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祠の声 ―水子供養に捧ぐ光の章

祠の声 ―水子供養に捧ぐ光の章

第一章 祈りの声を聴く日

その日、風はやけに静かだった。
八月の終わり、湿った熱気がようやく引き始めた午後、沙織は駅前の古本屋で一冊の雑誌を手に取った。表紙には小さく「特集・仏のある暮らし」とあり、なかでも彼女の目を引いたのは、ページの隅に書かれた短いタイトルだった。

「祠で祈る母たち――水子供養というかたち」

なぜその言葉に惹かれたのか、彼女自身わからなかった。ただ、その小さな文字に、何か心の奥をそっと揺らすような響きがあった。

カフェに入り、アイスコーヒーを前にそのページを開く。文章は簡素で短く、「命を失った子どもに祈る場」として、地方の古い寺が紹介されていた。写真には、小さな祠の前でそっと手を合わせる女性の背中が写っていた。

不意に、胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。
心のどこかで閉じ込めていた記憶が、ゆっくりと顔を出してきた。

流産だった。
妊娠がわかったときには、すでに身体が不安定で、医者にも「難しいかもしれない」と告げられていた。
相手との関係も微妙な時期で、沙織はすべてを一人で抱え込み、そのまま……失った。

以来、そのことを口にしたことはない。
誰にも、言わなかった。
言えなかった。

雑誌を閉じ、沙織は立ち上がった。
まるで何かに導かれるように、足が向かったのは、町のはずれ――かつて祖母と何度か訪れた小さな寺だった。

夕暮れ前、寺の山門には誰の姿もなかった。
蝉の声がかすかに遠くなり、風が木々をくぐっていく。

境内の奥に、ひっそりとそれはあった。
背の低い石の祠。小さな赤いよだれかけ。
そこには、優しく微笑む水子地蔵が祀られていた。

胸の奥が、かすかに疼いた。
沙織は、足元にしゃがみこむと、ゆっくりと手を合わせた。

だが、祈ろうとしても、言葉が出てこない。
ただ、心が波立っていた。

――私が、あの子のために祈ることなんて、許されるの?

そう問いかけた瞬間、不思議な感覚がした。
耳をすませば、風のなかに、かすかな声が聞こえたような気がした。

「ママ……そこにいるの?」

沙織は、はっとして顔を上げた。
もちろん誰もいない。
けれど、確かに胸の奥で、その声が響いていた。

小さな祠の前で、沙織はしばらく動けなかった。
頬には、知らぬ間に涙が伝っていた。

――この場所は、ただの石ではない。
誰にも言えなかった祈りを、言葉にならなかった想いを、
受け止めてくれる場所なのかもしれない。

日は暮れ始め、境内は薄い朱に染まっていた。
沙織はもう一度だけ、地蔵の前に手を合わせ、
小さく声に出してみた。

「……ごめんね。」

その一言は、風に乗って、木々の間へと消えていった。

第二章 名もなき命に会いにゆく

それから数日、沙織は妙な感覚を抱えながら過ごしていた。
仕事の帰り道、電車の窓に映る自分の顔が、ふと見知らぬ人のように感じられる瞬間があった。
家に帰っても、テレビの音は遠く、食事の味もしなかった。

何かが、心の奥でずっと揺れている――
けれど、それが何なのか、はっきりとは言葉にできない。
それでもひとつだけわかっていた。

あの祠に、もう一度行かなければならない。

週末、朝の光が優しく部屋に差し込んでいた。
沙織は、押し入れの中にしまいこんでいた箱を引っぱり出した。
その箱は、祖母が亡くなったときに引き取った遺品のひとつで、まだ開ける気になれずにいたものだ。

