求聞持聰明法の秘密
空海と覚っと私
私は定に入っていた。
ひたすらふかい側に入っていた。
ナるは開発明。三度目の修法であった。
最初は真言宗教の行に響った。完全な失敗であった。それは集中力を高めるという効果はあったが、それ以上のものではなかった。つぶさにこの行法を検討して、私は、しょせん、真言教の神明に、大脳皮質の構造を一変するごときシステムはないとの結論を得た。すくなくとも、従来のままの行法に、それだけの力はない。求聞持意明法を成就して、悉地を得たという弘法大展空海は、あとにのこしたこの行法以外に、必ず、なんらかの秘密技術を体得しているのに相違なかった。他ののこした求聞持法の行法は、その秘密技術のヒントになるべきもの
のかをつらわたに消さず、その秘術――おそらく、自分自身の訓練努力によってみずからが見せよとつきはなしているのにもがいなかった。それを発見するだけの努力をし、発見でき
あだけの空質のあるもののみがそれをわがものとする資格があるのだ、と、つめたく未来を見す
えている不世出の知性の目を、私は行法次第のなかに感じた。それゆえにこそ、宗教者としてゆたかな天分を持つ男教大師覚が、七たびこれを修して失敗し、八度目にしてようやく悉地成就を得たという解の行法となっているのである。そうでなければ、覚纓ほどの才能が、なんで七たびも失敗しようか。
しかも、これを成就したという覚辺は、四十歳代にして没している。これを体得した私の経験からいえば、この法を成就した者は、自分のからだを自由自在にコントロールして、欲するならば、百歳、二百歳の長寿もけっして不可能ではなくなるのである。しかるに、どうして求聞持法を体得した覚が四十歳代という短命に終ったのか。覚護が求聞持法を体得したというのはウソであったのか?私は、彼がこの法を成就したことは真実であったと思う。では、覚鰻が天夭折したのはなぜであるか?私は、求聞持聡明法の行法次第のなかにかくされた秘密をさぐり出すための、血のにじみ出るような、いや、私をしていわしむれば五体から血の吹き出すような辛苦が、彼のいのちをちぢめたのであろうと思う。彼は八度目にしてついにこの秘密の技術を体得したが、その時までに彼の生命力は消費しつくされ、再起できなかったのであろう。私は、この三
度目の修法で求聞持法の秘密を解き、悉地の成就を得るのであるが、それでは、私は、興教大師登後上人よりも密教者としてすぐれているというのであろうか? そうではないのである。私は、非常にしあわせなことに、弘法大師空海とおなじ立場にあったのだ。
それはどういう意味か?
ている。 空との相違、それは、からののしこしたヒントのみによった、ということである。私はがしたのは海外に出て、外地の技術に接してからであると確信する。その資料と思われるものも二、三持っているが、彼は、最初、外地からもたらされたナマの技術(それは幼種なものであったが) を自分の天分で電撃して半ば完成し、のち、外地にわたってすべての秘密を解いた、と私は考え
空海は、彼の地でサンスクリット語を自由にあやつった。彼は、古代ヨーガの超技術を知っていたのに相違なかった。彼ほどの天才がサンスクリット語を読み、書き、語りながら、密教の原点であるヨーガにふれなかったとしたら不思議である。彼の求聞持聰明法には、古代ヨーガの技術がひそんでいるのに相違なかった。けれども、高野や根来の山奥で、ひとり法を修する覚鑽には、かなしいことに、古代ヨーガの技術はまったく無縁であった。わずかに真言宗の行法のなかに見えかくれするものを必死に追いもとめ、自分の頭脳でこれを綴り合わせてゆくという至難以上の作業に没頭せねばならなかった。彼の頭脳はついにこれを解いた。しかし、変労困意その極に達していたであろう、と私は心から同情にたえない。
私は空海とおなじ立場に立つ。いや、千年の時代の流れは、私に空海以上の便宜をあたえてくれている。彼の何倍もの資料を私は居ながらにして手に入れている。二度目の修法に、私は、古代ヨーガの技術をとり入れた。ひしひしと感得するものがあった。五〇日のその行で、求聞持 法
空と覚際の相違、それは、空海は海外からのナマの芸術に接したのであり、 こしたヒントのみによった、ということである。私は、空海が開持法の最後のを体得したのほ海外に出て、外地の技術に接してからであると確信する。その資料と思われるものも二、三待っているが、彼は、最初、外地からもたらされたナマの技術(それは幼稚なものであったが) を自分の天分で聖戦して半ば完成し、のち、外地にわたってすべての秘密を解いた、と私は考え
ている。 空海は、彼の地でサンスクリット語を自由にあやつった。彼は、古代ヨーガの超技術を知っていたのに相違なかった。彼ほどの天才がサンスクリット語を読み、書き、語りながら、密教の原真であるヨーガにふれなかったとしたら不思議である。彼の求聞持聡明法には、古代ヨーガの技所がひそんでいるのに相違なかった。けれども、高野や根来の山奥で、ひとり法を修する覚鑽には、かなしいことに、古代ヨーガの技術はまったく無縁であった。わずかに真言宗の行法のなかに見えかくれするものを必死に追いもとめ、自分の頭脳でこれを綴り合わせてゆくという至難以上の作業に没頭せねばならなかった。彼の頭脳はついにこれを解いた。しかし、疲労困憊その極に達していたであろう、と私は心から同情にたえない。
