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脳と心の革命想

 

 

脳と心の革命想

ブッダの瞑想体験が意味するもの

ブッダは瞑想になにを求めたか

なんのために瞑想をするのであろうか?

なにを得ようとして、なにを目的として、想をするのか?

想の一種である様では、「正面」あるいは「所得」であるという。つまり、 そこかめてしてもなにも得るものはないぞ、というのである。この言む文通りにかけとって、席をしてもなにも得るところはない、また、なにかを得ようとして座席をするのは、邪道であるというように説くひともいる。しかし、これはまちがいて、なにかを「母よう」という戦戦、こだわりを持っての座ば、「なにやればやるほど、そのこだわりにとらわれ拘束されて、そこか受、真に求めるところのものから遠のくばかりであるという

いましたであり、文字通りなにも得るものはないということではないのである

瞑想も、座禅も、やればやっただけの「所得」があり、「功徳」がある。故・山

本玄峰老師も、「一日座れば一日の仏、二日座れば二日の仏」といっておられる。

では――、どんな所得があり、どんな功徳があるというのか?

ここに、瞑想によってさとりを完成し、仏陀になられたゴータマ・ブッダ(釈 )の体験がある。これは、マッジマ・ニカーヤ(中阿含経)という原始経典において、ゴータマ自身によってかたられたものである。

た。 しようじんわたし(釈尊)は、つねに努力精進し、その想いは確立してすこしもみだれず、体は安楽で動揺せず、心は禅定に入って静かである。そのわたしがあるとき、瞑想に入ってしだいに禅定が深まってきた。第一禅定から第二、第三、第四禅定まで深まるにつれて、心に思い浮かぶなにものもなくなり、喜びや楽しみだけとなり、そして遂にはそれもなくなって、ただ清浄な想いだけとなっ

そのとき、わたしの心は、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動であ
った。そしてわたしの心の眼はおのずから前世の光景に向けられていった。それは一生だけではなく、二生、三生、十生、二十生、そして無限の生涯の、生きかわり死にかわりした光景が展開してきた。これが第一の智慧である。

それからわたしの心は、あらゆる衆生のすがたに向けられてきた。わたしは超人的な眼力でそのすがたを見た。そこには、買いもの、隠しいもの、美しいもの、僕いもの、幸福なもの、不幸なものの、それぞれの宿業渦巻いていた。 これが第二の智慧である。 しゅくろ

それからわたしは、苦・・・道の四諦(四つの真理)をありのままに知り、わたしの心は、あらゆる存在の相から、全く解放され、ふたたびそれに執着することはなくなった。これが第三の智慧である。(王城康四郎訳による)

ここには、瞑想の深まりとその効用が、じつにあざやかに、生き生きとかたられている。瞑想のすべてがここに表現されているといってよい。二十世紀という時空のへだたりを飛び越えて、読者よ、じつに、瞑想とはかくのごときものなのだ。こ

こには想のすべてがある。このゴータマの体験を、もう少し撮りさげてみよう。

联想体験には五つの段階がある

ここには、既想の深まりとその結果が、じつにあざやかにかたられている。それは五つの段階に分けられる。

第一の段階

わたくしは、

・つねに一つの目的にむかって精進をつづけることができ。

2、想が確立してみだれず、

3、からだは安楽で動揺しない。

4、心はいつも気に入って静かである。

第二の段階

第一禅定から第二、第三、第四禅定までしだいに深まっていって、

15想についての基礎知識

1、心に思い浮かぶなにものもなくなり、

2、喜びや楽しみだけとなり、

3、ついにはただ清浄な思いだけにみたされ、

4、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動となった。

第三の段階

つづいて心の眼がひらかれ、

1、自分の前世における光景が展開しはじめる。

2、それは一生だけでなく、二生、三生、十生、二十生、とかぎりなくさかの

ぼり、無限の生涯の、生きかわり死にかわりした光景が展開する。

それは生命の根源への遡及であり、第一の智慧の獲得であった。

第四の段階

心の眼はさらに広く深くひろがり、ひとの持つ能力の限界を越えて、過去、現在、そして未来へと流れてゆくあらゆるひとびとのすがたが透視される。

それは、存在を規制する宿業の実体の把握であった。、

これが第二の智慧の獲得である。

第五の段階

つづいてわたくしは、

1、宿業から解脱する四つの真理を如実に知り、

2、あらゆる存在からの解脱と超越を完成した。

それは第三の智慧の獲得であり、「解脱の瞑想」であった。

凡人にも道はひらかれている

ができるのだ。 いかがであろうか? すばらしい体験だとあなたは思わないだろうか? これが瞑想の効用なのである。そうしてだれでも、瞑想をすればこういう効果を得ること

