弥勒の降臨説法
「――無着は、弥勒より“日光三昧”を授かったと伝えられています」
康安の声は、囲炉裏の火よりも静かだった。
「その後、記憶力は常人の域を超え、経論を一度聞けば失わなかったという。
そして、求聞持法もまた、明星を拝して修する行――」
康円は息を詰めて聞いている。
「日輪と明星。
天体と、光。
異なる名を持ちながら、同じ“鍵”を示している」
その瞬間だった。
「……おどろいた」
康安が、突然、声を張り上げた。
「な、なんです!」
康円は思わず身を引いた。火の粉がはぜる。
「今日という今日は、ほんとうにおどろいた」
康安はそう言うと、急に声を落とし、康円の目前まで顔を寄せた。
その目が、異様な光を帯びている。
「おぬしと――
まったく同じことを言った男が、もう一人いる」
「……え?」
「弥勒の現身説法。
求聞持法の原形。
奢摩他と毘鉢舎那による、速疾成仏の理――」
康安は、一語ずつ確かめるように言った。
「寸分、違わぬ」
康円の喉が鳴った。
「その人は……?」
「入唐している」
一拍。
「名は――空海」
康円の目が、大きく見開かれた。
「空海……?」
「おれより三つ下だ」
康安は、わずかに笑った。
「だが、おれはその男に師事している」
沈黙が落ちた。
火の音だけが、時を刻む。
「最澄師と比べて……どうなのですか」
康安はすぐには答えなかった。
遠くを見るように、しばし考え――
「最澄が、五百年に一人の天才だとすれば……」
そこで言葉を切り、
「空海は、千年に一人だ」
康円は、息をのんだ。
――むなしく往いて、満ちて帰る。
その言葉が、まだ誰にも知られぬまま、時代の底で胎動している。
そして、
時代は――
すでに、静かに動き始めていた。