私は空海とおなじ立場に立つ。いや、千年の時代の流れは、私に空海以上の便宜をあたえてくれている。彼の何倍もの資料を私は居ながらにして手に入れている。二度目の修法に、私は、古代ョーザの技術をとり入れた。ひしひしと感得するものがあった。五〇日のその行で、求
「の成就はみられなかったが、私の考えのまちがいでなかったことがよくわかった。この方法で求聞持法はかならず成就する。つよい確信を得た。この技法を積みかさね、延長してゆけばよい。これしかない。ぜったいの自信を得た。
かんじやくこの、私の技法によれば、従来のごとく、山にこもって五〇日ないし一〇〇日、明星を拝しつづける必要がなかった。常住座駅、関寂の部屋ならば、時、ところをえらばなくてもよいのであった。ただ、最初の三日ないし七日間、山居して明星とあい対し、これをふかく脳裡にとどめておけばよかった。あとは、三〇日、五〇日、一〇〇日、よしんば一○○○日かかろうとも、日常の生活の行代のうちにトレーニングを積みかさねてゆけばよいのであった。この発見はすばらしいものであった。これでなくては、法はついに民衆と無縁のものになってしまう。五〇日、一〇日、特定の山にこもらねば成就しないというのでは、ごくかぎられた人たちのみしか参加することはできない。民衆と無縁になってどこに法の存在価値があろう。私は、このシステムによって、この法を完成せねばならぬ。法のために、民衆のために、どうしても――。 のうり
そして、三度目の必死の修法に私は入っていた。
それは、ほぼ一〇〇日目、私の法のシステムでいって百度目のトレーニングのときであった。 真言宗に伝わる求聞持法の九種の印明、それに、古代ヨーガに伝わる特殊な呼吸法、古代ョーガの秘法から私が創案した特殊な手印とポーズ、この三つによるトレーニングで、私のからだと大脳皮質とは、微妙な変化をおこしつつあることが感じられていた。チャクラの開発も順調に
脳皮質と脂詰は、微妙な変化をおこしつつあることが感じられていた。チャクラの開発も訓に
すすんでいた。機が熟しつつあることを、私の六感は感じていた
夜明け、 まどろんだような感じであった。しかし、ねむりではなかった。いいかの感覚であった。かるい失心、めまいに似ていた。忘我の一瞬であった。その刹那、
「ああッ!」
と私は苦痛の叫びをあげていた。脳髄の一角に電流がながれた感覚が走った。落雷があったと感じた。目の前を紫電が走った、つぎの瞬間、眼前でフラッシュをたかれたように、私の視野は真っ脈になった。失明!という考えが、チラリと脳裡をよこぎった。と、そのときであった。 頭の爆哭、深部に、ポッカリとあかりがともったのだ。そして、それは、私の脈搏とおなじリズムで、しずかに、しずかにまたたきはじめた。ちょうど、この修法をはじめる数十日まえ、山にこもって見つめたあのときの暁けの明星のように――それはつめたく、黄ばんだ白さでまたたいた。
「そうか!」
私は力いっぱい膝をたたいた。
「そうか! これが明星だったのか!」
私は目をみはって叫んだ。私はついに明星の秘密を発見した!
第三の発見――視床下部の秘密
私は幼少のときから剣道をしこまれた。藩の剣術師範の家柄に生まれ、若年の折、江戸お玉ヶ池の千葉門で北辰一刀流を学んだという祖父に、はじめて木剣を持たされたのは三歳ごろであったろうか??そのとき私は、祖父の顔をゆびさして「目ン目がこわい!」といって泣いたそうである。そのころ八〇歳を過ぎていた祖父は、ほんとうの好々爺になりきっており、私はふだん、
父よりも母よりもなついていたが、そのときばかりは、木剣のむこうに光った剣士鳥羽源三郎酷、味。(祖父の名)の目に、ひとたまりもなくちぢみあがってしまったものらしい。めったに泣いたことのない私が一時間ちかくも泣いていたという。『それでもあんたは木剣だけははなさなかったよ」と、いまでも老母がほこらしげに語ってくれるのだが――、私は、のち、三段にま
で昇り、健康を害してやめたが、剣の天分があるといわれ、少年時代、そのころ盛んであった各地の剣道大会に出場してかぞえきれぬほどの優勝をしたのは、この祖父の血を受けたものであろ
う。私は剣道が好きであった。防具のはずれの肘を打たれて腕がなえ、思わず竹刀をとり落したりするときはつらいとは思ったが、苦にはならなかった。面金を越えて深くあざやかに面をとられたときは、目からパッと火が出て、プーンときなくさいにおいを嗅いだ。ほんとうに目から火が出るのである。けっして形容詞ではないのだ。これは剣道修行の体験者ならばみなご存知のは
その火たのだ。そのとき私の視野をかすめた魔彩
ニ戸 これは剣道修行の体験者ならばみなご存知のは
その火なのだ。そのとき私の視野をかすめた思考は
しばらくしてわれにかえった私はそれに気がついたのだった。そうだ。 とおなじだ。そして目から火が出ると同時に配鉱のなかでかいだあのなつかしいキナくさいにおいもいっしょにかいだような気がしたのだが――、しかし、『目から火が出るほどのこの衝撃は、いったいどうしたということであろうか? 外部から私の頭部を打ったものはなにひとつない。すると、私の頭の内部でなにごとがおこったというのであろうか。それともあれはなにかの錯覚であったのか?
