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仏教

七倶胝仏母──七億の仏を生む母

七倶胝仏母──七億の仏を生む母

 

 

序章──混沌の時代

それは、遥か昔のこと。世界がまだ混沌とし、争いと苦しみに満ちていた時代。戦火は絶えず、人々は飢えと病に苦しみ、希望は薄れゆくばかりだった。

そんなある日、黒雲の立ち込める空が突然裂け、黄金の光が地上を照らした。その光は夜をも昼に変えるほどまばゆく、まるで天空そのものが目を覚ましたかのようだった。

光の中に立つのは、一人の荘厳なる女神──准胝仏母(じゅんていぶつも)

彼女の姿は、現世のものとは思えぬほど神秘的だった。三つの目はすべてを見通し、あらゆる真理を見極める。十八本の腕はまるで蓮の花びらのように優雅に広がり、それぞれの手には法具が握られていた。剣は無明を断ち、蓮華は慈悲を示し、数珠は悟りの道を指し示す。

彼女の足元には、すでに無数の人々が集まっていた。その誰もが、光に導かれるようにひざまずき、彼女の姿を見上げていた。

「この世の苦しみを救わん……」

准胝仏母は静かに誓いを立てた。その声は風となり、大地を包み込むように響いた。そして彼女の身体から七色の光が放たれると、その光の中から次々と仏たちが生まれ始めた。

一つ、二つ、十、百……いや、数えきれぬほどの仏が生まれ、やがてその数は七億にも及んだ。彼らはそれぞれの地へと旅立ち、世界の苦しみを癒し、悟りの道へと導くために広がっていった。

人々はこの奇跡を目の当たりにし、彼女を**七倶胝仏母(しちくていぶつも)**と呼び、深く信仰するようになった。


言葉の力──七億の仏の加護

時は流れ、七倶胝仏母の伝説は語り継がれ、やがてある男の耳にも届いた。

その男は長年、苦しみにあえいでいた。心の闇に囚われ、出口の見えない迷宮をさまよっていた。何をしても満たされず、何を求めても届かない。

だが、ある夜、彼は七倶胝仏母の名を唱えてみた。

「オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ……」

その瞬間、まるで世界が変わったかのように、彼の体が軽くなり、意識が澄み渡るのを感じた。胸の奥にあった重い鎖が解けるような感覚。まるで七億の仏が彼を導いているかのようだった。

彼は悟った。

──准胝仏母の加護は、真に求める者のそばに必ずあるのだ。

それ以来、この真言は人々の間で広まり、苦しみを乗り越えたい者、安産を願う者、悟りを求める者たちが、この言葉を唱え続けた。

そして今もなお、その響きは世界のどこかで唱えられている。

七倶胝仏母の慈悲の光は、静かに人々を見守り続けているのだ──。

準胝観音

袁黄は、浙江省の嘉善で生まれた男だった。占いに精通した孔先生に「三式」と呼ばれる運命学を学び、その技をもって、彼の未来を言い当てられたとき、袁黄の人生は大きく変わることになる。科挙に合格し、その結果や順位さえも孔先生の予言通りだったことから、彼は運命というものに強く魅了される。さらに、孔先生は彼の生涯をも予言した――袁黄の未来にはそこそこの成功があるが、寿命は53歳まで、結婚するものの子供は授からず、そして薄い徳と少ない福の中で失意のうちにその一生を終えるのだと。

その言葉は、まるで運命の鎖が彼を縛りつけたかのように、重く彼の心にのしかかった。運命から逃れることなどできない。そう考えていた袁黄だったが、ある日、雲谷禅師という一人の禅僧と出会ったことで、彼の人生は再び大きく変わる。

雲谷禅師は袁黄に、ただ宿命に従うだけの生き方を捨てるように説いた。彼は『七佛倶胝佛母心准提陀羅尼法』という呪法を袁黄に授け、その力を借りて人生を変える道を教えた。加えて、善行を積むための『功過格』という戒律に従い、徳を積むことで運命を変えられると伝えた。

袁黄はこの教えに深く感銘を受け、運命を変えるために心を入れ替えた。彼は宿命に縛られた生き方から脱し、善行を積むことを選び、准胝観音への深い信仰を持つようになった。信仰と善行が彼の運命を覆し、53歳を過ぎたとき、彼は「袁了凡」と名を改め、新たな人生を歩み始めたのだった。

さらに出世し、倭寇の討伐に成功した彼は、豊臣秀吉による朝鮮出兵の軍勢を退けるという偉業も成し遂げた。奇跡的に子供にも恵まれ、准胝観音の加護により寿命も延び、彼は74歳まで生きた。その長寿は、単なる偶然ではなかった。准提観音への祈りと善行が彼の未来を変え、彼に新たな生き方を与えたのだ。

