UA-135459055-1

歓喜の頌歌 -銀座の瞑想者-

「歓喜の頌歌 -銀座の瞑想者-」

第一章 硝子の檻

午後七時、銀座の超高層ビルが夕闇に沈む時、私はいつも43階の窓辺で呼吸を止める。眼下に広がる光の銀河は、まるで無機質な宝石箱のようだ。ネクタイが首を絞め、革靴の中の足指が痙攣している。

「三上さん、営業部の数値また下がってますよ」

上司の声が背骨を伝わる。パソコンのブルーライトが視界を滲ませる。妻からのメール通知がスマホを震わせる。「今月の学費振り込み、まだですか?」液晶に映る自分の顔が、どこか腐ったリンゴのように見える。

第二章 風鈴の記憶

帰宅途中の路地裏で、ふと足が止まった。古びた仏具店の軒先に、青硝子の風鈴が揺れていた。小学生の頃、肺炎で生死を彷徨ったあの夏、病室の窓に下げてくれた母の風鈴とそっくりだ。

「生きてさえいれば」

掌から血の気が引く感覚を覚えた。あの時、氷枕に頬を押し付けながら聞いていた風鈴の音が、突然耳の奥で共鳴しだした。

第三章 紫陽花寺

土曜の朝、取引先の老舗店主に誘われるまま訪ねた郊外の寺で、私は奇妙な老人に出会った。紫陽花のしずくを纏った石畳の上、胡桃色の袈裟をまとったその男は、経本の代わりにタブレット端末を手にしていた。

「苦しみはデータの乱流のようなものさ」彼は境内の喫茶スペースで抹茶ラテを啜りながら言った。「適正欲望のフィルタリングこそが、現代人のサンガ(僧団)なんじゃよ」

第四章 夜明けの瞑想

老人が教えてくれたアプリの指示に従い、始発電車の轟音の中で目を閉じてみた。瞼の裏に浮かぶのは、取引先のクレーム処理リストでも、娘の運動会のビデオでもない。幼い日の病院の天井に揺れる風鈴の影が、波紋のように広がっていく。

「呼吸ごとに過去が溶ける」

突然、通勤ラッシュの雑踏が聖歌隊のコーラスに聞こえた。隣でスマホを操作する女子高生の指先から、無数の光の粒子が舞い上がる。

第五章 桜のアルゴリズム

クライアントとの決裂、娘の入院、妻からの別居宣言――全てが同時に押し寄せた四月。しかし不思議なことに、千鳥ヶ淵の桜並木を歩いている時、私は笑っていた。花びらが頬に触れる度、老人の声が蘇る。

「諸行無常はアップデート通知」

スマホのカレンダーに赤印が躍る。明日は取引先の最終決済日だ。しかし今、この瞬間、水辺に散る薄紅色の軌跡が、世界で最も美しいエクセルシートに見える。

終章 歓喜のコード

今日、私は銀座の交差点で瞑想する。信号待ちの90秒が瞑想タイマーに変わる。ビルのガラス幕牆に映る無数の自分が、ゆっくりと手を合わせていく。サラリーマン、父親、借金持ち、癌生存者――全ての顔が風鈴の音色で溶け合う。

「生きていることほど、すばらしいバグはない」

ふと気付けば、スマホの待受画面が「歓喜の頌歌」という謎のアプリに変わっていた。インストール日時はあの紫陽花の雨の日。未読通知が無限に増殖しているが、もう急ぐ必要はない。今日という名の課金アイテムを、丁寧に消化していけばいい。

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*