私は、ふたたび一定のポーズをとり、頭をある角度からある角度にしずかに移しつつ特殊な呼吸法をおこなって、定にはいっていった。と、なんの予告も感覚もなしに、さっきとおなじ場所に火を感ずるのである。同時に頭の深部にある音響が聞こえはじめた。私は、またさっきの電撃に似た痛覚を頭の一角に感じるのかとひそかにおそれつつ、少々、「おっかなびっくり」にそれをやったのであったが、今度はぜんぜん痛みもなにも感じなかった。そうして頭の内奥の上部に明星」がふたたびまたたいた。
まさに――、私の脳の内部に一大異変が生じていることにまちがいはなかった。しかし、それ
はどういう異変であろうか?
脳の間際、「関に下部」に異変が起きたのである。すべての秘密は、彫脳の内部の視床下部に
それは一種の化学反応によるショックであったのだ。
あった。ここが秘密の原点だったのである。
私がさきの章で内分泌腺の機構について図までかかげて説明したのは、これを知ってほしいためであった。専門学者はさぞかし片はらいたく思われるのにちがいなかろう。それを承知でおくめんもなく素人の私があえてそれをしたのは、この視床下部の秘密を読者に知ってほしいためであった。図(真)を見ればわかる通り、すべての内分泌腺を統御しているのは視床下部である。 そしてここが、ヨーガでいうブラーマ・ランドラ(梵の座)であり、サハスララ・チャクラなのである。今までのヨーガの指導者のいうように、それは、松果腺、松果体ではない。視床下部が、 サハスララ・チャクラなのである。もっとも、視床下部のすぐそばに松果体があるので、それを見あやまったのであろう。もっとも、松果体自身もある重要な役わりを受けもつ。けれども、サハスララ・チャクラそのものは松果腺ではなく、視床下部であった。
視床下部はいまいったように、下垂体系を通じて全内分泌器官を統御する。それでは、なにをちって続御するのかというと、もちろんそれは『神経」である。したがって視床下部には重要な神経がたくさん集まっている。私は、古代ヨーガのなかから、この部分を動かすポーズとムドラ 1を創案してここにつよい圧力をくわえ、同時に、強烈な思念(念力)を集中していた。百日のあいだ、たえまなく、私はここに、物質的、精神的、両面にわたるつよいエネルギーを集中した。その結果、ここの神経線維に一大異変が生じたのだ。その異変により、神経線維が異常分泌をおこしたか、それともそこにある分泌液、神経渋に変化がおきたのか、そのいずれである
細細に一大記変が生じたのだ。その異変により、神経線維が異常 「分泌をおこしたか、それともそこにある分泌液、神経液に変化がおきたのか、そのいずれである
かはわからぬが、それらの分が複雑に混合し合って、化学反応をおこしたのだ。
その化学反応による衝撃が、視床の神経をはげしく打って、網膜に光を走らせたのだ。その衝撃はここの神経線維にシナプスをむすび、その火はいつでも私の思うまま私の脳の内良に明星を重たたかせることとなった。同時に私の脳の構造も一変した。求聞持聰明法の成就である。求聞特意用法とは、脳の内部の化学反応による脳組織の変革であったのだ。
視床下部の生理学的機構
では、視床下部の機構を生理学的にみてみよう。(図説・内分泌病への手引・土屋雅春、他着による)
解剖
よくそく視床下部は同脳の一部で、視床の腹側にある。
b=生理
視床下部は体温、普環、新陳代謝、外分泌、平滑筋などの諸機能の調節をつかさどるほかに、 内分泌腺の統御の場として重視されている。内分泌腺調節機序としては、(1)神経性調節(交感・副交感神経の体液性調節とがある。
下重体後葉のパゾプレシン、オキシトシンが視床下部の視素上核や室旁核の神経分泌により支配されていることが示され、最近は下垂体前葉が次に記すような各種の分泌促進因子 releasing factor の支配下にあることが知られてきた(次頁の図参照)。




