阿弥陀如来の「三尊」
一光のもとに、三つの影
一光三尊
堂の奥は、昼であっても薄暗かった。
灯明の揺らぎが、金色の光背に吸い込まれてゆく。
その光の中心に、阿弥陀如来は坐していた。
目を閉じているようで、すべてを見通している。
手は静かに結ばれ、救いを“与える”というより、
すでに在る救済を思い出させるかのようだった。
その両脇に、二つの影が立つ。
向かって右、観音菩薩。
やわらかな立ち姿は、風に揺れる水面のようで、
その眼差しは、悲しみを責めることを知らない。
「恐れるな」
そう語りかける声は聞こえない。
けれど胸の奥で、誰もが確かにそれを受け取る。
向かって左には、勢至菩薩。
鋭さを秘めた沈黙が、空気を引き締めていた。
慈悲が抱くなら、
智慧は照らす。
迷いの理由、執着の正体、
自分自身が見ようとしなかった真実を、
静かに、しかし確実に示す存在だった。
三尊は、それぞれ別の姿でありながら、
一つの光背の中に収まっている。
一光三尊――
それは三体の仏が並んでいるという意味ではない。
慈悲と智慧と救済が、本来は分かれていないということの象徴だった。
雲が湧き上がる。
絵師たちは、それを「来迎」と呼んだ。
死の間際、阿弥陀三尊が極楽から迎えに来る姿。
だが、老人はこう言った。
「迎えに来るのではない。
気づいた者が、すでにその場に立っているのだ」
観音は、手を差し伸べる。
勢至は、道を指し示す。
阿弥陀は、動かない。
動かない中心こそが、
すべてを動かしている。
善光寺の本尊も、
快慶が刻んだ三尊も、
姿や配置は違えど、語るものは同じだった。
人は独りでは、光を信じきれない。
だから、慈悲と智慧が並び立つ。
そして、そのすべてを包み込むものとして、
阿弥陀は、今日も沈黙のまま坐している。
極楽は遠くない。
それは雲の彼方ではなく、
今、ここで、心がほどけた瞬間にひらく。
一つの光の中に、
三つのはたらきが息づいているように。