蓋を開けると、古いアルバムと、古紙の束、そして一枚の手紙が入っていた。
手紙の筆跡は達筆で、しかしどこか震えていた。

「わたしにも、産めなかった子がいました――
あの祠には、何度も足を運びました。
祈ることを、やめないでね。
その子は、ちゃんと聞いてくれているから。」

沙織の手が止まる。
祖母は何も語らなかった。いつも穏やかに笑っていた。
けれどその背後には、沙織と同じ痛みがあったのだ。

封筒の奥から、もう一枚の紙片が出てきた。
墨で書かれた、静かな言葉。

「水子の祈り詞(ことば)」

慈しみ深き観音さま
母のよう包み、守りたまえ――

沙織は、その紙を両手で抱くように胸にあてた。
その日、祠へと向かう決意が、迷いのないものになった。

丘を登る道は、前よりも明るく見えた。
草の匂い、鳥の声、風の音――すべてがどこかやさしい。

祠の前に立つと、前回とは違って、言葉がすっと胸に浮かんできた。
紙片に書かれた詞(ことば)をそっと唱えてみる。

慈しみ深き観音さま
母のよう包み、守りたまえ
わたしの願いを聞き届け
光の手をもって導きたまえ

言葉のひとつひとつが、空気に溶けていくようだった。
どこか遠い場所で、小さな魂が耳を傾けてくれているような気がした。

「……あなたの名前は、わからない。
だけど、わたしの心のなかには、ちゃんといる。
ここに、生きてる。」

沙織は、目を閉じ、数珠を両手にかけた。

おん ばざら さだこくこく
煩悩の鎖を解き あなたの心に安らぎあれ

なうまく さんまんだ ぼだなん ばんばく そわか
すべての仏、すべての慈悲に守られて
あなたが迷いなく光へと還りますように

声はかすれていた。
けれどその祈りは、彼女が初めて、自分の罪と痛みを越えて
誰かのために捧げた言葉だった。

風が吹いた。
小さな花が、祠の前で揺れた。

沙織は微笑んだ。
その笑みには、悲しみと優しさが混ざっていた。
まだ赦されたわけではない。
けれど、きっと、その道の入口に立ったのだ。

名もなき命と、初めて向き合えた、そんな日だった。

 

第三章 祈りを紡ぐ

夜になると、沙織は静かに灯りを落とし、机の前に座るようになった。
祖母の遺した「祈りの詞」を紙に書き写す。墨の香りが、心の奥にまで沁み込んでいく。

字がうまく書けない日もあった。
涙でにじんだ紙を、何枚も捨てた日もあった。
けれど、手を動かし、言葉をなぞっていくたびに、自分が少しずつ“母”になっていくような感覚があった。

それは、誰の目にも見えないかもしれない。
でも、祈るという行為のなかに、沙織はようやく「赦し」というものの輪郭を感じ始めていた。

週に一度、彼女は祠へ通った。
静かな風の吹く山の上、木々に囲まれたその場所は、沙織にとって“心の居場所”になっていった。

ある日、ふと思い立って、小さな風車を持っていった。
桃色と水色の優しい色合い。子どもが喜びそうな、あの風車。

地蔵の足元にそっと立てて、彼女は呟く。

「あなたに似合う色か、わからないけど……。
でも、これを見るたび、あなたのことを思い出せる気がして。」

風が吹いた。
風車が小さく回り出す。
その音は、どこか懐かしく、遠い昔に聞いた子守唄のようだった。

沙織は、祖母の遺品から写した祈りの詞を、ゆっくりと唱えはじめる。

おん はたさ はたく さだだ かん
痛みも、悔いも、恐れも
すべてを手放し 仏の懐に包まれますように

言葉の重なりが、音となり、空気の中に溶けていく。
それは誰のためでもなく、自分と、そこにいる小さな魂との間にだけ存在する、深い静けさだった。

祈ることに、意味があるのか――
かつての沙織なら、きっとそう思っただろう。
過ぎたことは戻らない。失った命は還ってこない。
それでも今の彼女は、**「だからこそ祈るのだ」**と知っていた。

祈りとは、時間に抗うものではない。
過去にしがみつくことでもない。
それは、今をどう生きるかを見つめ直す行為だった。

祈るたびに、沙織の中にあった“怒り”や“自責”は、
ゆっくりと、薄紙をはがすように解けていった。

「名前がなくても、声が聞こえなくても……
私のなかに、あなたはいる。
祈ることで、私はあなたに近づける。」

夜の祠で、風車がまたひとつ、回った。

第四章 手放すための涙

祈りを重ねるうちに、沙織の生活は少しずつ変わっていった。
朝の目覚めがやわらかくなり、出勤前には仏間の祖母の遺影に一礼する習慣ができた。
けれど、心の奥底にはまだ、ひとつだけ、触れられずにいた“黒い塊”が残っていた。