だが、そう言うと、あなたは言うかもしれない。釈迦のような大天才と、凡人であるわれわれと、どうしていっしょになるものか、釈迦がそういうすばらしい体験をしたからといって、それがそのままわれわれに通ずるとはかぎらないのだ。むし、

ろ、着のまねをするカラスで、結局、骨折り損のくたびれもうけということになるのではないか、と。

そうではないのである。

釈迦とおなじ瞑想をすることにより、われわれもまたかれと同じ結果に到達することが可能なのである。最初の道をきりひらくものは天才でなければならぬ。しかし、すでに天才のひらいた道は、だれでも歩むことができるのである。万有引力の発見は、ニュートンの天才を待たなければならなかったが、いまでは小学校の児童すら、万有引力は知っている。

もちろん、それは容易な道ではない。しかし、ゴータマ・ブッダは親切な道しるべをいくつも残しておいてくれた。それを真剣にたどることにより、かれの歩んだ道をあやまりなく歩むことは不可能ではない。かれが到達した最高の場所まで行くのは無理だとしても、そこまでのいくつかの段階を自分のものにすることはかならずできるのである。

そう! 最初のごく初歩の段階でもいいではないか。それでも、それはじつにす

「ばらしい世界なのである。それに、最初からそんなに多くのものを望むのは、欲ばりすぎるというものだ。さあ、瞑想の世界に一歩ふみこんでみよう。ブッダのあと

を、少しずつたどってみようではないか。

か? いったい、ゴータマ・ブッダは、なにを目的として瞑想をはじめたのであろう

かれはいったい、なんのために瞑想をはじめたのだ?

人間のからだは苦しみを盛る器である

きるであろう。 かれはいったいなんのために瞑想をはじめたのだ? という質問は、そのまま、 われわれはなんのために瞑想をはじめるのか?という質問に置きかえることがで

かれはいったいなんのために瞑想をはじめたのか?

ゴータマ・ブッダは、多くのひとの知る通り、「四苦八苦」の解決を目的として想をはじめたのである。

では、四苦八苦とはなにか?

「生・老・病・死」

これを四苦といい、これに、

とつく 「愛別離苦,怨憎会苦,求不得苦,玉盛苦」

の四苦をくわえて「八苦」という。

それは、

生きてゆく上に生ずるさまざまな苦しみ、

老いの苦しみ、

病気の苦しみ、

死の苦しみ、

そして、

愛するものと別れる苦しみ。

いのちまでもとちかい合った恋人どうし、あるいは、その愛がむくわれてめでたくむすばれた相愛の夫婦、また、親子、兄弟、心から歌愛する師友、知己、みな、

離れがたいあいだがらであるが、いつなんどき別離の悲哀に泣くことになるかもしれぬのである。いや、愛するものとは、あながち人間関係のみとはかぎらない。地位、権力、職業等、さまざまなものを、わたくしたちは愛している。そういうものと、いやでも別離しなければならない苦しみ、これが愛別離苦である。

心の中で、深く怨み憎んでいる者と、顔を合わせ、生活をともにしていかなければならない苦しみ、その最も深刻な苦しみは、本来いちばん愛し合い和合し合わなければならないはずの夫婦、親子、兄弟が、かたきどうしのように憎み合い、 怨み合いながら、おなじ屋根の下で暮らしていかなければならぬ苦しみであろう。 そうして、職場で上司や同僚と毎日、反目し合いながらはたらかなければならぬサラリーマンやOL嬢の苦しみも、これに準ずるものといえようか。

そういえば、いやでいやでたまらない学校へ毎日いって、きらいな勉強をしなければならない学生諸君の苦しみも、この怨憎会苦であろうし、ほかにやりたいことがありながら、生活のために、よぎなく好きでもない職場に就職するのも、この怨憎会苦の一つである。だが考えてみれば、なりゆきとはいえ、この人生におい

て、はからずも怨み合い憎み合う人間関係を持たねばならぬ辛さ、やりきれなさ、 これが最も大きな怨憎会苦というべきかもしれない。

金、地位、権力、愛情、才能、知識等、求めても求めても得られぬ苦しみ。求め

ることにより生ずる不幸 。しかし、また、求めることによって、人類は進歩し、成長するのである。この皮肉な苦しみ、求不得苦。

考えてみれば、この人間の五体そのものが、苦を盛る器のように思えてくる。

何時、とりたてていうほどのものではないながら、五体にひしひしと感じる身心の苦しみ。五陰盛苦である。

まことに、苦の世界とはよくいったもので、いま、この瞬間においても、わたくしたちは、この四苦八苦のどれかの苦しみを味わっているのではなかろうか。

あなたはどうであろう?

