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愛染明王

 

夜の伽藍に、焔のような気配が満ちた。

松煙の香が漂い、僧が三鈷杵を掲げると、空気が震え、闇の奥から赤い光が湧き上がった。
それは炎ではなく、しかし炎よりも熱を帯び、欲望よりも深く、祈りよりも切実な色──紅蓮の輝きであった。

やがてその光の中から、一尊の存在が姿を現す。

逆立つ黒髪は炎に似て、顔は天を睨むかのような憤怒相。
額には第三の眼が開き、見るものすべての執着と迷いを見抜くように光を放つ。
六本の腕は空を裂くように動き、その手には弓矢、五鈷杵、宝珠、蓮華、金剛鈴──人の心を縛り、同時に解き放つ法具が握られていた。

その名こそ――

愛染明王。

かつて、人々は言った。

「愛欲こそ、輪廻を逃れられぬ鎖である」と。
「恋は愚かさであり、執着は地獄へ落つる道である」と。

だが密教の叡智は、静かに微笑んだ。

――煩悩なくして、誰が悟りを求めるのか。
――苦しみなくして、誰が真理を欲するのか。

煩悩即菩提。

迷いと欲望こそ、悟りへと続く階段である。
燃えさかる愛欲を断つのではなく、それを智慧へと変える者。
それが、この憤怒の姿を纏う明王であった。

その足元には宝瓶があり、そこからは尽きぬ宝が溢れ落ち、光の粒となって宙に溶けてゆく。
それは富や名声ではない。
真に求められる縁、想い、導きを叶える福徳である。

人々の祈りは、時に恋であり、恨みであり、執着であり、涙であった。
夫婦の絆を求める声、別離に怯える心、新たな縁を願う焦がれる想い。
そのすべてが、明王の炎に投じられ、煩悩から祈願へ、執念から慈愛へと変じてゆく。

焔のような声が響く。

「愛を恐るるな。
それは汝を焼く火ではなく、汝を照らす光となる」

憎しみや嫉妬すら、明王の手には武器とも、宝ともなる。
ゆえにその存在は、恋愛成就、夫婦和合、縁結び、そして人間関係の調和を司るものとして古来より信仰された。
しかし願いを叶えるだけの神ではない。
戦に臨む武将もまた、この明王に祈った。
己の心こそ最も厄介な敵であることを知っていたからだ。

赤き憤怒の相の奥に宿るのは、静かな慈悲。

愛するがゆえに苦しむ者、求めるがゆえに迷う者。
そのすべてに、明王は告げる。

――欲を恥じるな。
――その炎を抱えたまま、歩め。
――いつかそれは、悟りの光となる。

紅蓮光は静かに揺れ、夜の伽藍を照らし続けた。

そして誰かの胸の奥に、気づかぬうちに燃える灯がともる。

「愛は迷いであり、同時に道である」

愛染明王は、ただそこに在り、
人間の弱さと願いと美しさを、すべて受け止めていた。

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