蓮華王 ― 千の手、千の眼の夜
薄闇の堂に、香の煙がゆっくりと満ちていた。
風はない。それでも灯明の炎だけが、かすかに揺れている。
その奥に、観音は坐していた。
数えられぬ手。
数えられぬまなざし。
だが、それは誇示ではなかった。
千の手は力を示すためにあるのではなく、
千の眼は裁くために開かれているのでもない。
ただ――
見落とさないために、そこに在った。
人の苦しみは、声を上げるとは限らない。
言葉にならぬ痛みは、闇の中で静かに息をひそめる。
千手観音は、その沈黙を聞き逃さぬために、
あらゆる方向へ、慈悲を広げていた。
頭上に重なる十一の面は、怒りでも笑みでもなく、
状況に応じて現れる救済の相であった。
恐怖には静けさを、
絶望には光を、
執着には断ち切る智慧を。
四十二の腕が、ゆるやかに世界へ伸びる。
一本の手が二十五の世界を救うというなら、
その手は数ではなく、因縁の深さを量るためのものだ。
宝剣は、敵を斬らない。
それは迷いを断つ刃。
水瓶は、渇きを癒すが、
水より先に心を満たす。
地獄に沈む者の声にも、
餓鬼の渇望にも、
人の世の愛と別れにも、
観音は等しく目を向ける。
阿修羅も、金剛力士も、
その足もとに集う二十八の眷属たちは、
力ではなく、誓いによって従っていた。
観音は王である。
だが支配する王ではない。
蓮華王――
咲くことで、世界を変える者。
子年に生まれた者の守りとして、
夫婦の間に宿る小さなすれ違いの中に、
病の床でひとり震える夜の底に、
千の手は、必ず届いている。
祈りとは、呼びかけではない。
すでに差し出されている手に、気づくこと。
堂の闇に、真言が低く響いた。
オン・バザラ・タラマ・キリク
On Bazara Tarama Kilik
その音は空を震わせず、
ただ、人の胸の奥に静かに灯った。
千の手と千の眼は、
今もなお――
名もなき誰かの、名もなき痛みを見つめている。