瞑想こそ究極の解決法

ゴータマ・ブッダは、この四苦八苦を解決するためのあらゆる方法を、すべてこ

ころみた結果、さいごに、瞑想よりほかないことを知ったのである。そうしてかれは成功した。

だからあなたも、ゴータマのように、あなたの人生に四苦八苦を感じて、なんとかそれを解決しようと考えたら、このゴータマのあとをたどるよりほかに方法がないのである。

もちろん、あなたが、この人生になんの苦しみも感じないということなら、それは、瞑想などする必要はない。この本もまた無用のものである。そのへんにほうり出して、テレビのスイッチでもひねったらよろしい。

しかし、もし少しでもなにかの悩みや苦しみを感じるなら、そうしてそれを解決しようと思ったなら、それは瞑想によるよりほかないと知るべきである。ほかに方法はないのである。ゴータマ・ブッダは、ありとあらゆる方法をこころみて、 さいごに、この瞑想にたどりついたのだったから――。

いまから二千数百年まえ、インドに生まれたゴータマが、皇太子の地位を捨てるほど悩んだ四苦八苦は、現代におけるわたくしたちの四苦八苦となんら変わりはな

もまず、このゴータマ・ブッダの瞑想をすることが、最も早道だということがおわ

かりになったであろう。

さて、これで理解されたであろう、なんのために瞑想をするのか、を。

では、瞑想はどのようにして、わたくしたちの四苦八苦を解決するのか、それを見てみようではないか。

日常生活の欲望を超越する

さきにわたくしは、ごく最初の初歩の段階でもいいではないか、といった。

それは、ゴータマ・ブッダの体験の「第一の段階」である。それは、

1、つねに一つの目的にむかって精進をつづけることができ、

2、想念が確立してみだれず、

3、からだは安楽で動揺しない。

4、心はいつも定に入って静かである。

というものである。

これは、「家界定」と名づける瞑想である。

ブッダの世界観では、この世の中を、三種の境界に分類する。これを「三界」という、武界・色界・無色界である。

無色界というのは、純粋に精神的な領域をさし、色界というのは、欲望をはなれた清らかな物質から成り立つ世界をさす。

これにたいし、歌界とは欲望によって成り立っている現象世界をさす。つまり、 わたくしたちがふつうに生活しているこの日常世界である。

想なのである。 この「三界」というのは、この世界の区分であると同時に、ブッダのさとりの発達の段階をあらわすものであり、欲界定とは、欲界すなわちわたくしたちのこの日常世界において、欲界に属する四苦八苦の苦悩を処理し解決する能力をあたえる豚

つまり、わたくしたちは欲望の世界にすみ、欲望のなかで生活しているのであるが、その歌望から生ずる身心の苦悩を、いちおう解決する能力をあたえる瞑想である。もっとも、それはまだ欲望そのものの解決ではなく、四苦八苦からの真の解

ではないが、現象的な苦悩をいちおう解決する能力を持つ。そして、つぎなる段階

(どのはる準備としての身心・環境の調整でもある。

いま、現在の苦しみ、悩みを解決する

それは真の解説ではないから、この境界にとどまっているかぎり、また、つぎの苦悩はあらわれるであろう。四苦八苦が根源的に断滅されたわけではないからである。しかし、欲界というわたくしたちの日常世界においては、それは卓抜した能力とみることができよう。

それが実際にどのようなものか、いくつかの実例をあげてみよう。

わたくしの指導している瞑想室では、悩みを持って入ってくるひとにその悩みを書いて出させる(また、願望なども書いて出させる)。直接わたくしがそれを聞く場合もあるが、わたくしはその悩み(や願望)に応じて、それを解決するための瞑想法を指導するのである。というのは、あとで述べるように、瞑想法は一種類ではない。その目的に応じて、いくつもの瞑想法があるのである。

