序章 ― 表参道 禅カフェ「静庵」にて ―
表参道の並木道から一本奥へ入ると、都会の喧騒がふっと遠のく瞬間がある。
その細い路地に、私は初めて足を踏み入れた。
「静庵(じょうあん)」――禅と抹茶と読書をテーマにしたカフェ。
知人がSNSで紹介していたのを見て、何となく気になっていた。最近、何かを「感じたい」と思う瞬間が増えていたのかもしれない。
ガラス戸を引くと、やわらかな木の香りとお香の残り香が私を包んだ。
カウンター奥には袈裟を羽織った店主らしき人物が立ち、静かに一礼してくれた。
「おひとりですか?」
「はい。落ち着ける席をお願いします」
窓際の一席に案内され、私は抹茶ラテを注文した。店内には他に三人の客がいた。スーツ姿で黙々とノートを広げる男性。スマホを伏せて目を閉じている青年。そして、まるで何かを見透かすような瞳をした女性。
しばらくすると、店主が小さな盆に抹茶ラテと、白い短冊のようなカードを添えて運んできた。そこには手書きでこう書かれていた。
「問うべきは、心が何を欲しているか」
なぜか胸の奥がちり、とした。
私は今、何を欲しているのだろう? 成功? 恋愛? 癒し? ……いや、そうじゃない。もっと、根っこの部分で、自分を見失っている気がした。
「初めてですか?」
隣から声がした。先ほどのスーツの男性――彼は笑みを浮かべ、話しかけてきた。
「ええ。ふらっと来ただけなんですけど……落ち着きますね、ここ」
「俺も最近よく来てます。何ていうか、“ちゃんと向き合える場所”って感じで」
それを聞いて、黙っていた青年が目を開いた。
「自分から逃げたくて来てるくせに?」
「うるさいな、瑛人。お前だって……」
「僕は、“今ここ”にいるだけだよ」
言葉のやりとりは軽やかで、どこか親しげだった。
続けて、奥に座っていた女性がふっと微笑んだ。
「変わりたい、と思ってる人は、案外この場所に引き寄せられるのよ。何かの“縁”で」
私は少し戸惑いながらも頷いた。その言葉に、なぜか涙が出そうになったから。
気がつくと、四人がさりげなく同じテーブルに集まっていた。
まるで、目には見えない糸が、私たちを静かに結びつけていたかのように。
第一章 ― 欲神足篇:結衣の願い ―
その夜、私は久しぶりに夢を見た。
水面に揺れる灯火が、暗い湖を照らしている。
その光に導かれるように、私は静かに歩いていた。けれど、どこか不安だった。
自分が何を求めているのか、わからなかったから。
目を覚ましたのは、午前四時。窓の外はまだ夜の名残を残し、街の音も遠かった。
私はベッドの中で、禅カフェ「静庵」で読んだ言葉を思い出していた。
「問うべきは、心が何を欲しているか」
問いかけは、まるで胸の奥に沈んでいた感情を浮かび上がらせるようだった。
私は今、何を本当に欲しているのだろう?
