准胝観音──七倶胝仏母の伝説
Juntei Kannon – The Legend of the Seven Buddha Mothers
かつて、この世が未だ光と闇の狭間に揺れていた頃──
風は呻き、大地は裂け、無明の夜が人々を包み込んでいた。争いは止まず、病と飢えが命を蝕み、あらゆる希望は霧のように溶けていった。
その時だった。
天が、裂けた。
轟音とともに虚空が開かれ、金色の光が世界を貫いた。太陽すらかすむほどの輝き。その中心に、ひとりの女神が降り立った。
その名は──准胝仏母(じゅんていぶつも)。
彼女は静かに地を見つめ、十八の手を広げた。手には剣、蓮華、法輪、数珠。すべてが真理と慈悲、そして戦いの象徴。
その身は女神でありながら、戦士であり、聖母であった。
遠い古代、彼女はヒンドゥーの神々のもとに現れ、「ドゥルガー」と呼ばれた。
悪しき魔族が世界を脅かした時、彼女は神々の力を一身に受け、剣を手に戦場に降り立った。
雷のごとく咆哮し、嵐のように舞い、魔を討ち祓った。
だが彼女の戦いは、破壊のためではない。
弱き者を守るため、無明を払うため──そしていつか、真に人々が目覚める日を信じてのものだった。
時は流れ、彼女は仏教の教えと交わり、七億の仏を生み出す仏母となった。
その名は今や、「准胝観音(じゅんていかんのん)」として知られている。
だが、彼女は単なる観音ではない。七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)──無量なる仏たちの母。
その存在は、永遠にして限りなく、時間を超えて慈悲を放ち続ける聖なる存在なのだ。
あるとき、一人の母が子を求めて祈った。
あるとき、産声をあげぬ子のために、民が名を唱えた。
そのたびに彼女は現れ、そっとその手を差し伸べた。
「オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ……」
この真言は風に乗り、山を越え、海を渡り、時の流れすら越えて、彼女の慈悲を今もこの世界に伝えている。
彼女の名は、「清浄無垢」を意味する。
その存在は、さとりへの道を示す灯火であり、混沌を越えて人々を導く羅針盤。
観音として数えられることもあれば、如来として讃えられることもある。
天台密教では「准胝如来」として仏部の尊とされ、真言密教では六観音の一尊に数えられた。
その身は女体とされ、水の神としての面影も残す。
安産、子授け、生命の芽吹きを見守る者。
そして曼荼羅の中に描かれる観音の種子「ブ(bu)」──それは准胝の象徴である。
彼女の物語は終わらない。
それは、苦しむすべての命が尽きるその時まで。
七倶胝仏母、准胝観音──
その輝きは、今も静かにこの世界を包んでいる。
第二章 七億の胎動
夜の帳が下りると、地上の村々には静寂が広がる。しかし、盲目の少女シィヤにとってその夜は特別だった。眠りに落ちた彼女の意識は、音も光もない虚空を越え、遥かなる存在の元へと導かれていた。
そこは、星の海を越えた場所──まるで宇宙そのものが母胎となって脈打つような、温かく荘厳な空間。
そして、彼女は見る。十八の手を持ち、静かに蓮の上に坐す女神。その顔は幾千もの命を慈しむ母のようであり、同時に、真理の剣を携えし闘神のようでもあった。
「……あなたは……誰?」
声を出したはずなのに、空気は震えず、ただ心に響く応答が返る。
「我はチュンディー──清浄無垢の光。七倶胝仏の母」
その瞬間、彼女の心に流れ込む七つの光。
慈悲、智慧、忍辱、精進、禅定、施与、真理──それぞれが一つの命、一つの宇宙を象徴する。光は渦を巻き、無数の仏たちの胎動として波紋を広げていく。
シィヤの瞳から、涙が流れた。それは盲いた瞳からではなく、魂からこぼれた涙だった。
「……この世の苦しみを、どうすれば終わらせることができるの?」
女神は微笑む。
「答えは、そなたの内にある。そなたはわが化身──わが声、わが目、わが手となる」
目覚めたとき、シィヤは小屋の中にいた。しかし、彼女の中にはもう「闇」だけが残ってはいなかった。手のひらに、いつのまにか刻まれていた七つの印。その中央には、知らぬはずの古代の文字──**「bu(ブ)」**の形が、ほのかに光を放っていた。
一方、神界では、変容を遂げた准胝が静かに座していた。
彼女の周囲には、金剛界と胎蔵界を繋ぐ曼荼羅が浮かび、その一つひとつの輪に仏たちの姿が現れては消えていく。
「この手に宿せしは、七倶胝の命……」
准胝の十八の手にそれぞれの法具が具現し、それが回転するたびに新たな光仏が顕現した。その光は彼女の胸の奥から生まれ、彼女の慈悲によって形を得るのだった。
しかし、彼女はまだ知らなかった。
七倶胝の命が生まれるところには、必ず「無明の影」もまた現れるということを──
そしてその影は、地上に迫りつつあった。
第四章 ブ(bu)の封印
東の果てにあると伝えられる「火の谷」──
そこには、かつて天界より堕ちた者が封じられていた。
シィヤは炎に包まれたその地へと足を踏み入れた。
盲目であるはずの彼女の足取りは、なぜか迷いがない。
まるで、見えぬ何かに導かれているかのように。
**
火の谷の入り口には、巨大な石柱がそびえ立っていた。
その柱には、古代語でこう刻まれている。
「ここに慈悲の種子眠るも、慈悲なき者 入るを許さず」
シィヤは手をかざし、静かに呟いた。
「慈悲とは、他者を許すこと……ではなく、共に傷つく覚悟」
その言葉に呼応するように、石柱がひとりでに割れ、炎の回廊が現れた。
彼女の試練が、始まる。
**
谷の奥、紅蓮の空のもとに立つのは、かつて天界で美と力を誇った天人──
だが今はその身を焼き、闇の契りを結んだ存在。名はラクシャーサ。
「……誰だ? この谷に入るとは」
「わたしは、シィヤ。准胝の導きにより、この地に来ました」
「チュンディーだと? ならば見せてみろ。慈悲とは、ただの偽善ではないと」
ラクシャーサは燃える剣を抜き、シィヤに向かって振り下ろす。
だがその瞬間、彼女はその刃を恐れもせずに抱きしめた。
炎が身を焦がす。それでも彼女は叫んだ。
「あなたの苦しみを、わたしが引き受ける!」
ラクシャーサの剣が止まった。
その目に宿っていた狂気が、ゆっくりと和らいでいく。
**
やがて、炎の地に蓮の光が咲いた。
空に浮かぶ十八の手──准胝の幻影が現れ、言葉を告げる。
「第一の種子、汝の内に芽吹け」
シィヤの胸に宿る黒い印が、今度は柔らかな金に染まる。
それが、慈悲の種子の証だった。
**
ラクシャーサは沈黙の中に膝をつき、目を閉じた。
「……我は敗れたのではない。許されたのだな」
「苦しみの中にある者を、敵とは呼ばない」
シィヤはそう答え、炎の谷を後にする。
そして、次の地へ──
そこには智慧の種子を守る、無知と執着に囚われた古き王が待ち受けている。
**
准胝仏母の声が、静かに響いた。
「七つのブ(bu)、すべてが揃う時、曼荼羅は再び回転を始める」
だがその背後で、もうひとつの力──
曼荼羅を断ち切らんとする「虚無の意志」が、密かに胎動を始めていた。




