蓮華王 ― 千の手、千の眼の夜
千の手と千の目で一切の衆生を救う観音菩薩
Avalokitesvara Bodhisattva saves all living beings with a thousand hands and a thousand eyes
終電を逃した駅前は、いつもより静かだった。
広告の光は動いているのに、音だけが抜け落ちている。
車は走っている。
人も歩いている。
口は動いているのに――声がない。
最初に気づいたのは、耳ではなく胸だった。
胸の奥で、低い振動が続いている。
オン・バザラ・タラマ・キリク
誰かが唱えているわけではない。
スピーカーもない。
だが音は、確かに空間そのものから立ち上がっていた。
コンビニの前で、スーツの男が立ち尽くしている。
電話を耳に当てたまま、何度も口を動かす。
言葉は出ない。
代わりに、真言だけが街に残る。
オン・バザラ・タラマ・キリク
交差点で、若い女がしゃがみこんでいた。
泣いているはずなのに、嗚咽は聞こえない。
肩だけが小さく震え、
掌に落ちるはずの涙は、音を持たなかった。
その掌に、何かが触れた気配が走る。
誰もいない。
だが、彼女は顔を上げた。
オン・バザラ・タラマ・キリク
街の雑踏から、怒りが消えていく。
不満も、焦りも、説明も。
残ったのは、理由のない重さだけだった。
理由がないから、責めようがない。
責められないから、立ち止まる。
ビルの谷間で、風が一度だけ向きを変える。
見上げた空に、月はない。
代わりに、無数の手の影が重なって見えた気がした。
千ではない。
数えられない。
オン・バザラ・タラマ・キリク
その瞬間、音が戻った。
車のブレーキ。
信号の電子音。
誰かの咳。
誰かの笑い。
誰も異変を覚えていない。
だが、街の歩調が、わずかに変わっていた。
交差点の女は、立ち上がり、
自分でも理由のわからない安堵を胸に、歩き出す。
スーツの男は、電話を切り、
何も解決していないのに、深く息を吐く。
真言は、もう聞こえない。
だが、
必要なくなったから消えただけだった。
その夜、街は何も語らなかった。
ただ、
千の手が一度だけ、
音になった。




