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それは、瞑想からはじまる

 

それは、瞑想からはじまる

 

それは、ひとつの静かな問いから始まった。
「エレクトロニクスと霊性を結ぶものは、何ですか?」
わたくしは、前章で紹介した『間脳思考』について語っていたとき、そう尋ねられた。
そして、ほとんど考える間もなく、こう答えた。
――それは、瞑想からはじまる。
だが、その言葉は、終わりではなかった。
むしろ、そこからが始まりだった。
しばらく話が進んだあと、別の声が静かに投げかけられた。
「では、間脳を開発するのも、瞑想なのですか?」
わたくしは、首を横に振った。
「瞑想は、手段にすぎない。
それだけでは、大脳辺縁系と新皮質しか動かせない。
腹想だけでは、間脳は目覚めない。
間脳をはたらかす瞑想でなければ、オーラは生じない。
そして、オーラが生じなければ、カルマを越えることはできないのです。」
その場に、沈黙が落ちた。
「では……何が必要なのですか?」
わたくしは、ひとつの言葉を置いた。
――tapas(タパス)。
練行。補行。魂の鍛錬である。
学者はそれを「苦行」と訳すが、わたくしは、そうは呼ばない。
これは、自己を壊すための行ではない。
自己を変容させるための行である。
それがなければ、どれほど高い教えも、どれほど深い象徴も、ただの概念に終わる。
思念による王者の相承
古くから、チベット密教ニンマ派では、解脱の完成に三つの道があると説かれてきた。
一つ目は、「思念による王者の相承」。
それは、法身タターガタ――如来が、
言葉も象徴も介さず、直接、相手の心に自らの心を伝える方法である。
だが、ここでいう「心」とは、思考や感情ではない。
それは、存在そのものの波動であり、力そのものである。
この相承を受けた者は、たちどころに仏陀として完成する。
それゆえ、王者の相承と呼ばれる。
理想であり、究極であり、到達点である。
だが――
それを受けるための器がなければ、光は、ただ通り過ぎる。
存在とは、何か
存在とは、何か。
それは、究極において「放動」である。
波動であり、振動であり、動きである。
人間とは、「自分」という波動をまとった存在である。
カルマとは、その波動の癖であり、過去から引き継がれた重力である。
人は、地球の引力から逃れられないように、
カルマの引力からも逃れられない。
老い、病み、死ぬ。
出会い、別れ、執着し、苦しむ。
それらすべては、カルマと因縁という見えない重力によって、
人間が縛られている証である。
だが――
もし、その波動そのものを変えてしまったなら?
それは、引力からの脱出。
反重力の修行である。
存在の次元が、変わるのだ。
間脳という、鍵
人間の存在の波動を変える原点は、間脳の視床下部にある。
そこは、感情でも、思考でもない。
生と死、欲望と沈黙、肉体と霊性の境界にある場所。
この間脳の波動が変わると、全身の波動が変わる。
すると、人は、カルマの規制を受けない存在へと変容する。
それは、もはや「人間」と呼ぶだけでは足りない。
高次の霊的存在――そう呼ぶほかない。
このとき、特殊な霊光が発生する。
それが、オーラである。
オーラとは、感情の色ではない。
全身の存在波動が変化した証明である。
そして、その発光源は、間脳にある。
瞑想だけでは、この次元変化は起こらない。
瞑想は必要である。不可欠である。
だが、それは「条件」の一部にすぎない。
鍵ではない。
象徴と、言葉と、そして……
第二の方法は、「象徴による持明者の相承」。
象徴とは、言葉、形、色、音に、宇宙的な思想を圧縮したもの。
持明者とは、純粋な心で実相を見ることのできる者。
彼らは、導師から象徴を示されることで、
言葉を超えた教法を理解し、密教の核心へと到達する。
第三の方法は、「耳を通した言葉による人の相承」。
ラマが言葉を用い、理を説き、弟子に理解させる。
これは、ほとんどの人間が通る道である。
わたくしは、これらをこう分類する。
思念による王者の相承 → 間脳系=霊的バイブレーション
象徴による持明者の相承 → 新皮質系=マントラ、タントラ、象徴
耳を通した言葉による人の相承 → 大脳辺縁系=言葉、音楽、感情
これら三つは、世界中の宗教に共通する、究極への道である。
だが――
それでも、まだ足りない。
欠けているもの
究極至上のものに到達するために、
これら三つだけでは不十分である。
欠けているものがある。
それが――
tapas。練行である。
どれほど高い相承も、
どれほど深い象徴も、
それを受け止める存在が変わらなければ、光は根づかない。
tapasとは、自己の存在波動そのものを鍛え、変容させる行である。
苦しむための行ではない。
耐えるための行でもない。
受け取るための行である。
最高の光を、受け取る器になるための行である。
結び
だから、わたくしは言う。
それは、瞑想からはじまる。
だが、瞑想では終わらない。
思念も、象徴も、言葉も、
すべては道であり、扉であり、準備である。
だが、存在そのものを変える火――
その火を起こすのは、練行である。
カルマという引力を越え、
存在という波動を書き換え、
人が、人を超えるとき。
その始まりは、静かな瞑想であり、
その完成は、沈黙の奥に燃える、tapasなのである。

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