――あのとき、本当に望んでいたのか。
――もし、あの命を喜びとして迎えられていたら、何か変わっていたのか。

問いはいつも、答えではなく沈黙を連れてくる。
沙織はそれでも、問い続けることをやめられなかった。

ある雨の夜、祠を訪れると、山の空気は重く、湿っていた。
誰もいない境内。石段は滑りやすくなっていたが、沙織は迷わず奥へ進んだ。

祠の前に立ち、傘を閉じると、雨が髪を濡らした。
赤い風車は濡れながらも、かすかに揺れていた。
沙織はその場に膝をつき、ゆっくりと語りかける。

「……あなたに、“いないこと”を望んでしまった日があった。
あの時の私は、怖くて、追い詰められていて……
どうしていいかわからなかった。」

雨音のなかで、自分の声が震えているのがわかる。

「産んであげられなかったこと、
あなたの名前を呼ぶことすらできなかったこと、
この手で抱けなかったこと、
ずっとずっと、許されるわけがないって思ってた。」

頬を伝うのは、雨なのか涙なのか。
沙織は自分でももう分からなかった。

おん さのう のうてい ばいきや ばく そわか
すべての願い、すべての祈りは
あなたの安らのためにあります

祈りの詞を唱えながら、ついに沙織の嗚咽がこぼれる。
声にならない叫びが、胸の奥から絞り出される。

「ごめんね……
ごめんね……
どうしても、あなたに会いたかった――」

それは祈りではなかった。
赦しを求める言葉でも、慰めでもない。
ただ、真実だった。
心の奥の最もやわらかい場所から出た、魂の声だった。

そして――
不意に、あたりの雨音が止んだように感じた。

沙織は顔を上げる。
空にはまだ雲がかかっていたが、木々の隙間から、
一筋の光が差し込んでいた。

その光が、まるで祠の上にだけ落ちているように見えた。

風車が、やさしく回る。

まるで答えるように。
まるで「大丈夫だよ」と言うように。

その瞬間、沙織は思った。

――あの子は、もう迷っていない。
迷っているのは、私のほうだったんだ。

大粒の涙が、頬を伝って落ちていく。
けれどそれは、これまでの涙とは違っていた。

重みを手放すための涙。
後悔を赦すための涙。
そして、前を向くための涙だった。

「……ありがとう」

その言葉をようやく口にしたとき、
雨はすっかり上がっていた。

第五章 光のなかで、もう一度

春の風が、街の空気をやわらかく撫でていた。
花屋の店先には色とりどり

沙織は、いつもの通勤路を歩いていた。
変わったのは周囲の景色ではなかった。
彼女の中の、見えない風景だった。

会社では相変わらず忙しさに追われ、同僚の愚痴も絶えない。
けれど、彼女はもう、その喧騒に巻き込まれることはなかった。
それよりも、一日の終わりに、仏前に手を合わせる時間のほうが、
ずっと大切になっていた。

「今日もありがとう」と、
そう静かに口にするたび、心が整っていくのを感じる。

自分のなかに“誰か”がいてくれる感覚。
それは悲しみではなく、光となって胸の奥に灯っていた。

ある日、久しぶりに訪れた祠には、風車が何本も立っていた。
近所の誰かが、同じように訪れているのかもしれない。
あるいは、気持ちのある誰かが、名もなき命のために風を届けてくれているのか。

それを見て沙織は思った。
この祠は、祈りの場所であると同時に、
“名もなき命たち”が眠る、静かな交差点なのだと。

この場所で、人は傷を手放し、誰かに赦され、そして再び歩き出す。

祈りの詞を、今では覚えて口ずさめるようになっていた。
沙織は、そっと唱える。

なうまく さんまんだ ぼだなん あみりてい だはん
無量の光の中で、どうか安らかに
この祈りが届くならば――
今ここに、あなたが成仏されんことを

言葉のあと、長い静寂が流れる。
鳥の声が聞こえる。
風車が、今日もゆっくりと回る。

沙織は、祠の前で手を合わせながら、
ふと思った。

私も、もう一度、生きてみよう。
あの命の分も、やさしく、強く。

それは“やり直す”という意味ではなかった。
過去を否定せず、未来を恐れず、今を生きるということ。
あの子の存在をなかったことにするのではなく、
**「共に生きる」**という選択。

祈りは終わった。
けれど、人生は終わっていない。

沙織は立ち上がり、空を見上げた。
雲が晴れ、あたたかな陽が降りてくる。

光のなかで、彼女は微笑んだ。

終章に寄せて:あとがきのようなもの

この物語は、すべての“名もなき命”と、
その命を想う“まだ名付けきれぬ祈り”に捧げられています。

祈りとは、声に出すだけのものではなく、
手を合わせる仕草、何気ない日々の優しさの中に宿るもの。

あなたの中にも、
“誰にも言えなかった痛み”や“名前のない祈り”があるのなら、
どうかそれを、そっと抱いて、生きていってください。

それが、供養というものの、ほんとうの姿なのかもしれません。

合掌。

 

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