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文殊 ― 獅子の上に坐す、若き智慧

 

文殊 ― 獅子の上に坐す、若き智慧
夜明け前、学び舎の裏庭に霧が満ちていた。
筆を置いたまま動けずにいる若者の前に、音もなく一頭の獅子が現れた。
その背に坐すのは、童子の姿をした菩薩だった。
年若く見えるが、そのまなざしは、すでにすべてを見通している。
右手には、光を宿した剣。
左手には、椰子の葉に記された古い経巻。
剣は、敵を斬るためのものではない。
迷いを、誤解を、言葉にできない曖昧さを――
静かに、しかし確実に断ち切るためのものだった。
「知識を集めるな」
菩薩は、声とも思念ともつかぬ響きで語る。
「見極めよ。
何が必要で、何が不要かを」
若者の胸に、長く絡みついていた不安が、ほどけていく。
それは“分からない”という恐れではなく、
“決められない”という迷いだったのだと、初めて気づく。
菩薩の足元には、青い蓮華がひらいている。
それは智慧の花であり、清らかさの象徴だった。
泥の中からしか咲かぬことを、文殊は知っている。
「三人寄れば、文殊の知恵というが――」
微笑みながら、菩薩は続ける。
「知恵とは、ひとりで抱えるものではない。
問いを分かち、迷いを言葉にしたとき、
智慧は、自然と姿を現す」
獅子が一歩、前に進む。
地は揺れない。ただ、心の奥が静まっていく。
この菩薩は、学問の神ではない。
記憶の守り手でもない。
物事の“ありのまま”を見抜く力――
選び、断ち、進むための智慧そのものだった。
やがて霧が晴れ、庭には誰もいなくなる。
だが若者の胸には、ひとつの真言が残っていた。
オン・アラハシャ・ノウ
oṃ arapacana dhīḥ
それは、答えを与える言葉ではない。
問いを、正しく立てるための響きだった。

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