愛のために智慧を 智慧のために愛を For Love, Wisdom For Wisdom, Love
じっさいに――、燃えるような人類愛、来生愛がなければ、シャカの成仏法は成就できないのである。真実の「愛」が、真実の「智恵」を育むのである。
キリスト教の愛の実践はすばらしい。
仏教はすみやかにとり入れなければなら
新皮質系の知性は、神を考え、仏を理解(分析し演釈して)しようとするものですが、 霊性は、神と一体になり、仏と同化しようとする超性です。明らかに新皮質系のもの
新皮質脳が生む知性は、より良く生きる』ことと、『より高く生きる』ことを目ざします。そのための創造行動をいとなみます。その結果、どういうものが生み出されたかといいますと、精神的には、哲学(および倫理・道徳)、物質的には科学(と技術)です。ことばを変えていえば、『より良く生きる』が、科学と技情を生み出し、『より高く生きる』が、哲学・倫理を生み出した。ところが、哲学・倫理はいままったく行きづまって、人類が現在かかえる問題に、大声で警告は発するけれども、なんの答も出すことができない。
いや、それどころか、哲学(の知恵)は分化して科学を生み出し、科学はついに太陽のエネルギーを手中にし、人間を月に送りこむまでになった。しかし同時にそれはいつなんどき全地球を壊滅してしまうかわからない核兵器を生み出してしまった。
しかし、同時に、キリスト教にもとり入れなければならぬものがあると思う。
それはなにか?
「智恵」である。
シャカの成仏法による智恵である。
いま、人類に最も必要なものは、智恵ではなかろうか? 愛もそうであるが、それ以上に智恵
愛だけではこの世界は救えないのではないのか。その証拠が、現在のヨーロッパである
智恵がないからである。
そういうと、いや、それはちがう。ヨーロッパこそ、人類の智恵の源流ではないかといわれるかも知れない。その通りである。ギリシャに起こった「哲学」がある。しかし、哲学が、真実の智恵であろうか?
哲学とは、その原語であるギリシャ語の「フィロソフィア」philosophiaのフィロス philos (愛している)と、ソフィア sophia (智恵)との合成語で、「愛知」とか、「知恵の探求」を意味する。智恵には、世界がいかにあるかについてのはっきりした知識と、その世界の中でいかにわれわれは生きるべきか、すなわちこの世で良きものとして求められるべきは何かについてのしっかりした選びと、この二つのものがふくまれている。「あるところのもの」(存在)の知識と、「あ
神)を求める意志とが、智恵にはふくまれているわけだ。
これは、人間における「知性」のはたらきである。
その人間の知性について、はこれを二つに分けて考えるのである。
一つは、つぎつぎと新しい知識を求め、その知識を理解し、これを演釈・帰納してさらにべつな新しい概念(知識)を生み出してゆくもの、これが、哲学の知性であり、知恵である。知を愛するという智恵である。
しんしつけいこれは、生理学的には、大脳の新皮質系から生ずるものである。
かんのうしこうもう一つは、明らかに新皮質系の脳とはちがう脳から生ずる知性である。 「霊的知性」、「霊性」とよぶ。これについて、。
霊性の「場」は、間脳の視床下部にありますが、それは、要するに、物質的な欲望や本能を制御し、時には否定までして、より崇高なるものにあこがれる精神領域(知性)です。
これが、「哲学」の智恵であり、知性なのです。
――視床下部がなぜ霊性の「場」であるかについて
この視床下部が『第三の目」と運黙して活動するとき、人間は霊性を顕現するのです。
そしてその究極において、カミ、ホトケにまで到達するのです。
人間は、知性・理性の場である新皮質脳と、本能の座である大脳辺縁系との中間にある『間脳』に、霊性の場を持っていたのです。これにより、人間はバランスがとれるのです。ところが、この間脳にある霊性の場を、人間は失ってしまった。しかし、それを知っているひとたちがいた。その代表が、シャカです。シャカは、『解脱法』『成仏法』
という名で、この霊性の場を再開発するシステムを完成しました。
真実の智恵とは、この霊性の場から発する智恵なのである。
この智恵なくして、世界は救えない。
しかし、この智恵を育むのは愛――尽きることなき人類愛・衆生愛である。
この愛に、三つの形態がある。
一 、大脳辺縁系による愛本能に根ざした愛、たとえば母性愛(盲愛・溺愛に陥りやすい)
二、新皮質脳による愛理性的な愛。前に述べた哲学の定義の中の、「あるべきもの」(善)
を求める意志から出るもの(利己的な愛に走りやすい)
三、間筋による受霊的知性から発する純粋の愛
この三つである。
つまり――、町脳の霊性の場には、純粋の(霊的)愛と、最高度の霊智が存在するのある。
この二つはすみやかに一つにならねばならぬ。いま、世界がかくも混乱をきわめ、災いにみちているのは、この二つがこれまでべつべつの道を歩んでいたからである。この二つの道が一つになる。二十一世紀をきりひらくあたらしい道が、開くのではないのか。
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