……答えは、すぐには出なかった。
けれど、確かなのは、今の自分が空っぽだということだった。
仕事はそこそこ順調。人間関係も表面上はうまくやっている。
でも、どこかでずっと無理をしていた。
「笑っていれば、うまくいく」
「期待される通りに動いていれば、嫌われない」
そんな“装い”ばかりに、私は心をすり減らしてきたのだ。
その日、私は勇気を出して、カウンセリングルームに電話をかけた。
静庵のカードにあった紹介欄を頼りにして。
電話口の優しい声に、思わず涙がこぼれそうになった。
「あの……自分が何をしたいのか、わからないんです。毎日が、からっぽで」
予約が取れたのは三日後。その間、私は静庵に通い続けた。
小さな抹茶碗を両手で包むようにしながら、自分の内側に火を灯すように、静かに問い続けた。
「わたしは、何を本当に望んでいるの?」
ある日、店主が私の前にまた短冊を置いた。
そこには、こう書かれていた。
「欲とは業火ではない。願いの源だ」
ハッとした。
私はずっと「欲しがること」そのものを悪いことだと思っていた。
でも、本当に深いところから湧いてくる願いは、
私を焦がす炎ではなく、歩き出すための灯火なのかもしれない。
そして私は、ようやく言葉にできた。
「変わりたい。ほんとうの自分で、生きてみたい」
「誰かの期待じゃなく、自分の願いで」
その瞬間、胸の奥に小さな火が灯ったのを感じた。
それは、迷いを照らす淡くて強い光――欲神足の炎だった。
私はそれを、これから守っていこうと思った。
どんなに小さくても、自分の願いを見失わないように。
第二章 ― 勤神足篇:誠、努力が生まれるとき ―
「……正直、何のために生きてるかわかんねぇよな」
煙草をふかしながら、俺はいつもの公園のベンチに座っていた。
仕事はしてる。だけど、やる気なんてない。
同僚ともうまくやれてないし、気がつけば昼も夜もスマホで動画を流し見して終わる。
それがいつから続いていたのか、もうわからない。
ある日、会社の先輩に誘われて、気乗りしないまま入ったのが「禅カフェ・静庵」だった。
静かな音楽と抹茶の香り。最初は場違いだと思ったが、不思議と落ち着いた。
テーブルに置かれた短冊には、こうあった。
「続ける者に、力は宿る」
「続ける……か」
俺は何かを“続けた”ことが、あっただろうか?
その週、静庵の店主に声をかけられた。
「もしよければ、朝坐禅に来てみませんか? 毎週水曜、六時からです」
正直、迷った。でも――何もない毎日が変わるかもしれない、そう思った。
そして水曜の朝。眠い目をこすりながら、初めて禅堂に入った。
ただ坐る。それだけのことが、こんなに難しいとは思わなかった。
雑念、足の痛み、退屈、不安……
だけど不思議と、終わったあと心がスッと軽くなった気がした。
その日から、俺は毎週水曜、坐禅に通うようになった。
最初は義務感だった。でも、だんだん変わっていった。
「今週も来れた」
「今週は少し長く坐れた」
自分を少しだけ、誇らしく思える瞬間があった。
気づけば、朝の目覚ましを10分早めて、坐る習慣ができていた。
スマホの使用時間は自然と減り、食事の味に気づくことが増えた。
ある朝、禅堂の掛け軸を見上げた。
「勤めてやまずば、道は必ず開かる」
ああ、そうか。
努力って、根性じゃない。
「小さな続ける」が、自分を変える力になるんだ。
以前の俺なら、3日でやめてた。でも今は違う。
心のどこかに、静かな火が灯っている。
それは、勤神足の火――続けることの力。
俺は思った。
「まだ遅くはない。今からでも、やれることがある」
不器用でも、少しずつでも。
俺はこの道を、歩いていこうと思った。
第三章 ― 心神足篇:瑛人、心を“今ここ”に置く練習 ―
スマホを見ていないと、不安になる。
LINEの既読、SNSの通知、動画の更新――何もなければ心がざわつく。
電車の中でも、寝る直前まで、画面をスクロールするのが癖だった。
だけどある日、ふと気づいた。
「自分の人生を、自分で生きてない気がする」
誰かの投稿、誰かの評価、誰かの意見。
それらに埋もれて、俺はどこにいるのか、わからなくなっていた。
そんなとき、職場の同僚から紹介されたのが、表参道の「禅カフェ・静庵」だった。
初めて入った日、店の奥で流れていた音楽が妙に心に染みた。
そのとき、短冊に書かれた一文が目に入る。
「心は、今ここにしか住めない」
え……? 「今ここ」って、そんなに難しいこと?
