である鎌倉時代の仏師・湛慶(たんけい)の八十二歳のときの作品とされています。

自分の守り本尊(仏様)にお唱えする呪文のようなものを「ご真言」と言いますが、千手観音の真言は以下のとおりになります。

おん ばざら だらま きりく そわか

 

 

無能勝明王

 

 

八大明王の一尊で、密号を「勝明妙金剛」という。

「無能勝」とは「破壊できない」の意で、降魔の徳を

有する。

無能勝明王

『大日経』に於いては釈迦如来の憤怒の化身とも

され、胎蔵界曼荼羅釈迦院では釈迦牟尼仏の

左脇侍に配される。

また『大妙金剛熾盛仏頂経』では地蔵菩薩

化身ともされる

 

オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ

 

 

 

阿弥陀の光 Light of Amida

 

阿弥陀の光 Light of Amida

果てなき空に響く声
智慧の光が闇を照らす
迷いの波を超えてゆけ
慈悲の舟が導くだろう

オン・アミリタ・テイゼイ・カラ・ウン
極楽の門は開かれる
阿弥陀の手が招くなら
すべての魂 輝くだろう

 

 

A voice resounds in the endless sky,
Wisdom’s light shines through the dark.
Cross the waves of doubt and fear,
The boat of mercy will guide you home.

Oṃ Amṛta Teje Hara Hūṃ,
The gates of paradise open wide.
If Amida’s hand beckons you,
Every soul will shine with light.

 

阿弥陀の光

暗闇の中、老僧の低く響く声が静かに堂内に広がった。

「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン……」

真言が唱えられるたび、蝋燭の炎が僅かに揺れる。若き修行僧、慧心(えしん)は目を閉じ、老僧の声に耳を澄ませた。

「この言葉にはな、深い意味があるんじゃ」と老僧は言った。「オンは仏の力を呼び覚ます音。アミリタは甘露のような慈悲を指し、テイセイは智慧の光を示す。そして、カラは苦しみを取り除き、ウンは悟りの境地へと導く……」

慧心はふと、幼き日の記憶を思い出した。母が病床で手を合わせ、何度も「南無阿弥陀仏」と唱えていた姿。あの時の母の表情は、不思議と穏やかだった。

「阿弥陀如来は、すべての者を救う仏じゃ。どんなに迷い、苦しみに沈もうとも、この真言を唱えれば、必ず光は見えてくる」

老僧の言葉が胸に染みた。慧心はそっと合掌し、静かに口を開く。

「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン……」

その瞬間、心の奥底に小さな光が灯ったような気がした。

観自在菩薩が深い般若波羅蜜多の道

 

 

 

観自在菩薩が深い般若波羅蜜多の道を修行する時、五つの蘊(色・受・想・行・識)がすべて空であることを照覧し、一切の苦悩を超越する。舎利弗よ、色は空であり、空は色である。色は空であるがゆえに、空には色はなく、また、受・想・行・識も同様に空である。舎利弗よ、このように、すべての法は空相であり、生まれもしないし、滅びもしない。不浄であるし、不浄でもなく、増えることもなく減ることもない。それゆえ、空には色もなければ、受・想・行・識もなく、また、目・耳・鼻・舌・身・意もなく、色・声・香・味・触・法もなく、また、眼界から意識界に至るまで、また、無明から無明尽に至るまで、老死もまた同じである。苦・集・滅・道もまた、同じく空であり、智慧もまた、得るものもない。何故なら、何も得るものがないからである。こも 菩提薩埵たちは、般若波羅蜜多に依って、心に障りがないため、恐れもなく、悩みや迷いから解放され、究極の涅槃に至る。三世の諸仏たちは、般若波羅蜜多に依って、阿耨多羅三藐三菩提を得た。れが、大いなる真言であり、大いなる明言であり、最高の真言であり、すべての真言に優る真言であり、一切の苦悩を除く真実である。般若波羅蜜多の真言を説くときには、「ガテ・ガテ・パラ・ガテ・パラ・サンガテ・ボディ・ソワカ」(すでに到達している、すでに到達している、すべて到達している、すべて到達している、アワロックサン)と唱える。」