空海 ― 最初の求聞持の夜
夜は、まだ海の名を知らなかった。
土佐の山奥。
洞の口から見える空は、墨を流したように暗く、星は息をひそめている。
潮の匂いが、遠くからかすかに届いていた。
青年は、岩の上に坐していた。
名は、まだ空海ではない。
学びは尽きなかった。
経を読み、論を写し、言葉は山のように積み上げた。
だが――
知は増えても、道は見えなかった。
「なぜだ」
問いは声にならず、胸の内で反響する。
仏は説いた。
法は示された。
それでも、決定的な何かが欠けている。
その夜、彼は古い一文を思い出していた。
求聞持。
聞いた法を失わず、
観た真理を曇らせず、
智慧が自ら動き出す境地。
――だが、それは紙の上の言葉だった。
洞に満ちる闇
灯明は置かなかった。
光は、外にあると思っていたからだ。
真言を唱える。
声は低く、呼吸に溶けていく。
何度目かも分からない反復ののち、
思考は、ふと、ほどけた。
焦りも、期待も、
「成就したい」という願いさえも、
闇に沈んでいく。
そのときだった。
背の奥――
脊の底に、かすかな熱が生まれた。
それは修行の成果でも、努力の報酬でもない。
ただ、目覚めだった。
熱は昇る。
ゆっくりと、抗うことなく。
胸を通り、喉を抜け、
額の奥――
言葉の届かぬ場所へと注がれていく。
青年の身体が、器になる。
虚空が坐す
闇が、闇でなくなった。
無限の広がりが、洞の中に現れる。
そこには星も、地も、時間もない。
ただ、虚空。
その中心に、ひとりの菩薩が坐していた。
童子の姿。
だが、その眼は、すべてを見通している。
虚空蔵菩薩。
青年は、名を呼ぼうとしてやめた。
名を呼ぶ前に、すでに呼ばれていたからだ。
「求めるな」
声は音ではなかった。
直接、心に触れる。
「覚えようとするな」
青年の胸に、これまで学んだ経がよぎる。
だが、それらは文字としてではなく、
意味として、同時に立ち上がる。
忘れていたのではない。
遮られていただけだった。
摩尼宝珠
虚空蔵の胸が、かすかに光る。
一輪の蓮華。
その上に、ひとつの珠。
摩尼宝珠。
願いを叶える宝ではない。
智慧を与える道具でもない。
それは、生命そのものの凝縮だった。
珠が光ると、青年の身体も応えた。
呼吸、血、鼓動――
すべてが、ひとつのリズムに整う。
「智慧は、思考の先にない」
虚空蔵は告げる。
「身体が整い、
心が澄み、
世界が遮られなくなったとき、
智慧は自然に働く」
その瞬間、青年は悟った。
天才とは、
多くを持つ者ではない。
覆われていない者なのだ。
夜明け
気づけば、洞の外が白み始めていた。
鳥が、ひと声だけ鳴く。
青年は、まだ岩の上に坐している。
何かを得た感覚はない。
だが、何も失われていない確信があった。
経は、もう忘れないだろう。
言葉は、必要なときに自然に湧くだろう。
それよりも――
この身が、
法を生きる器になった。
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
この夜が、後に「最初の求聞持」と呼ばれることを、
彼はまだ知らない。
ただ、空を見上げ、静かにつぶやいた。
「虚空よ」
その名は、
やがて彼自身の名となる。