でもその言葉が、なぜか離れなかった。
それから、静庵の「呼吸の瞑想ワークショップ」に参加してみた。
椅子に腰掛け、背筋を伸ばし、目を閉じる。
ただ「吸って、吐いて」を感じる。
……それだけなのに、気が散ってばかりだった。
「あ、さっきのLINE、返してなかった」
「明日までにあの仕事やらなきゃ」
「お腹減ってきた……」
気づけば、全然「今」にいない。
だけど、講師の女性が静かに言った。
> 「今、気づいたことが大切なんです。
> 何度でも、“今”に戻ってくればいいんですよ」
その言葉に、少し救われた気がした。
それから、スマホを置いて、毎朝3分だけ呼吸を見る練習を始めた。
最初は短かった3分が、5分、10分と伸びていった。
「今、吸ってる」
「今、吐いてる」
ただそれを意識するだけで、不思議と心が落ち着いていく。
焦りや不安が訪れても、深呼吸を一つする。
「今、ここにいる」
そう繰り返すことで、心の居場所が戻ってくるようになった。
ある日、静庵で結衣さんと話した。
彼女もまた、自分の「本当の望み」と向き合っていた。
俺たちは、それぞれ違う道を歩いているけれど、どこかでつながっている気がした。
今では、通勤電車の中でさえ、目を閉じて数秒だけ“今”を感じられる。
スマホを見なくても、目の前にある世界がちゃんと見えるようになった。
「心神足」――心を、今に定める力。
それは、僕の中の静かな軸になりつつある。
未来への不安も、過去の後悔も、
この一呼吸ではなく、ただの思考に過ぎない。
僕は、今日も呼吸する。
今、ここで。心を込めて。
第四章 ― 観神足篇:凛、観る目を持つということ ―
幼いころから、私は「なぜ?」が口癖だった。
世界はどうしてこう在るのか。
人はなぜ争い、そして、なぜ愛するのか。
哲学の本を読みあさり、宗教書にも手を伸ばした。
けれど、どれほど言葉を集めても、
心の底から「わかった」と思えることはなかった。
――観る目が欲しい。
真理を、ただ見つめる目が。
そんなとき、表参道の小さな禅カフェ「静庵」に導かれるように足を運んだ。
そこには、沈黙の中で呼吸する人々がいた。
言葉を超えた「見つめる力」が、場の空気に静かに宿っていた。
私は、師と呼ばれる女性に問うた。
「真理とは何ですか?」
師はただ、湯呑みの茶を一口すすり、こう言った。
> 「“今、そう問いを立てた心”を、じっと観てごらんなさい」
……意味がすぐにはつかめなかった。
でも私は、その言葉にふとひっかかった。
観るべきは外の世界ではなく、**“問いを発する自分の心”**なのか?
それから、私は「観る」練習を始めた。
瞑想の中で、自分の思考がどこから来て、どこへ行くのかを追った。
怒りが湧いたとき、その中心に何があるのかを観察した。
喜びのときも、執着があるかどうかを静かに見つめた。
それは、鏡をのぞき込むような作業だった。
そしてある日、不意に気づいた。
「ああ、私はいつも“答え”ばかりを探して、
“問いを立てた心”を観ることを忘れていたんだ」
観神足――それは、ただ“観る”。
判断せず、比較せず、評価もせず。
そのままの心、そのままの現象を、まっすぐに見つめる力。
私はそれを、今ようやく学び始めたのだ。
ある晩、静庵の縁側で、瑛人くんと話す。
彼は呼吸に心を置くことで、ようやく自分の軸を感じ始めたという。
「観る」ことと「在る」こと――ふたつの道は、どこかで交わるのかもしれない。
月の光が、水面を静かに照らす。
その揺れを、私はただ見ている。
今は、それでいい。
真理は、言葉の奥にある。
それをつかもうと焦るほど、遠ざかっていく。
だから私は、ただ観る。
沈黙の中で、問いとともに在る。