運命を超える力を知った袁了凡は、人生の最後まで、深い信仰とともに歩んだ。

運命の鎖  Chains of Fate

運命の鎖  Chains of Fate

荒野に響く風の歌
沈む夕陽が運命を照らす
縛られたこの手の先に
まだ見えぬ未来がある

運命の鎖 断ち切るのさ
決められた道を超えてゆけ
偶然も必然も この胸に抱いて
新たな明日へ走り出す

The song of the wind echoes through the wild
The setting sun illuminates destiny
Bound hands reaching for the unknown
A future yet unseen lies ahead

Chains of fate—we’ll break them apart
Defy the path that’s been laid for us
Chance or fate, we’ll hold them tight
And run toward a brand-new dawn

運命論

運命の鎖

第一章:宿業の規制

荒涼とした荒野に、一条の鉄路がまっすぐに伸びていた。太陽は地平線に沈みかけ、空は赤黒い夕焼けに染まっている。

線路の上には、一人の乙女——メリーがいた。美しい金髪は風に乱れ、蒼白な顔には恐怖が刻まれている。彼女の手足は荒くれ者たちによって無慈悲に縛られ、口には猿ぐつわ。助けを呼ぶことも叶わず、ただ怯えた瞳で前方を見つめるばかりだった。

遠くに黒煙が上がった。急行列車が、まるで運命の使者のように近づいてくる。メリーの胸は高鳴る。恐怖に駆られながらも、心の奥底で何かが囁いた。

——これは、変えられない運命なのか?

第二章:宿命の刻印

一方、名馬シルバーを駆るハリー青年は、荒野を疾走していた。彼の心には焦燥と決意が入り混じっていた。

「間に合わなければ、メリーは——」

彼は歯を食いしばり、風を切って走る。だが、突然、シルバーが足を滑らせた。馬の嘶きが荒野に響く。ハリーは瞬時に飛び降り、馬の足を確かめた。石につまずいたらしいが、幸いにも軽傷だ。しかし、時間がない。列車は着実にメリーへと迫っていた。

第三章:運命の分岐

メリーの耳には、鉄輪の音が響いていた。心臓が張り裂けそうになる。——これが宿命なのか?

しかし、彼女の中に小さな声があった。

「まだ終わっていない。」

メリーは全力で身をよじり、縛られた手を線路に擦りつけた。鋭い痛みが走るが、そんなことを気にしている場合ではない。列車はすでに目の前——。

その時、彼女の視界にハリーの姿が飛び込んだ。彼は、死に物狂いで走り、間一髪でメリーを抱きかかえた。その瞬間、列車が轟音を立てて通過し、線路に張られた縄が引きちぎられる。

第四章:偶然か、必然か

荒野に二人の息遣いが響く。メリーはハリーを見つめた。

「……私は助かったの?」

ハリーは深く頷いた。「ああ、間に合った。」

しかし、彼はふと思った。もしシルバーがあの石につまずき、彼が転倒していたら?もしメリーが諦めていたら?

この結果は決まっていたのか、それともただの偶然だったのか?

彼らの前には、まだ長い道が続いていた。

——宿業か、宿命か、運命か。

その答えを探す旅は、まだ終わらない。

運命

という。 そこで、まず第一の宿業、これは、人間の力では、いかにしても変えることのできない絶対不可能の規制である。どういう規制かというと、先に述べた、人間は必ず死なねばならぬ、という規制、 次に、人間は生きていくためには必ず飲食しなければならぬという規制、それから、生きていくためには必ず何時間か眠らなければならぬという規制、この三つの規制だけは、人間どんな方法手段を講じても絶対に克服することはできない。人間である限り、この三つの規制に従がわなければならない。これが克服できたら、その人は、その瞬間から人間ではない存在になったわけである。これは、人間全体、人類というものすべてに課せられた「業」である。宿められた業であるから宿業

宿命

運命

と。この三種類に分類することができる。

私は。これ

と、この三つの言葉で表現する。

1、が宿業、2、が運命、3、が宿命である。

次に、運命という名でよばれるところの規制、これは変えることが不可能ではない。運命の運という字は「はこぶ」と読む。ぞる館、運べるがだ。運ぶということは、移す、移動するということ

だから、つまり変えられる命である。方法によったら変えられないことはない。そ

運命―その本質を追求する

る命である。 つまり、克服することは不可能であるが、ある程度、これを変えたり、避けたりすることはでき

だから、つまり変えられる命である。方法によったら変えられないことはない。そのかわり、これを変えるのは大変である。簡単にはいかない。運という字は、邪に、毛がついてでき上がっている。 軍というものは、元来、命がけのものである。その命がけの軍にさらにシンニュウがかかってい

る、シンニュウというのは、走るという字の変形である。倍加するという意味を持っている。だから、なみたいていの命がけじゃない。命がけの軍に数倍した命がけである。しかし、とにかくそういう一心の努力をすれば変えられるのが運命である。

この運命と、宿業の、ちょうど中間にあたるのが宿命である。

同じ命でありながら、どうして克服することができないのか? 運命のほうは、運び移し変えて、克服してしまったではないか。宿命はなぜ移し変えることができないのか?

