愛のために智恵を、智恵のために愛を
― ある仏教者の独白 ―
ある雨の日だった。古びた寺の書院で、年老いた僧がひとり、静かに筆を走らせていた。名を、玄明(げんみょう)という。
書きかけの原稿には、こんな言葉が綴られていた。
「日本の仏教には、いや、現代の人間すべてに、欠けているものがある――それは、愛である。」
ふと筆を止め、玄明は襖越しに降る雨の音に耳を澄ませた。その瞳には、過去の数々の出会いがよみがえっていた。戦後の貧困の中で出会った孤児たち、病床で最期の祈りを捧げた信徒、宗派を越えて交わした神父との対話……。
「愛がないと、誰もが言うだろう。だが、慈悲ならあるではないかと。私もそう思っていた。だが……違うのだ。」
そう呟き、彼はふと、一人の人物の言葉を思い出す。
かつて交流のあったジェス教会のピタウ神父が、ある講話のなかでこう語ったのだった。
「犠牲をともなわない愛はない。」
その言葉を聞いた瞬間、玄明の胸には雷のような衝撃が走った。
さらに別の神父、ビックの言葉も重なった。
「ほんとうの愛は犠牲なしではあり得ません。
私たちも、全世界のために何か犠牲をはらわなければなりません。
それが私たちの成長であり、進歩なのです。」
玄明は黙して考えた。
犠牲をともなってこそ、ほんとうの愛であること。
その愛によって、自分が成長し、進歩すること。
これが、愛の定義ではないのか?
仏教が説く「慈悲」は深い。苦を抜き、楽を与えよと教える。だが――そこに「自己を賭ける覚悟」が伴っているだろうか? 苦しみに手を差し伸べるその手に、己の痛みが宿っているだろうか?
「犠牲のない愛は、易きに流れる優しさにすぎぬ。
そして、その優しさが、ほんとうの救いになるとは限らぬのだ」
玄明の筆がふたたび走る。
「この愛こそが、今の仏教に、今の宗教に、そして現代の人間に必要なのではないか?
いまこそ、あのビタウ神父の言葉――“犠牲を恐れぬ愛”が叫ばれるべきではないのか?」
ふと、寺の門の外から子どもたちの声が聞こえた。濡れた地面をはしゃぎながら駆ける小さな足音。その笑い声に、玄明の瞳がやわらかくゆるむ。
「そうだ……」
独りごちて、彼はつぶやいた。
「ほんとうの愛は、誰かの未来のために、自分を賭けることなのだ。
そのとき、人は智恵に目覚める。
智恵とは、愛のために磨かれるもの。
愛とは、智恵によって育てられるもの。
神の愛と、仏陀の智恵がひとつになったとき、道はひらかれる。」
筆を置いた彼は、そっと立ち上がり、雨のなかへ歩み出る。
――愛のために智恵を。智恵のために愛を。
それは、彼の人生を支えてきた祈りであり、
そして、未来への預言でもあった。




