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龍神を呼ぶ

 

龍神を呼ぶ

今こそ、龍神を呼ぶのだ。

龍神はあなたの呼びかけに

すぐに応えてくれる。

さぁ、龍神を呼ぼう。

あなたもすぐに

龍神の守護を受けられる。

奇蹟はもう始まっているのだ。

開祖は龍神について、次のように説かれている。

「龍神がぶ」より)

申を呼ぶ

 

 

特集

龍神を呼ぶ

開祖は龍神について、次のように説かれている。

(「神がぶ」より)

米美知来のご尊像をおかむと、ご本尊さまが座し給う大赤運華の座を、左右から手をさしのべてささえる二大龍王の、右が難陀、左が難陀である。しかし、また、三輪身観からいうと、これは、得属ではなくて、如来の変化身ということになる。

いずれにしても、準展如来さまを本尊として行をすると、この二大龍王が、護持の神霊として、☆ 辺をはなれずつねに守護してくださるのである。

そういうと、それでは、だれでも布展如来さまをおまつりして行をすれば、この二大龍尊の守護神がついてくださるのか、というと、そうはいかない。最もかんじんなことは、「法」が生きているかどうか、ということである。

「法」がなかったら、おまつりしたご本尊は、ただの木像、画像にしかすぎない。ただの木像、画像の本

身では、いくらおがんでも、行をしても、守護神、守護霊はつかないのである。問題は、そのご本尊が生きているかどうか、本尊の法が、如実に生きて躍動しているかどうかである。

にわかる。 では、その教団(でも個人でも)その「以」が生きているかどうか、どこでみわけるか? これはすぐ

それは、「法」が生きている教団は、如実にご本尊が生きて活躍されている。だから、しばしば「 形」するのである。

これが、本尊が生きているかどうかを見分けるポイントである。

ほんとうに「法」が生きて活動していると、本尊や存も現実に生きて活動しているので、じっさい

にそのおすがたを現わすのだ。いや、このいいかたは逆かも知れない。ご本尊や容属が、ほんとうに生きているから、「法」が生きているのであろう。本尊とその法とは表裏一体なのである。

そういうと、そんなことはあり得ない。神とか仏というものは、かたちなきものである。それがほんとうにすがたを現わすなんて、信じられない。そういうひとがいるかも知れない。

そうではないのである。それは事実なのである。むかしから、偉大な神があらわれたり、仏のおこころにかなった」宗が起きるときには、かならず、神、仏がおすがたを現わされる。そうして、その神な

り仏なりにつかえる聖者には、高い守護神や守護霊がつくのである。(中略)

まず、昭和四十五年一月、わたくしがはじめて「念力の護摩」を焚いたとき、準脈観世音菩薩さまが、お護摩の炎でもって身を荘厳され、現形された。以後、数十度にわたって、護摩修法中に降臨現形があった。しかし、それはいずれも、道場内での内護摩修法中であった。

ところが、昭和五十三年二月、阿含宗を創立して総本山道場建立の地とさだめた京都東山の花山において大柴燈護摩を修したところ、燃えあがる数メートルの火焰が、大龍神(火龍難陀龍王)のご霊体を現形されたのである。

つづいて、その翌五十四年二月の大柴燈護摩には、三身即」(大日・釈迦・準展の三身を一つにかねた)の大日如来が現形された。翌五十五年二月には、金龍(跟難陀龍王)さまが現形された。(中略)

わたくし自身に、春の守護神のついておられることをはっきり自覚したのは、昭和四十五年、乞力の後をしたときであった。念力で火を出して炊くという行中の銀行であるこのお護摩を焼く

に出したりした。恥ずかしい限りであって、あれはすべての火をつかさどる火龍さまが出してくださっ

 

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