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安那般那念法編 ―「息の門、心の門」

 

安那般那念法編 ―「息の門、心の門」

修行者トウマは、夜明け前の堂に坐していた。
山の気配はまだ眠っており、風も、虫の声も、すべてが息をひそめている。
師は言った。
「トウマよ、息を観よ。
息は、命の門であり、心の門である。」
トウマは静かに結跏跌座を結び、背筋を自然に伸ばした。
頭と頸は力まず、わずかにうなだれ、胸は柔らかく沈み、腹はゆるやかに前へと開かれている。
まず、師は言った。
「最初に、吐け。」
トウマは歯を軽く合わせ、口をすぼめ、腹の底から息を吐いた。
吐いて、吐いて、吐きつくす。
胸の奥、心の底、さらに深い層に沈んでいた重たい気配までもが、息とともに外へ流れ出ていくようだった。
「修行は、吐くことから始まる。
捨てることなくして、得ることはない。」
吐ききったあと、彼は唇を閉じ、鼻から細く、静かに息を吸い込んだ。
舌先は上顎の奥、離交と呼ばれる一点にそっと触れる。
空気は、細い糸のように、ゆっくりと身体の奥へと降りていった。
吸い終えたとき、みぞおちを落とし、肛門をきゅっと締め、下腹に静かな力を込める。
その瞬間、鼻からわずかに息を漏らす。
師はかつて言っていた。
「閉じるだけではならぬ。
必ず、逃がせ。
さもなくば、気は頭にのぼり、身を損なう。」
トウマはそれを思い出しながら、下腹から力を送り、ゆっくりと息を吐き始めた。
腹はしだいに収縮し、吐く息に乗せるように、低くマントラを唱える。
「オン……」
その声は、火のようでありながら、水のように静かだった。
吐ききると、腹は背骨に吸いつくようにへこみ、胸は空となり、心は透きとおった。
これが、長出入息呼吸法――
息の細さと長さに、ただ身をゆだねる安那般那念の第一歩であった。

四正断法編 ―「断つべきもの、護るべきもの」

ある日、師はトウマに言った。
「今度は、吐くことだけに心を置け。」
吸う息は自然に任せ、吐く息だけを、できるかぎり細く、長く。
トウマは息を吸い、そして吐く。
吐く、吐く、吐きつづける。
時間が伸び、心の波が静まり、思考は一つずつ岸へと消えていった。
やがて、一分に一度の呼吸となり、
彼の内側では、不要な思念が自然と断たれていった。
師は語った。
「これが、未生の悪を断つ断断である。
長く吐く息は、心に生じようとする妄念を、芽のうちに吹き消す。」
トウマは理解した。
これは単なる呼吸ではなく、
心の雑草を刈る呼吸なのだと。

安那般那念法編 ―「逆なる息、目覚める臓腑」

次に、師は奇妙な呼吸を教えた。
「自然と逆を行け。」
息を吸うとき、腹をひっこめよ。
吐くとき、腹をふくらませよ。
トウマは戸惑ったが、やがて気づいた。
これは腹ではなく、横隔膜を意識的に動かす呼吸であることを。
横隔膜が下がると、腹の奥が圧され、
上がると、内臓が引き上げられるような感覚が生じる。
その上下動は、ふだんの呼吸よりもはるかに大きく、
腹腔の中で、臓器たちが目覚めるように動き始めた。
師は言った。
「これは、心だけでなく、身の奥に巣くう怠惰と鈍重を断つ呼吸である。」
トウマは悟った。
この反式呼吸法は、
修断――すでに生じた悪を断つ修行に通じているのだと。
四正断法編 ―「火の息、律儀断の炎」

最後に、師はもっとも激しい呼吸を授けた。
「これは、火の息だ。」

片方の鼻孔を指で押さえ、もう片方で、短く、強く、鋭く呼吸する。
吐いて、吸って、吐いて、吸って。
まるで鍛冶場の鞴(ふいご)のように。
トウマの身体は熱を帯び、
腹の奥から、炎の柱が立ち上がるような感覚が広がった。
師は言った。
「これは、律儀断――
生じた善を護り、生じた悪を許さぬ、意志の炎である。」
やがて、一分間に一度の呼吸となり、
火は外へ暴れ出すことなく、
静かな炉心として、胸の奥に定まった。
結び ― 息と断と覚醒
四つの呼吸を終えたとき、
トウマはもはや「呼吸している」という感覚すら失っていた。
そこにあるのは、
息でもなく、身体でもなく、思考でもなく、
ただ――
断と観の静けさ。
師は静かに言った。
「息を観ずる者は、心を観ずる。
心を観ずる者は、悪を断ち、善を護る。
それが、安那般那念と四正断の結び目である。」
灯明の火が、ふっと揺れ、また静まった。
トウマはその夜、
“修行している自分”ではなく、
“修行そのもの”として、坐っていた。

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