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千手観音

 

――千手観音(せんじゅかんのん)――
夜明け前、まだ世界が痛みの名を持たなかったころ、
その菩薩はすでに立っていた。
名を
千手千眼観自在菩薩――
または 大悲観音、蓮華王。
梵に सहस्रभुज(サハスラブジャ)。
千の手と、千の目をもつ者。
だが、その姿を見た者は知っている。
そこにあるのは、数ではない。
手は慈悲の広がりであり、
目は逃さぬ智慧であった。
合掌する二本の手は、
世界そのものを抱くために胸の前で静かに重なり、
その周囲に伸びる四十の脇手は、
迷いの数だけ、救いの道を差し出していた。
一本の手が、二十五の世界を救う。
だから四十の手は、
千に等しい。
救われぬ場所は、どこにもない。
その掌には、
宝剣があり、髑髏杖があり、
水瓶があり、蓮華があった。
怒りを断つための剣、
死を越えるための杖、
渇きを癒す水、
そして再生の花。
菩薩の背後には、
阿修羅が立ち、金剛力士が地を踏みしめ、
二十八部衆が沈黙の陣を敷く。
だが命令は下されない。
なぜなら、
この菩薩の力は、
「守る」ことではなく、
「気づく」ことだからだ。
千の眼は、
叫びにならぬ苦しみを見つける。
言葉になる前の孤独を、
涙になる前の痛みを。
餓鬼道に迷う者、
病に伏す者、
寿命を恐れる者、
愛に傷ついた者――
夫婦のすれ違いも、
恋に震える胸も、
すべては同じ光の中にある。
だから人々は祈った。
厄を除いてほしいと。
命を延ばしてほしいと。
病を癒してほしいと。
愛を、もう一度信じられるようにと。
子年に生まれた者は、
この菩薩を守り本尊として仰ぐ。
始まりの年に生まれた魂を、
始まりへと導くために。
千手観音は、
王の名を持ちながら、
玉座には坐らない。
王であるとは、
最も低い場所まで降りることだからだ。
蓮華王――
泥の中に立ち、
それでも花を咲かせる者。
今日もまた、
誰にも気づかれぬ場所で、
一本の手が伸び、
一つの目が、
静かに、あなたを見つけている。

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