たとえば、

からだの不調(病気)をなおすための瞑想法

心の不調(病気)をなおすための想法。

意志を強くするための瞑想法

脳の働きをよくするための瞑想法

思うように自分をつくりかえる瞑想法

みを喜びに転換する瞑想法

思うように環境をつくりかえる瞑想法

高い理念を持ち、その理念を現実につくり出す力を持つ瞑想法

思いつくままざっとあげても、以上のような瞑想法がある。

想法への入り口はいくつもある。

「さとり」とか「宇宙の真理」とか、「宇宙意識」とか「超越意識」とか、そういう然としたものを求めて瞑想に入るひともいるし、現実にいま悩み苦しんでいることがあって、その解答を求めて入ってくるひともいる。多種多様である。そうし

る。 て瞑想は、どのような問題にたいしても、かならず最高の解答をあたえるのであ

低俗な俗世間のことなど瞑想はあつかわないなどとはけっしていわない。人間の苦しみに低俗も高級もありはしない。みな、そのひとにとってギリギリの切実な問題なのだ。そうして、その苦しみ悩むということが、じつは非常に貴重なのである。苦しみ悩むことによって、人間は浄化し向上するのである。なにも悩むことも苦しむこともないという人間など、どうしようもない存在である。年じゅう上、機嫌で世の中が楽しくて楽しくてしょうがないという人間など、手のつけられない存在というべきではないか。

ない。 悩み苦しむことによって、人間は浄化し向上するのである。ただし、悩み苦しむこと自体が人間を浄化し向上させるのではない。問題はその悩みかた、苦しみかたである。それによっては、逆にスポイルされ、ダメになってしまうひともすくなく

瞑想は、その悩み苦しみを解決すると同時に、そのひとを浄化し、向上させるの

である。

ただ苦しみ悩みを解決させるだけではダメなのである。解決すると同時に、そのひとを向上させるのでなければならない。また、向上することによって解決するという場合もある。これが、正しい瞑想なのである。

だから、わたくしの瞑想は、「いま苦しんでいる問題の解決」からはじまるのである。

想はゴータマ・ブッダがさいごに到達されたように、すべての存在から超越し解説するのであるが、超越・解説する前に、現実を自由自在に処理し解決するだけの力を持たねばならない。その力を持たずして、超越とか解説とかいったって、それは一種の「運」に過ぎない。その力を持っ瞑想法が「欲界定」と

 

 

 

 

「第二の段用」の購想なのだ。

が、ここでまちがってはならないのは、この力を持つことが、ただたんに自分の望を思うままにとげるということではないということである。この力を持つことによって、自分の望むことがその通り実現されることもあるし、バカげた野望・欲

望のとりこになって、いたずらに苦しんでいるおろかさに突然気がつき、夢からさ

めたひとのようになる場合もある。

どちらにしても、すばらしいことではないか。

瞑想の原点としてのYOGA

瞑想は、インドにおいて非常に古くからおこなわれていた。それは、インド民族の歴史とともにあったといってよい。

る。 瞑想に関する文献は、ヴェーダ、ウパニシャッドの時代(紀元前一〇〇〇年~六○年)にまでさかのぼって、目にすることができる。そのころから、すでに、瞑想は、インド特有の身心修練の道として、修道者必修の行法とされていたのであ

それは、ヨーガ(Yo)あるいは三昧(Samadhi)あるいは禅(Dhyana)とよばれた。 日本では、ヨーガというと、一般には、本案の一種のように思われているようで

朝していく心的過程が、詳細に分析的に述べられています。そして、このようにを中心とした心理的なヨーガが、ラージァ・ヨーガとよばれるものなのです、そして、この精神集中へ深まっていく心理的過程が、段階的に制感, 念・・三と分けられているのであります。

明解な解説である。

要するにヨーガの想法の目的は、心の抑制・コントロールである。ブッダが最初に師事したアーラーチ・カーラーマ、ウッダカ・ラーマブッタの「無心定」「滅定」の伝統がここに生きているわけである。

ブッダの想とヨーガの誤想のちがいはここにあるといってよいであろう。ブッずの想が、「統一」からさらに「智慧」を目ざすのにたいし、ヨーガは「綜制」 を目ざすわけである。

ブッダの「呼吸法」をとり入れたヨーガの調

 

ただし、十一世紀にあらわれたナータ派の『シヴァ・サンヒター』(佐保田鶴治訳

「ヨーガ教良」所)によると、その「宇宙観」の中で、

「唯一の、永遠にして、始めも終わりもない智が存在する。その外には、真実なる実体は一つも無い」といい、

「論議を好むやからの、世人を迷妄に導く見解を捨てて、ひたむきに道に志す人々

が真我の智を得るように」と述べ、さらに、

「ヴェーダには行の部門と智の部門と二部門があるとされている」

 

 

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