応説経(物語風の話)
ある時、世尊は拘留国の牧牛の村に滞在しておられた。
日が傾き、木々の影が長く伸びるころ、比丘たちが集まり、静かに座して仏の声を待っていた。
仏はしばらく沈黙し、弟子たちを見まわしてから、穏やかに語り始められた。
「比丘たちよ。
わたしは正しい知恵によって、すべての煩悩を断ち切り、解脱を得た。
無知によってではなく、知見によってである。
では、どうして知見によって漏尽を得ることができるのか。
それは、色をあるがままに知り、その生起と滅びを観じ、
受・想・行・識もまた、その生起と滅びを観じるからである。
比丘たちよ。
ただ『解脱したい、煩悩をなくしたい』と願うだけでは、何も成し遂げられない。
念処・正勤・如意足・根・力・覚・道を修めなければならない。
そうでなければ、解脱には至れない。
譬えて言おう。
母鳥が卵を抱いても、ときに応じて温めたり冷ましたりしなければ、
雛は自ら殻を破って出てくることはできない。
比丘も同じである。修行を怠っては、解脱を得ることはできないのだ。
だが、もし比丘がよく修行し、心を整え、努め励むならば、
たとえ『解脱したい』と願わずとも、煩悩は自然に尽き、心は自由になる。
比丘たちよ。
木工が斧を使い続けると、斧の柄は少しずつ削られていく。
その減っていく瞬間はわからなくとも、やがて柄が尽きたことに気づく。
修行もまた同じである。
日々の努力によって、気づかぬうちに煩悩は尽き、やがて解脱を知るのである。
また、大きな船もそうだ。
海辺につながれていても、綱が少しずつ切れていけば、やがて自由に海へと出てゆく。
比丘の心もまた、執着の綱が少しずつ断たれていくならば、自由へと至るのだ。
だからこそ、比丘たちよ。
一切の結びつきと煩悩を断ち、漏れ出る煩悩を起こさぬために、
念処・正勤・如意足・根・力・覚・道を修習しなさい。」
仏がそう語り終えられた時、集まっていた六十人の比丘が、その場で煩悩を断ち、心の解脱を得た。
弟子たちは皆、歓喜し、師の言葉を心から受け入れたのであった。




