四神足法
早朝の霧が森を淡く包む中、青年・トウマは一歩ずつ足を踏みしめていた。
都会での日常を離れ、師・蓮慧に導かれ、ここまで来る道のりは長く、心の迷いも数多あった。
初めて師に出会ったのは、山里の小さな道場だった。
小雨に濡れた石畳の上、蓮慧は静かに座し、焚き火の前で青年を見つめていた。
「ようこそ、トウマ。ここからが本当の学びだ」
師の声は穏やかでありながらも、胸を打つ力を持っていた。
その日、トウマは自分の弱さを痛感した。恐怖、焦燥、過去の失敗——すべてが心を乱す。しかし、師の瞳に宿る静かな光に、どこか救いを感じた。
「この人の下でなら、歩めるかもしれない…」
彼は小さく息を吐き、心に決意の火を灯した。
深い森の奥、夕暮れの風が樹々を揺らしていた。
トウマは師の前にひざまずき、冷たい空気の中で心を落ち着ける。焚き火の炎が揺れ、夜の静寂が二人を包む。
「トウマ、この道は容易ではない」と師は静かに語り始めた。
「釈尊が説かれた『四神足』は、心と行を正しく整えるための修行だ。体と心で感じ、歩むことだ」
炎の光が師の顔を浮かび上がらせ、瞳が青年の胸を射抜く。
「まず、欲神足。これは志を立て、心を一点に集中させる力だ。私利私欲ではなく、大いなる目的に向かう志だ」
トウマは目を閉じ、胸の奥の願いを思い描く。だが、心はすぐにざわつく。
「自分にできるだろうか…」恐れと不安が波のように押し寄せる。
師は静かに手を差し伸べ、低い声で言った。
「迷いは自然だ。しかし志を思い出せ。志の力が、迷いを断つ刃となる」
その夜、トウマは山道を歩きながら、初めての修行を体験した。
落ち葉を踏む音、風の揺らぎ、夜の暗さ。孤独と恐怖が胸を締め付ける。足がすくみ、思わず立ち止まる。
「まだ、自分は弱い…」
しかし焚き火の残り香を思い出すと、胸の奥で小さな光が灯った。
「歩むのだ。たとえ一歩でも」
数日後、師は続けた。
「精進神足。志を立てただけでは力にはならぬ。行動を伴わねばならぬ。休まず続けよ」
トウマは連日、山道を歩き、焚き火の前で座禅を組み、呼吸を整えた。
手のひらは擦り切れ、膝は痛む。朝の冷気が骨まで染みる。眠気に襲われ、何度も立ち止まった。
しかし、師の言葉を思い出すと、再び歩き出す力が湧いた。
少しずつ、体が痛みに慣れ、心も疲労の中で研ぎ澄まされていく。
歩きながら、トウマは自分の内に生じる小さな成功や気づきに喜びを覚えた。
三つ目は心神足。
「志と精進があっても、心が散れば意味はない。心を一点に定めよ」
森の風、遠くの動物の気配、過去の記憶や恐怖が心を乱す。
トウマは目を閉じ、呼吸に意識を集中させた。吸う息で雑念を吸い込み、吐く息で手放す。胸の奥に静けさが広がり、心は一点に定まった。
師の言葉が思い出される。
「川の流れを堰き止め、滝とせよ」
森の小川のほとりに座り、水面に映る自分の影を見つめる。
心のざわつきが水の波紋のように広がり、やがて静まり返る。
「これが…心の一点か」
初めての感覚に、胸の奥に小さな喜びと安堵が芽生えた。
最後に師は柔らかく、しかし力強く語った。
「観神足。観とは智慧の目を開くこと。正しく観じる力があって初めて、志も精進も心の一点集中も、仏道となる」
トウマは深く呼吸をし、森の輪郭、山の陰影、夜空の星々を観じた。
風や鳥の声、焚き火の音が一体となり、すべての修行が一つの流れとして胸に流れ込む。
志、精進、心の集中、そして観が重なり合い、彼の内に静かで強い力が宿った。
焚き火の炎がゆらめき、森に静かな余韻が広がる。
トウマは師の顔を見上げ、静かにうなずいた。
「四神足は、別々のものではなく、互いに支え合い、ひとつの道になるのですね…」
師は微笑み、夜風に揺れる森を見渡した。
「その通り。知り、感じ、歩むこと。それが真の修行だ」
火の温もりに背を預け、トウマは静かに目を閉じる。心の中に、今日までの修行のすべてが走馬灯のように巡る。
志を立てたあの日、胸の奥に生じた恐怖。
連日の精進で疲労に押し潰されそうになった体。
乱れる心を呼吸で一点に整えた瞬間。
そして、観の智慧が開き、世界と自分が一つに繋がった感覚。
「すべては、自分の内にあったのだ…」
トウマは小さく呟き、未来への決意を胸に刻む。
「迷い、恐れ、挫折もあるだろう。しかし、歩み続けよう。四神足の道を、最後まで自分の足で進もう」
森の闇に、彼の覚悟の炎がゆらめき、夜は静かに深まっていった。




