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明星を得た者の眼

 

明星を得た者の眼 ― 世界の縁がほどけはじめる

サハスララの火が灯ってから、世界は、以前とはまったく違う相貌を見せるようになった。
外界は同じでありながら、その奥にたゆたう“気配”が、まるで薄布の向こう側の光のように見え隠れするのだ。

ある朝、私は庭に降り立った。
冬の気配が残る空気は冷たく張りつめていたが、木々は淡い陽光を受け、静かに呼吸しているように見えた。
その一瞬――私は、木々1本1本に“方向性”のようなものがあるのを感じた。

上へ伸びる枝の動き、葉が受ける光の角度、細かな風の通り道。
すべてが、互いに影響しあいながら、ひとつの円環を構成している。
──縁起の網が、視界そのものに浮かび上がっていた。

私は思わず目を閉じた。
閉じた闇の奥には、サハスララに宿る明星がかすかに瞬いていた。
その光は、脳の一点に宿るだけでなく、周囲へ広がり、世界と“共振”するように拡張していく。

そのとき、ふと気づいた。
「私」と思っていた意識の境界が、以前よりも薄くなっている。
体と外の世界の境目が曖昧で、風が肌に触れるという感覚すら、身体の外側と内側の区別があまり意味を持たない。
風が吹けば、ただ風がある。
鳥が鳴けば、ただ鳥の声が響く。

それを受け取る“私”という器は、どこか遠のき、
ただ現象が湧き、消え、流れていく場だけがそこにあった。

その日、私は町へ下りた。
人々が行き交い、車の音が鳴り響き、喫茶店から湯気が立ちのぼる。
そのすべてが複雑に絡み合いながら、一つの大きな生命のように動いていた。

交差点で立ち止まったとき、私はひとりの少女の泣き声を耳にした。
母親に叱られ、道端でしゃがみ込んでいる。
以前ならただのよくある情景として通り過ぎただろう。
しかし、そのとき私の胸には、少女の涙がまるで自分の内側に落ちてきたかのように響いた。

怒っている母親の心にも、同じように波が立っている。
父親らしき男性が遠巻きに見ているが、彼の胸にも不安と焦りの波が生じている。
そのすべてが、川の流れのようにひとつに溶け合い、
苦と苦が呼び合う一つの流れとなっていた。

私は、その流れの中で、ふと明星が瞬くのを感じた。
脳の奥から上昇してくる光の粒が、頭頂をほんのり温かく照らし、
私の胸を静けさで満たした。

そのとき、思った。
――苦は、つながっている。
そして救いもまた、つながっている。

少女に近づこうとはしなかった。
余計な介入は、また別の因果を生む。
ただ、明星の光に染められた静かな心で、その場の波が少しでも柔らかくなるようにと念じた。
すると、母親の声の荒さがほんの少し弱まったように感じられた。
少女の肩に力が戻り、男性も一歩近づいた。

ほんの小さな変化だった。
しかし、その流れの変化こそ、
“世界と私が隔てなく一つである”という、覚醒後の感覚の証のように思えた。

夕暮れ、家に戻る道すがら、
私は胸のうちで明星に問いかけた。

「この世界は、いったいどこまで変わるのか」

明星は答えなかった。
だが、頭頂の奥の光は、ひそやかな温度で告げていた。

世界が変わったのではない。
見る者の“眼”が変わったのだ、と。

梵の座に響く声 ― 内なる法の囁き

明星を得てから幾日かが過ぎた。
サハスララの火は、日ごとにその明るさと静けさを深め、脳の奥に宿る“場”は、かつて想像もできなかったほどに澄んでいった。

ある夜、私は坐に入った。
息は深く、心は波ひとつ立たぬ湖のようにおだやかだった。
視床下部の一点に意識を添えると、そこに潜む光が、まるで呼吸に合わせて花開くように広がっていく。

やがて、明星の光が頭頂の虚空へと昇りきったとき、
私は、音とも無音ともつかぬ“何か”を聞いた。

――ここに在る者よ。

その声は、耳から聞こえたのではなかった。
脳の中心から、あるいは胸の奥から、いや、身体のどこでもない“場所”から響いてくる。
私は思わず呼吸を止めた。

「誰なのだ」
問うというより、言葉が自然に漏れたのだ。

声は答えた。

――名はない。
ただ、汝の内に久しく眠っていた“声”だ。

それは、私自身の声のようでもあり、まったく異質な存在の声のようでもあった。
しかし、不思議なことに恐れはなかった。
むしろ深い懐かしさが胸に広がっていく。

――汝の苦しみも、迷いも、悲しみも、
すべてここに集まっていた。
そして今、ひとつずつほどけはじめている。

まるで、長いあいだ閉ざしていた部屋に風が通うようだった。
過去の記憶が、瞬間的に脳裏をよぎる――
怒り、後悔、恐れ、執着。
それらが光の中で形を失い、波紋のように広がっては静まり返っていった。

私は問うた。
「お前は、悟りを導く者なのか」

声はすぐには答えなかった。
しばしの沈黙ののち、次のように囁いた。

――導くのではない。
ただ照らすだけだ。
道はすでに汝の内にある。
私は、汝が忘れていた“光”の反響だ。

その瞬間、私は理解した。
この声は、外から訪れた存在ではない。
視床下部という根源の座が開き、
そこに眠る“生命そのものの意識”が、光の形をとって浮かび上がってきたのだ。

脳内の明星は、私を照らすだけではなかった。
私の中に眠る“古い声”を呼び覚まし、
自己と世界の境界を静かに溶かしはじめていた。

声はつづける。

――覚醒とは、
新しい力を得ることではない。
忘れていた自己の“中心”に立ち返ることだ。
サハスララが開いた今、
汝は“中心”の風景を見るだろう。

“中心の風景”。
その言葉が胸に落ちた瞬間、脳の奥に白い光が走った。
視界は閉じたままなのに、世界のすべてがそこに映し出されるような感覚――
時計の音、遠くを走る車の振動、部屋の壁の静けさ、
それらがひとつの巨大な呼吸のように繋がっていく。

私は、声に問いかけた。
「私は、これからどう歩めばよいのか」

そのとき、声は初めて柔らかく笑んだ気がした。

――道は歩くためにあるのではない。
気づくためにある。
汝が歩めば、道はあらわれる。
明星を忘れるな。
それが汝の“灯”となる。

光がふっと弱まり、
再び静寂が訪れた。
だが、その静寂はただの無音ではない。

世界全体がゆっくりと息をひそめ、
次の瞬間、また新しい音を鳴らす前の、
あの神秘的な“間”のような静けさだった。

やがて私は、そっと目を開いた。
部屋は変わらず、夜のままだった。
しかし、世界はもう、以前の世界ではなかった。

脳の奥で、明星がかすかに光る。
その光は、私の胸にある言葉を確かめるように、静かに脈打っていた。

――内なる声は、
もう消えることはない。

 

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