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雑阿含経・応説経(現代語訳)

 

雑阿含経・応説経(現代語訳)

このように私は聞いた。
ある時、仏は拘留国の雑色牧牛の集落に滞在しておられた。
そのとき仏は、比丘たちに告げられた。
「私は知と見(正しい智慧)によって、すべての煩悩(漏)を滅し尽くした。
無知のままで成し遂げたのではない。
では、どのように知見によって諸漏を滅したのか。
それは次のように知ることである。
これは色(身体)である。
これは色の生起である。
これは色の滅である。
受・想・行・識についても同様に、
これは識である。
これは識の生起である。
これは識の滅である。
このように正しく知ることである。
もし比丘が、修行の方法を修めず、道に随順して完成させることもなく、
ただ心で 『私は煩悩を尽くし、解脱したい』 と願ったとしても、
その比丘が漏尽解脱を得ることは決してない。

なぜか。
修習していないからである。
では、何を修習していないのか。
それは、
四念処
四正勤
四如意足
五根
五力
七覚支
八正道
これらを修めていないのである。

 

たとえば、卵を多く抱えた雌鶏がいても、
適切な時に温めず、世話もせず、
冷暖を調えなければ、
雛が自ら殻を破って安全に生まれることはできない。
それは雛に力がないからではない。
母鶏が正しく育てなかったからである。
同じように、
修行を勤めないまま解脱を望んでも、
それが実現することはない。

しかし、もし比丘が正しく修行を修め、完成へと向かうならば、
たとえ 「解脱しよう」 と特別に思わなくても、
その比丘は自然に煩悩を滅し、心は解脱する。
なぜか。
修習しているからである。
何を修習するのか。
すなわち、
四念処
四正勤
四如意足
五根
五力
七覚支
八正道
である。

それは、よく雛を育てる母鶏のようなものである。
時に応じて温め、
冷暖を適切に保てば、
雛は無理に助けなくても、
自ら殻を破って安全に生まれてくる。
同じように、
修行を正しく行う比丘は、
解脱を求めなくても、
自然に漏尽し、心は解放される。
また、巧みな職人や弟子が斧の柄を握り続けると、
知らぬ間に柄は少しずつ摩耗し、
やがて減っていることが現れる。
しかし本人は、 「今日これだけ減った」 「明日これだけ減った」 とは気づかない。
それでも確かに減っている。
修行者も同じである。
精進して修行していると、
日々どれだけ煩悩が減ったかは分からなくても、
やがて漏尽に至ったことを知る。
それは修習によるのである。

また、大きな船が海辺につながれていても、
つないでいる蔓が少しずつ切れていけば、
ついには自由になる。
比丘も同じである。
精勤して修行すれば、
次第に解脱へと近づく。
夏の六か月、風と日差しにさらされれば、
束ねられたものも自然にほどけていくように、
すべての結び・束縛・煩悩の絡みもまた、
四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道を修習することによって解かれていく。

この法が説かれたとき、
六十人の比丘は諸漏を起こさず、
心が解脱した。
仏がこの経を説き終えると、
比丘たちは仏の教えを聞き、歓喜して実践した。

 

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