もっともな質問である。それを考え、それに答えようしているのが本書であるから、本書全体を通読していただけば、おのずからその答えが出てくるはずであり、ここでは簡単に答えておくが、 運命も宿命も同種のものであるけれども質が違う、ということである。

要するに、もっとわかり易くいうならば風邪は治すことができるが、重症の結核は治しにくいということである。単純な胃炎は治すことができるが、悪性のガンは治せない、というのと同じようなものである、といったらおわかりいただけるであろうか。ただし、ここであげた結核とかガンと

いう利名は、単なるたとえであるから、それにこだわってもらっては困るのだ。

ところで、そういうと、では、なぜ風邪ではなく重症の結核にかかったのか?? なぜ左ではなく悪性のガンにかかったのかという根本的な疑問なり質問なりがひき出されてくるで

う。が、しかし、人が難治の病気にかかり、あるいは、再起不能の出来事に通うということは、

だ単に一つや二つの「条件」によるものではない。先に述べた三島氏の死のように、無数の条件の積み重なりと連鎖的反応を考えなければならない。それを解くことは、人の知恵と力のを越える。いえることは、宿命とは、その人の生命の長い系列の行間にきざみこまれ、えぐりぬかれた、 古く、深い傷痕で、それが、突然、その人の上にあらわれたものということである。いうなれば、 恋々に積みかさねられた宿病である。癒やし難いのも当然というべきだろう。しかし、これもましゃくあ

た、方法をもってすれば、これを変え、これを避けることもできないことはないのである。

では、その方法とはどんなものか。

それを探求するまえに、まず、運命とはなにか、宿命とはいかなるものか、その実体をはっきりとらえてみようではないか。宿命、運命にたいする挑戦はそこからはじまるのだ。

可憐なる乙女メリーの運命やいかに

運命―その本質を追求する

る。 後篇は来週上映されるわけだが、もちろん可憐なる乙女メリーは、絶対列車にひき殺されることなく、必ず、間一髪駆けつけた青年ハリーに助け出されるのであって、見ている私たちもそれは十分承知しておりながら、手に汗にぎって、好漢ハリー青年の駆けつけるのを待っているわけであ

可憐なる乙女メリーの運命やいかに

えんえんと荒野を走る一条の鉄路

ようとしている。 その鉄道線路に、可常な一人の乙女が、荒くれた数人の悪漢のためにうしろ手にしばりつけられ

助けをよぼうにも口には猿ぐつわ。むなしく手足をもがくのみ。

やがて地平線のかなたに一条の黒煙、急行列車は見る見る近づいてくる。してやったりと悪真どもは、身うごきもできず恐怖の目を見ひらきおののく乙女メリーを尻目に、馬にまたがって去っていく。列車はすでに目前二、三百メートル、機関士はまだ気がつかぬ。

はたして彼女の運命やいかに――、とそこでスクリーンに字幕が写って、場内にバッと電燈がつく。観客はそれまでつめていた息をホウッと洩らす――。

私の幼少の頃、活動大写真と呼ばれていた時代の映画の一コマであるが、必ず、最後に「はたして彼女の運命やいかに」という字幕で、映画前篇の終りとなったものであった。

美貌の乙女メリーさんは必ず助かる。決して死なない。それは活動大写真の鉄則であり、常識なので、観客はその鉄則を信じて、安心しながら心配しているわけである。

だが、しかし、実際は、助けられる寸前で、愛すべきメリーさんが助かるかどうかわからないの

本当である。活動写真では必ず助かることになっているが、人生では、助けられる瞬間か、あるいは、ひき殺されてしまうその瞬間まで、メリーさんの運命はいっさいわからないというのが本当

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そこで――、それでは、本当の人生はいったいどうなっているのか?

つまり、メリーさんは、必ず助かることに決まっているのか、あるいは助けられずに鉄路の錆と消えてしまうのか、あるいはまた、それらはいっさい、その場の推移にまかされているのであって、名馬シルバーにまたがって駆けつけるハリー青年が間に合ったのは、ただ、「運がよかった」 に過ぎず、あるいはシルバーが「運わるく」石につまずいて足を痛め、間に合わなかったというようなことが起きたかもしれず、要するに、メリーさんが助かったのは「偶然」だったので、チャンスは五分五分、どちらにもなり得たのだということなのか。

つまり、実際の人生において、人間は、かの活動大写真のごとく、すべて一挙手一投足、いっさいシナリオに書かれたように決まっているものなのか。それとも、出たとこ勝負という自然のなりゆき、偶然の連続と組み合わせによって成っているのか、いったいどうなっているのか? 人生をすべて「必然」と見るべきか、「偶然」と見るべきか、いったいどちらか?

ここに一人の青年がいて、貧しさのために非常な屈辱をうける。その屈辱に発奮した彼は死にもの狂いの努力を重ねて、一大富豪となった。彼は、そこで、自分の今日あるは、すべて自分の努力の選物であると考え、運などというものをいっさい否定する。